やまとことばと原始言語 27・洗練と献身

僕は、テレビでフィギュアスケートの競技を見るのは嫌いではない。
もうずっと小塚選手に注目してきた。
先のオリンピックの時点でも、8位になった彼こそが世界でいちばん美しいスケーティングをする選手だった。
僕はすぐひいきの引き倒してしまうくせがあるから、彼に比べたらほかの選手はみんな「イモ」だと思っている。
その小塚選手が、今年は一皮向けて世界的な大会(グランプリ・シリーズ)を2連勝して、世界チャンピオンになるのも夢ではなくなってきている。
この前の大会では、フランスの選手と一騎打ちのような争いなり、フランスの選手が盛んに観衆にアピールする表情や身のこなしを振りまきながらけっこう高得点を出したのに対し、小塚選手はもう、そんな媚を売ることもなくひたすら美しい滑りに専念してライバルを圧倒してしまった。
もう、格が違う、て感じだったのだ。
たとえ誰が相手だろうと、ジャンプさえ互角に戦えれば、彼に勝てる選手なんかいない。
なめらかでストロークの長い優雅な滑りは絶品で、しかもスタイルがよくて身のこなしも洗練している。
いまやもう小塚選手は、ただ一人「洗練」の文化のスケーティングで、世界中の「目立つ」ことが武器の選手たちと戦っている。
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「世の中、目立てば勝ちさ」という傾向はたしかにある。
しかしそれだけではすまないのも人間である。みんなから隠れて「ひとりになりたい」と思うときもある。
目立とうとする衝動が人間社会の繁栄をもたらしたのかもしれない。しかし同時に人間は、目立つことを抑えて洗練してゆく、という文化も持っている。ことに日本列島の文化は、洗練することが第一義的なコンセプトになっている。
ともあれ原初の人類が直立二足歩行をはじめた契機も、目立とうとしたのではなく、他者と体をぶつけ合ううっとうしさから逃れるようにして二本の足で立ち上がり、たがいにひとりの空間を確保していったことにあるわけで、「ひとりになりたい」という願いは誰の中にもある人間の根源的な心の動きのはずである。
誰もが目立ちたがったら、連携なんかできない。誰もが自分消して「ひとり」になっているからこそ、味わい深い連携が生まれてくる。
「ひとり」になることは、他者と「連携」することなのだ。そのとき誰もが、「ひとり」という思いを共有している。
人間の群れは、限度を超えて密集している。人間にとって群れは、うっとうしいものに決まっている。
だからこそ群れから隠れて「ひとりになりたい」と思うし、群れの中で抜きん出て(目立って)「ひとりになりたい」とも思う。
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誰もが自分を消して連携してゆく社会と、誰もが目立とうとして自己を確立してゆく社会。衰弱し洗練してゆく文化と、膨張拡大して華やいでゆく文化。まあ人間社会の文化はこの両方の傾向を併せ持っているのだが、このどちらを優先するかは、国によっても個人によっても時代によっても違ってくる。
誰もが目立とうとすれば、けっきょくみんな同じになって誰も目だっていないことになる。それでも目立ちたいのなら、目立ち方のランク付けが必要になってくる。そのようにして「階層」というものが生まれてくる。「所有」という意識が肥大化してくる。
わたしにあってあなたにはない……という格差によって「目立つ」ということが保証される。他者に先んじて所有しているものがなければ、目立つことはできない。そうやって他者を差異化し差別化してゆく機能として、「所有」という意識が生まれてきた。それは、「人間は目立とうとする存在である」という認識が社会的合意になっている集団から生まれてきた。
「所有」することは自分と他者を差異化することであり、差異化して自分を確立してゆこうとする社会から生まれ発展してきた。自分を消して連携してゆこうとする社会からは、なかなか生まれ育ってこない。たとえば日本列島の昔の農村社会では、多くのものが「私有」ではなく「共有」されていた。それは、この国の歴史風土が「衰弱=洗練」の文化になっているからだろう。
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直立二足歩行がはじまったとき、誰か一人が目立とうとして立ち上がったのか。
立ち上がったひとりは、ボスになれたか。
なれるはずがない。それは、とても不安定で、胸・腹・性器等の急所をさらした危険な姿勢でもある。攻撃されたら、ひとたまりもない。四足歩行の姿勢のほうがはるかに俊敏に動けるし、急所も隠されている。
たとえ棒を持って戦っても、ただの猿が慣れない姿勢でそんなことをしてもたかが知れている。相手の急所を一撃で倒す、などということができるようになるまでには、何十万年何百万年もかかる。棒を持っても、圧倒的に不利なのだ。試しに、そうやって猿どうし戦わせてみればいい。最初の一回はこけおどかしで相手も逃げるかもしれないが、二回目三回目となれば、棒を持って立ち上がっているほうが必ずやられる。
つまり、最初に立ち上がったものは、群れでいちばん弱い存在になるということである。
そうしてみんなが真似して立ち上がっていったというのも、論理的に矛盾がある。みんなが立ち上がれば、立っていることは目立つことにはならない。したがって、目立とうとして立ち上がるという契機では、永久に群れ全員が立ち上がるということにはならない。
それは、弱い存在になるという姿勢なのだから、みんながいっせいに立ち上がらなければ実現しない。そのときみんなで「弱い存在になる」ということを「共有」していったのだ。
それは、「衰弱」し「洗練」してゆく姿勢だった。
そのとき人類の群れは、限度を超えて密集していた。みんながその状態をうっとうしいと思い、もう身動きできないと絶望し、弱い存在になって自分を放棄していった。
したがってそのとき、誰も王のように君臨したのでもなければ、誰も奴隷のように屈服したのでもない。たがいに弱い存在として、「嘆き」を共有しつつ、群れの密集状態から押し出されるようにして立ち上がっていった。
自分から立ち上がろうとしたのではない。そのような状況から押し出されるほど弱い存在になったのだ。
人間は、根源的に弱い存在であり、受動的な存在である。
歴史は個人がつくったのではない、時代がつくったのだ。人が社会をつくるのではなく、社会が人をつくる。社長になれば社長のような顔になってくる、というではないか。まあ、そのようなことだ。人間の歴史は、「状況」から押し出されるように新しい事態を実現し、新しい能力を獲得してきた。
人間は、立ち上がろうとして立ち上がったのではない。ことばを話そうとしてことばを獲得していったのではない。連携しようとして連携していったのではない。そういう「状況」に押し出されるようにしてそうなっていっただけのことだ。
つまり、そういう「契機」を持っていたのであって、そういう「衝動=志向性」を持っていたのではない。
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一緒に食事をしておごってやる。
それは、他者に「贈与」をすることによって他者を差異化し、「自己」を確立する行為か。まあ、金持ちは、そんなふうにしていい気分に浸っている。
しかしそれは、まとめて払っただけのことであり、そのようにして食事代を「共有」しただけのことだ。貧乏人どうしは「俺に払わせてくれ」という。「おごってやる」などとはいわない。われわれはそのとき楽しい時間を「共有」したのであり、その確認として「俺に払わせてくれ」という。
それは、「贈与」ではなく、「献身」である。
「おごってやる」なんて、野暮の骨頂である。
自分を消して「共有」したものを止揚してゆくかたちで「俺に払わせてくれ」という。そのとき金にはなんの価値もなく、捨てるように扱っている。その金は、私のものでもあなたのものでもない。われわれが「共有」しているものだ。貧乏人は、そういう気持ちになりきることができる。これが日本列島的な「連携」のかたちであり、「衰弱=洗練」のかたちである。
金持ちが金を贈与するのなら、貧乏人は、金を捨てる。金を捨てて連携してゆく。
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人間は、根源的には、目立とうとする能動的な衝動を持った存在ではない。そういう衝動を持たせる社会の仕組み(構造)があるだけのこと。そうやってひとりひとりが「自己」を確立しようとする衝動を持てば、社会は活性化する。われわれは、そういう社会の仕組みに追い立てられて「自己」を確立しようとしてゆく。「自己」を確立しようとして、目立とうとしつつ「所有欲」をたぎらせてゆく。
「所有」の証しとして「おごってやる」という。彼は、そういうかたちで「ひとりになる」ということを実現している。
しかし日本列島の住民は、「自分を消す」ことによって「ひとりになる」。自分を消して他者と連携してゆくことによって「ひとりになる」。
人間にとって群れはうっとうしい対象であるが、群れから離れようとはしない、隠れようとする。
群れから離れてしまえば、「ひとり」という意識もない。群れの中にいて、はじめて「ひとり」という意識が成り立つ。
「ひとりになりたい」という意識は、群れから「離れたい」という意識ではない。群れの中にいて、群れから「隠れたい」という意識なのだ。
そしてそれが、二本の足で立ち上がる、という行為である。
そのとき原初の人類は、他者の身体とぶつかり合わない孤立した個体になることによって、限度を超えて密集した群れの中で共生し連携してゆくことを実現していった。そのとき「ひとりになる」ことは、他者と連携してゆくことだった。
それは、たがいの身体のあいだの「空間=すきま」を共有してゆくことであり、そのようにしてみずからの身体のまわりの空間をを確保することは、他者の身体のまわりの空間を確保することでもあった。その「空間=すきま」は、わたしの所有でもなく、あなたの所有でもなかった。
「共有」するものだった。
それは、「目立つ」ことではなかった。誰もが四足歩行の身体能力を放棄して、たがいの身体のあいだのの「空間=すきま」を確保してゆくことだった。
そのようにして誰もがみずからを消去し、「ひとり」になれる空間を共有していった。
それは、みずからを消去するという「献身」だった。
「献身」とは、みずからを消去しつつ、他者と何かを「共有」してゆく行為である。
一方的に何かを「与える」とか、そういうことではない。
人間にとって「ひとりになる」ことは、他者と何かを「共有」することである。つまり、「ひとりになる」ということを共有してゆくのだ。
人間は「ひとりになる」存在であると同時に、けっしてひとりにはなれない存在でもある。「ひとりになる」ことこそ、他者と「連携」してゆくことなのだ。人間は、意識の根源で「ひとりぼっち」のタッチを持っているからこそ、他者と連携してゆくことができる。
それは、「伝達」することでも「贈与」をすることでもない。「共有」することであり「献身」することである。
限度を超えて密集した群れの中に置かれている人間存在は、生きてあることの「嘆き」を「共有」しつつ、「献身」し合う関係の上に成り立っている。
そのようにしてわれわれは「衰弱=洗練」のかたちを止揚してゆく。
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しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
幻冬舎ルネッサンス新書 ¥880
わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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