やまとことばと原始言語 26・「ことだまのさきはふくに」

何はともあれ「衰弱」の時代なのだ。
「衰弱」の嘆きを共有してゆくことによって味わい深い連携が生まれてくる。
衰弱の嘆きを共有している者たちによっておしゃべりの花が咲く。ことばは「共有」の機能である。日本列島の古代では、これを、「ことだまのさきはふくに」といった。
やまとことばは、根源的には、「伝達」ではなく「共有」のコンセプトの上に成り立っている。
コレクティブ・ハウスというコンセプトが生まれてきたということは、現代人がいかに「語らい」の現場を欲しているかということのあらわれである。われわれはもう、「いかに生きるべきか」というような自我意識の肥大化した問いよりも、「どうすれば生きていられるか」という根源的な問いを共有してこの時代の中に置かれている。もう、そういうところに立ち返るほかないところに追いつめられている。もう、バブルの時代ではないのだから、「いかに生きるべきか」などという欲深い問いはもてない。
「どうすれば他者との楽しい語らいの場に立てるか」ということは、「どうすれば生きていられるか」ということでもある。それがあれば、人は生きられる。日本列島の住民は、根源においてそういう願いを共有している。そういうところから「ことだまのさきはふくに」という表現が生まれてきた。
「(大和は)ことだまのさきはふくに」とは、「おしゃべりの花が咲きそろっている国」、すなわち「心と心が響きあっている国」ということだ。それ以上でも以下でもない。古代人は、それ以上でも以下でもない生きてあることの切実な願いを共有していたから、そういう表現が生まれてきたのだ。
ことだまとはことばに宿る霊魂である……などという通俗的な古代文化の解釈はそろそろもうやめたほうがいい。
「ことだま」とは、人々がことばに託して「共有」している感慨のこと。「たま」とは、感慨のこと。何ゆえ「霊魂」などと訳さねばならないのか。そんな概念は、仏教文化の輸入ともに入ってきた大陸からの借り物にすぎない。
「たま」ということばは、おそらく縄文時代からあった、原初的なやまとことばのひとつである。縄文人は、霊魂などという概念は持っていなかった。そんなスケベったらしくわずらわしい観念行為は現代人のものであって、古代人が共有していた生命観ではない。彼らはもっと率直に、生きてあることそれ自体を問うていた。
そしてこの時代を生きるわれわれもまた、そうした根源的な問いの前に立たされている。
年間3万人以上の自殺者を生み、たくさんの人が「もう生きていられない」という感慨を抱いてしまっている時代なのである。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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