倫理や道徳なんか知らない・ネアンデルタール人論204

都市論はまだまだ書きたいことがあるのだけれど、いつまでたってもまとまりがつかないし、きりがないからもう終わりにする。
そのうち、あらためて考え直してみたい。
とはいえ、ネアンデルタール人論とはつまるところ都市論かもしれない、とも思う。
人類は、ネアンデルタール人の登場とともに都市的な知性や感性、すなわち都市的な「エスプリ(機知)」に目覚めていった。つまり人類は、拡散すればするほど都市的になっていった、ということ。そしてそれは、人と人が他愛なくときめき合うことの上に成り立っていたわけで、これはただの道徳論ではない、意識の根源のはたらきや生物の進化論の問題でもあるはずだ。
人の心の底には邪悪なものが潜んでいる、それが原始性で、人類は原始時代から戦争の歴史を歩んできたと考えている人は多い。
そうだろうか。
そんな複雑さや邪悪さは文明発祥以降に肥大化してきた「自我」の問題であって、人間なんてもともとどうしようもなく単純で他愛ない存在だろう。そしてじつは、その単純で他愛ないところにこそ高度で人間的な知性や感性の輝きがある。
人類が原始時代以来戦争ばかりしてきたと考えている人は、どうかここに言ってきていただきたい。そういう人と議論がしてみたいと思っている。そんなのぜんぜん嘘だと思うし、恨みっこなしで議論がしてみたい。

E・レヴィナスは、人間性の自然・本質に根差した「倫理」の問題として、「他者の悲惨さや邪悪さを自分のものとして引き受けることだ」と語っているが、僕なんかそんなご立派な「自分」など持ち合わせていない。自分はどんなに悲惨な他者よりもみすぼらしい存在だと思っている。
生きるために自分に課しているものなどない。「他者の心を引き受ける」といわれても、引き受けることができる「自分」がいったいどこにあるのか。自分なんかどこまでもみすぼらしくあいまいで、すぐ自分を忘れて何かに夢中になってしまう。われながらじつにしょうもなく軽佻浮薄な存在だ。そして、すぐあっけなく傷ついて、「もう生きられない」と思ってしまう。
自分には、自分を支配する「倫理」などない。ただなんとなくの「性分」のようなものがあるだけだ。まあレヴィナス先生のようなお偉い人たちのことはよくわからないが、われわれ愚かで弱いものたちは、ただの「性分」のようなものに支配されて生きている。
人は根源において、他者の何ものも引き受けないし、説得もされない。他者によって「自分」を発見する、などというが、もともと発見するべき「自分」など持っていない。
「自分」なんか知って、いったいなんになるのか。僕は「あなた」のことが気になるだけだ。「私」は、「私」の喪失と引き換えに「あなた」を発見する。「あなた」の身体を抱きしめれば、「あなた」の身体ばかり感じて、「私」の身体に対する意識は消えている。
意識にとって確かなことは世界や他者が存在するということだけで、「自分」という存在があいまいだからこそ、「われ思うゆえにわれあり」なという自分の存在証明をしようとするし、自分の確かさに執着してゆく病的な観念も起きてくる。
「他者の悲惨を<私>のものとして受け入れる」だなんて、なんだか高潔な言葉のように聞こえるが、僕は「ずいぶん傲慢なことをいってくれるじゃないの」と思う。ユダヤ人だからかどうか知らないが、レヴィナス先生は他人をなめているよ。それは、他者を説得=支配しようとする意欲が旺盛で、説得=支配できると思っていることの裏返しなのだ。他者の悲惨を引き受けることなんかできるものか。われわれは、、夏になればもう、冬の寒さがどんなに耐えがたいものかということをすっかり忘れて「暑い、暑い」と嘆いている存在なのだ。自分の過去でさえリアルに反芻できないのに、どうして他者の「悲惨」を自分のものとして実感できるというのか。その引き受けることの不可能性にこそ、他者に対するせつないほどの「遠い憧れ」や「ときめき」の契機があるのだ。
レヴィナスはこういう。「他者の悲惨に居合わせたとき、<私>は当の悲惨を否応なしに受け入れている。<私>は他者の苦痛を苦しむ。<私>は他者の<身代わり>として在る」……僕はこんな人格者ぶった言い方が大嫌いなのだ。人にやさしいように見えて、人をなめているだけなのだ。まあ、そうやってユダヤ人は商売上手になってゆく。他人の心なんかかんたんに操ることができると思っているから、そういうことがいえる。その裏返しの言葉なのだ。他者を支配するものは、自分もまた「神」に支配されている。ユダヤ教徒イスラム教徒のそういう傾向の強さが、ヨーロッパ人を苛立たせる。その唯我独尊の作為性のなんと胡散臭いことか、と。そうやって彼らは、「自分=自我」を成り立たせることばかりに執着して、自分を忘れてときめいてゆくということなんか何もしていない。

意識の根源において「自分=身体」は、身体という輪郭の中に納められた「非存在の空間」であって、肉体という物性を持った「存在」ではない。したがって「自分」には、邪悪さも悲惨さも善良さも意志も計画性も詰まっていない。ただの「かっらっぽ」の空間なのだ。
身体が動くということは、身体を「空間」としてあつかう、ということだ。身体のまわりに空間がなければ、身体は動くことはできない。身体がが動くことは、身体が空間と同化してゆくことだ。身体が動くとき、意識は、身体を動かそうとしているのではなく、身体が動くことのできる「空間」をイメージしているだけだ。「空間」がイメージできなければ、身体は動かない。まあこれは身体論の大問題であり、こんなふうに簡単に言ってしまっても論理として成り立つことはできないのだろうが、とにかく我々は、「空間」をイメージしながら身体を動かしているのであって、身体を動かそうとしているのではない。動かそうとする意図よりも早く身体は動く。そうやってピアニストの超絶技巧が成り立っている。そのときピアニストは音をイメージしているのであって、指はもうほとんど勝手に動いている。主婦がまな板の上でねぎを刻むときだって同じで、意識は「手=包丁」の動きを追いかけているだけであって、へたくそな初心者ほど、手を動かそうとする意識が強すぎてかえって鈍くさい動きになってしまっている。
とにかく身体が「からっぽの空間」になるということはひとつの「肉体の喪失」であり、そういう「喪失感」の上に体の動きが成り立っている。つまり、このことをつきつめていえば、われわれの命のはたらきと連動した意識のはたらきは「喪失感」の上に成り立っている、ということだ。

人間性の自然としての根源的な意識は、他者の存在のありようを引き受けて「一体化」してゆくことはしない。「一体化」しようとしないで、その喪失感のままに「別れ」を受け入れてゆくはたらきであり、そうやって原始人は地球の隅々まで拡散していった。
原始人が戦争ばかりしていたら、人類拡散など起きていない。定住して自分のテリトリーを広げようとしていただけだろうが、じっさいにはテリトリーなど捨てて地球の隅々まで旅立っていったのだ。
レヴィナスは、他者の他者たるゆえん(=顔)を引き受けて他者の「身代わり」になることが人間性の自然であり本質だというが、われわれは「引き受ける」ことも「身代わり」になることもできない。そんな傲慢なことはようしない。説得することもされることもできない。また彼は、人間性の自然として「自己の死を気遣う以前に、他者を、彼(女)の苦しみと彼(女)の死を気遣うこと」の「責任」を負っているというが、他愛なく愚かな存在でしかないわれわれには、そんな「責任」を負うことはできない。他者の「苦しみ」を「自分」のものとして実感することなんかできない。「アフリカの飢餓のことを想え」などといわれても、「いまここ」の目の前の「あなた」のこと以外に考えられない。イスラム国がどんなに邪悪かということも、よくわからない。誰も「責任」など負っていない。「責任」などというご立派な態度は「神」にまかせておく。人間性の自然においては、この世界のすべては赦されている。誰も裁かないし、誰に対しても責任は負わない。
人間性の尊厳などというものはない。人間なんてしょうもない生きものだ。だからこそ、すべては赦されている。
そりゃあアフリカの飢餓やイスラム国の暴走があっていいとは思わないが、起きてしまったことはもうしょうがないし、助けようとする人もいれば、それどころじゃない人もいる。それは、「しなければならない」ことではなく、「せずにいられない」こととして遭遇する。しなければならないことなど何もない。いったいどうなるのだろう、という思いは誰の中にもあるし、このままの状態が永遠に続くわけでもないだろう。歴史のなりゆきが、われわれをどこかに連れてゆく。
ひどい世の中になったら嘆くしかないし、ひどい世の中になったらいけないという決まりもない。人は、「生きられなさ」を受け入れてしまう。受け入れなければ人の生は成り立たないし、滅びてしまってもかまわない。自分なんかあいまいな存在で、この世に「あなた」が存在するということだけがたしかなことだ。
人は、レヴィナスがいうほど、自分の生をどうこうしようとも思っていない。むしろ逆に、自分の生から支配され、自分の生を追いかけて生きているだけだ。他者に「反応」しても、他者の生を引き受けることなんかできない。その「引き受けることができない」というところから人間的な「連携」が生まれてくる。
まあ、他者にサービス=献身することは、他者の「生きられなさ」を引き受けることだともいえそうだが、じつはそうではない。自分もまた「生きられなさ」に身を置くことではない。自分が生きられるかどうかなんてどうでもいいことで、自分なんか忘れて(=捨てて)献身してゆくのだ。べつに「責任」を負っているのではない。その「生きられなさ」にときめいているだけだ。その「生きられなさ」にセックスアピールを感じているだけだ。人は「責任」で献身するのではない。「ときめく」からそうせずにいられないだけだ。
レヴィナスの論理は、自分もユダヤ人として、ナチスによるユダヤ人大量虐殺に対してユダヤ人がなぜ無抵抗であったかという問題をどう総括するかというか、その無抵抗であったことをどう肯定し止揚してゆくかというテーマがあるのだろうが、けっきょく「自分」をどう成り立たせるかという自我の安定と充足に執着したことばかりいっているわけで、まあユダヤ人らしいといえばまさしくユダヤ人らしいし、自意識過剰の内田樹が尊敬するのも当然かもしれない。
僕なんかユダヤ人や内田樹に比べたらどうしようもないアホだけど、それでも「他者の悲惨を<私>のものとして受け入れる」とか「<私>は他者の苦痛を苦しむ」などという言い方なんか、自意識過剰の人間のただカッコつけているだけのセリフにしか聞こえない。まあ、命かけてカッコつけているのだろうけど。
ともあれ現代人は、こういう自我の充足・安定に役立つ哲学というか物言いに、どうしても引き寄せられてしまう。
何度でもいう。人類の歴史は、生き延びようとする自我=自意識によってつくられてきたのではない。「もう死んでもいい」という勢いで目の前の「今ここ」の「世界の輝き」に他愛なくときめいてゆきながら人間的な知性や感性を進化発展させてきたのだ。
レヴィナスのいう、「私=自己」に向かう「責任」という心の動きなんかどうでもいい。なにはともあれ「私=自己」を忘れた「ときめく」という心の動きがなければ、「献身」という態度は生まれてこない。それが日本列島のサービスの文化の伝統であり、ネアンデルタール人をして氷河期の北ヨーロッパという苛酷な環境を生き残らせていった人と人の関係の心模様だった。