祝福論(やまとことばの語源)・もう一度閑話休題

ゆかさま
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僕は、「諜報機関」とか、そういう問題は認めません。
自分の「外」の問題にしてもしょうがない、と思っています。そういうことはもう、自分の中で処理してしまうしかないのではないか、と。そして、早く丸ごとの「ゆか」さまに戻ってもらいたいと思っています。僕にとってゆかさまはとても魅力的で尊敬もしているけど、「のりを」さんも「諜報機関」も、興味がないのです。
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僕がさんざんこのブログを荒らされた相手は「イカフライ」という人です。
たしかにあなたがおっしゃるように、その人は、僕に追い詰められたのかもしれません。だから、反撃しているつもりだったのかもしれません。追い詰められたのだから、俺には反撃する権利がある、と思ったのでしょう。そういう意味で、ひといちばい追い詰められやすい心の動きの持ち主であるのかもしれない。いつだって、「俺は反撃している」という大義名分があるのでしょうね。
しかし自分より弱い相手や未熟な相手にちょっかいを出して攻撃させておいて、それを倍にして反撃してゆく、というのは、あまりいい趣味とはいえません。そうやって弱いものや未熟な相手をいたぶって自分のアイデンティティを確認してゆく、という醍醐味を彼は見つけてしまった。もう、つねにそれをしていないと生きられないのかもしれない。
そうやって、ようやく精神の平衡を保っているのかもしれない。
まあ僕なんか、まさしく「弱くて未熟な」相手ですからね、絶好の餌食です。
あなただって、そういう意味で僕と同じような人種であるのかもしれない。
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僕は、イカフライという人のブログにコメントなんか書いたことはありません。そのブログを貶めるようなコメントは書くべきではない、というたしなみくらいは持っているつもりです。
反撃は、自分のブログでします。
そして僕は「弱くて未熟な」人間だから、荒らしまくられたらもう、そのコメントを消すか、それでもだめなら、包丁を持って会いに行くしかありません。このブログを続けるかぎり、そういう覚悟というか用意だけはしておこうと決めました。
僕は、「諜報機関」も「おじさん」も当てにしません。僕には、自分の心を操作する才能も、精神の病の中に逃げ込む才能もありません。だったらもう、包丁を持って会いに行くしかないじゃないですか。
道義的にいいことだろと悪いことだろうと、そんなことを考える趣味はもともと持ち合わせておりません。
このブログを荒らしまくられたら、そりゃあ追い詰められますよ。そしてそれを処理する上手な方法も、僕は持っていない。だったらもう、包丁を持って会いに行くしかない。僕のように「弱くて未熟な」人間には、そういう方法しか残されていないのです。
僕は、精神の病に逃げ込むということは、うまくできない。そういう才能がないらしい。
自分のことは、自分で支えるしかない。「諜報機関」にも「おじさん」にも頼めない。
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とりあえず今のところは、「やまとことばの起源」を懸命に考えることしか方法はない。
出版の当てなんかなくても、ひたすら書き続けるしかない。そしてそれだけは、できそうな気がします。なぜなら、中西進先生よりも僕のほうがはるかに「やまとことばの起源」に推参できている自信だけは、たっぷり持っているからです。
中西先生のいうことのほうが上だと思うのなら、どなたでもどうぞいってきていただきたい。そのときは、どんなコメントも決して消したりしない。可能なかぎり誠実に返信するつもりでいます。
中西先生ていどの語源説が僕の考えるところよりも確かだなんて、今のところ僕はつゆほども認めない。でも、ほんとうにそう認めるしかないのなら、僕はもう頭を抱えて地べたを転げまわります。精神の錯乱のところに逃げ込んだりはしない。ひたすら泣きわめいて「ごめんなさい」とひれ伏します。
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「ゆか」さん。僕は、あなたと「諜報機関」のことや「あの人」のことなど、そして「おじさん」のことだって語り合いたくはない。
僕は、あなたの「やまとことば」に対する素養と書きざまの美しさを尊敬している。
だからやまとことばのことを語り合いたい。
僕とそんなことをしても不毛なだけだ、思われているのかもしれないが、それでも何とかそういうことがあなたと語り合える人間になれたら、と今がんばっている。