直立二足歩行の起源を問うことは、人間の根源的な習性とは何かと問うことでもある。しかし、それを問えば社会に役立つとか、そんなことは僕の知ったことではない。僕は、それが知りたいだけだ。
われわれはきっと誰もがその根源的な習性を抱えて生きているが、この社会がそのことの上に成り立っているとはかぎらない。
この社会は、あなたたちのものだ。この社会をよくするためというようなことは、あなたたちで考えていただきたい。僕は、この社会に「あなた」がいることを思い、「あなた」に向かって語りかけているが、この社会をよくしたいというようなことを考える趣味も能力も資格もない。
どんな世の中になろうと、それがわれわれの運命であり、なるようにしかならない。
何がいい世の中かという正解などない。それはだれにも決められない、と思っている。
「こうしなければならない」とか「こう考えねばならない」とか、「こう生きねばならない」とか、よくそんな偉そうに人を指図するようなことがいえるものだ。善人や才能がないやつにかぎってそういうことをいいたがる。人は、才能に限界を感じると、そういう着地点を見つけようとする。
僕だって才能なんかないが、着地点が欲しいと思ったことはない。ひとまず考え続ける。考え続けなければ生きていられない。
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内田樹先生は「人間は神から人間的責務を付託されている」とおっしゃる。まあこれが、才能のない人間が最後に見出す着地点なわけですよ。「神の付託」と思ってしまえば、そこから先はもう考える必要がない。典型的な思考停止のパターンだよね。
勝手に神を捏造するなよ。
神を捏造しないかぎり、「神の付託」などというものは存在しない。
神は、「神の付託」を受け取ることの不可能性として存在する。
存在しない、というかたちで存在する。
人は、神を捏造することを覚えたことによって、「こうしなければならない」とか「こう考えねばならない」とか、「こう生きねばならない」とか、そんな偉そうなことを思い描くようになってきた。
僕は、人間がそんな偉そうな発想するのが当然の生き物だとは思っていない。少なくとも原始人にはそんな発想はなかったし、彼らは神を捏造することもしなかったはずだ。彼らにとって神は、感じるものであって、捏造するものではなかった。彼らには、「……ねばならない」という発想はなかった。
人間がみずからの身体を支配することを覚え、支配することそれ自体を覚えたことによって、神を捏造するようになってきた。
まあ、「家族」という親が子の心や体を支配する空間で、そういう思考を覚えさせられるのだろうね。親に反発してそれを拒否する、というケースもあるが、人類史においては、「共同体の発生」が「神の捏造の発生」だったのかもしれない。つまり、「一神教の発生」、ここから「……ねばならない」という思考が生まれてきた。
いずれにせよ、そんなことはどうでもいい。それは、人間の根源的な習性ではない。人間は、二本の足で立ち上がらねばならないと思って立ち上がったのではない。気がついたら立ち上がっていたのだ。立ち上がったら動物としての身体能力を大幅に喪失するのに、それでも立ち上がってしまった。
そして、気がついたら体毛を失っていた。体毛をなくさねばならない事情があったわけではない。寒いところにいて体毛をなくしたら困るのに、それでも気がついたら抜け落ちていた。
人間は、「……ねばならない」などと考えて、望むとおりの歴史を歩んできたわけではない。
しかし、何もしなかったわけではない。「せずにいられない」ことがあった。そういうことがあったから二本の足で立ち上がってしまったのであり、体毛が抜け落ちてしまったのであり、その「せずにいられない」ことこそが根源的な習性だ。
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衣装は、人類が体毛を失ったことと引き換えに生み出されてきた。
しかし、体毛の代わりの防寒の道具というわけではない。防寒が必要なら、体毛を失うことはない。防寒のための体毛など必要のない暮らしになっていったから、体毛が抜け落ちた。したがって、防寒のために衣装を生み出した、という根拠は成り立たない。
もしも前回に言ったように、見られることのストレスによって体毛をなくしたとすれば、頭髪が残っているのは、そこではとくにストレスを撃退しようとする免疫作用が強く働いているのかもしれない。
脳のある頭部は、もっともストレスを受ける部分だろう。だからこそ皮膚の新陳代謝も活発に働いて、体毛を失わなかった。性器の周辺も、まあそういうことかもしれない。性器の場合は、もともと尿意というストレスを抱えているから、脳と同様にもともと皮膚の新陳代謝が活発な部分であるのかもしれない。
人間は脳を酷使するから、頭髪も際限なく伸びてゆく。頭部には過剰なカロリーが供給されている。
頭部にせよ性器周辺にせよ、その部分の皮膚は、世界との関係ではなく、身体内部との関係に置かれている。だから、世界との関係の「見つめられている」というストレスから逃れることができている。
拒食症に陥ると、体毛が濃くなるそうである。それは、皮膚感覚が世界との関係を失って、身体内部との関係に終始してしまっているからだろう。
何はともあれわれわれの皮膚は、世界との関係を意識する部分に置いて体毛を失っている。
男は、女よりも世界との関係のストレスが希薄である。だからいくぶんか体毛が残っている。とくに西洋の男は毛深い。
そのようにいくぶんか体毛が残っているということは、人類の体毛が抜け落ちたのはそう遠い昔ではないことを意味する。
現在でも、ごくまれに全身が体毛に覆われた赤ん坊が生まれるそうである。こういう「先祖がえり」の突然変異が起きるのは、人間の体毛が抜け落ちてからまだあまり時間がたっていないからで、百万年単位の遠い昔なら、遺伝学的に起きるはずがないのだとか。
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原初の人類は、二本の足で立ったことによって、たがいに見つめ合う関係をつくっていった。
四足歩行の動物が正面から向き合うのは、戦闘態勢に入っているときである。
しかし人間は、正面から抱き合い、セックスをする。正面から向き合い、言葉を交わし合う。人間は、正面から向き合うことによって親密な関係をつくってゆく。
二本の足で立ち上がることは、ほんらい、とても不安定で、しかも胸・腹・性器等の急所を相手にさらしてしまうのだから、正面から向き合えばとても大きな不安や恐怖を伴うはずである。
目をつぶって垂直飛びを繰り返すと、知らない間にだんだん後ろに下がってゆくらしい。それは、体の正面に無意識の不安と恐怖を抱えているからだ。
またそれは、前に倒れやすい姿勢である。だから正面から抱き合えば、たがいに支え合っている関係になり、生き物としてのそういう安堵をもたらす。
ただ相手が前に立っているだけでも、姿勢が安定する。その、相手が前に立っているというプレッシャーによって、はじめてきちんと立つことができるともいえる。
人間にとって相手と正面から向き合うことは、もっとも不安と恐怖を伴うと同時に、もっとも直立の姿勢が安定する関係でもある。
人間は、その不安と恐怖を飼いならしながら、つねに正面から向き合い、親密な関係をつくってきた。
そして正面から向き合えば、どうしても相手を見つめてしまう。そのとき見つめられることは生き物としての大きなストレスであると同時に、人間としてのよろこびでもある。よろこびそれ自体がストレスでもある。
この人間的な関係のストレスと快楽は、群れが密集してくることによって、より一層顕著になり、やがて人間は、年中発情している生き物になり、正面から向き合って言葉を交わし合うようになっていった。
人間は、群れの密集をいとわない生き物である。それによってストレスも大きくなるが、快楽も大きくなる。
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原初の直立二足歩行は、群れが密集しても共存してゆくことのできる姿勢としてはじまった。
したがって人類の歴史は、時代を経るにしたがって群れが密集していった。群れの個体数の増減に関係なく、どんどん密集して暮らす生き物になっていった。
人間は、密集状態を生きようとする習性をもっている。そしてそれを可能にしたのが、正面から向き合い親密になってゆくという関係である。
人間は、根源的に見つめられて存在している。このことによって体毛が抜け落ち、衣装が生まれてきた。
人類の群れの密集状態が本格化してきたのは、50万年前以降の、氷河期の北ヨーロッパに住みつくようになってからのことだろう。その、寄り添い合って密集していなければ生きてゆけない過酷な環境で、年中発情しているようになり、言葉を交わし合うことも本格化してきた。
そうして、体毛が抜け落ち、やがて衣装が生まれてきた。
そのころ地球は、数万年ごとに温暖期と氷河期を繰り返していた。氷河期に体毛が抜け落ちるということはなかっただろう。そのあとの温暖期が来て、どんどん抜け落ちていった。つまり、氷河期に寄り添い密集してゆく暮らしが極まり、その暮らしのまま体毛がなくても生きてゆける温暖期を迎えたとき、だんだん体毛が抜け落ちていった。
そのとき彼らが体毛という衣装を失った代わりに新しい人工的な衣装をまといはじめたとしたら、それは、防寒のものではなかったはずだ。見つめられることの不安と恐怖、すなわちその居心地の悪さに耐えて見つめられることのよろこびを確保するものだったはずだ。
まあ冬場は、体毛の代わりになる動物の毛皮か何かをまとったかもしれない。しかしそれは、あくまで体毛の代わりであって、新しい人工的な「衣装」とはいえない。体毛がなくなってしまえば、防寒の必要などない季節にも何かをまとわずにいられなかった。それが、げんみつな意味での「衣装の発生」だったのだ。
そしてこのころが、ネアンデルタールという人類が出現したといわれているおおよそ20万年前ころのことだろうと僕は考えている。
衣装は、見つめられることの居心地の悪さに耐える装置として生まれてきた。これは、衣装の根源的な機能であると同時に、「おしゃれ」という究極の機能にもなっている。
おしゃれな着こなしは、見せびらかしもしないし見られることを拒否することもしない。「すでに見られている」ことのストレスと恍惚の上に成り立っている。おしゃれは、人間の根源的な習性の上に成り立っている。おしゃれこそ、衣装の起源である。
そして原初の人類は、二本の足で立ち上がることによって、まさにこのストレスと恍惚を体験していったのだった。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
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