「ケアの社会学」を読む・59・おわりに

   1・介護の仕事なんかやってられない
この国の介護士離職率は高い。それは、収入が少ない、というだけの問題じゃない。「老人は介護を受ける権利を自覚し主張せよ」などという愚劣な扇動が大手を振ってまかり通っている世の中だからだ。そんなくそ厚かましい老人ばかりの世の中なら、そりゃあ介護の仕事をすることもいやになってしまうさ。
扇動するのはこの本の著者である上野千鶴子氏だが、この人は、どうしてこんな卑しく程度の低い思考ばかりするのだろう。
人と人の関係に対する視線が粗雑すぎるのだ。
介護士には、老人に介護を受ける権利を自覚し主張されることのプレッシャーがある。それはきっと、とても鬱陶しいにちがいない。介護の仕事なんかやってられなくなる。
仕事を続けるということだけでなく、われわれがこの世界で生きてあるためには、人と人の関係がクリアされていなければならない。そこがうまくいかないと、仕事が続けられないどころか、生きていられなくなる。そういう問題として、介護するものとされるものとの関係を考えてみる必要がある。どちらも、それなりに生きるか死ぬかのレベルでせっぱつまっているはずなのだから。
それは、夫婦や親子よりももっと、いやになったから別れるというわけにいかない、のっぴきならない関係なのだ。
権利や義務や金のことだけで解決される関係ではない。人と人が関係することの根源的な位相が、そこに横たわっている。
言い換えれば、そこにこそ、人と人の関係の究極のかたちがある。
その根源であり究極でもある関係のかたちとして、ここではひとまず「寄生」ということを考えてきた。寄生し、寄生させる関係、そこに、人と人の関係の希望と絶望がある。
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   2・それでも人は、介護をせずにいられなくなる
介護の関係は、まさに寄生し寄生させる関係である。われわれは、この関係を希望に向かって問うてゆくことができるか。
寄生することに、権利は存在しない。権利は存在しないから、寄生というのだ。そして、寄生させる義務もない。体が動けなくなった老人は、さっさと死んでゆけばいいだけの存在である。それはもう、そうなのだ。本人だってそう思うしかないし、命の本質は死んでゆくことにある。
それでも人は、介護せずにいられなくなる。それは、命の本質が死んでゆくことにあり、死んでゆくことの根源性というかその尊厳に随行したいからだろう。
死んでゆくという状態に、介護される権利など存在しない。それでも人は、どうしても人の死を看取りたいのだ。そうやって人は、死んでゆくことに希望を見出す。
死んでゆくことが希望でなければ生きてなどいられないし、命のいとなみの根源は、死んでゆくことに対する反応として起きている。そうやって生物は進化してきた。
じっとしていれば息苦しくなってくるように、「死んでゆく」ということは、命のはたらきの根源のかたちである。そうやって「死んでゆく」ことに対する反応として生き物の「意識」が発生してきた。
この生は、「死んでゆく」というかたちの上に成り立っている。だから人は、介護せずにいられなくなる。このとき、介護しなくてもいいのに介護するのだから、介護することもまた、ひとつの「寄生」という行為である。
生き物の行為の契機は、「死んでゆく」ということにある。
人と人は、「死んでゆく」事態の苦しまぎれで関係を結んでゆく。関係を結ぼうとするのではない。結んでしまうのだ。結ぼうとするのなら、ちょうどよい規模の集団しかつくらないし、ちょうどよい仲にしかならない。しかし人間は、むやみに大きく密集した集団をつくってしまうし、むやみに深入りしてやっかいな仲になってしまう。
人間ほど関係の醍醐味を知っている生き物もいないし、人間ほど関係のストレスを深く抱えている生き物もいない。
生き物は、苦しまぎれに関係を結んでしまうのだ。とくに人間は二本の足で立っているし、死を知ってしまったし、もっとも不完全で不安定な存在の仕方をしている生き物である。
不完全で不安定な生き物だから、むやみに関係を結んでしまう。
人間のむやみに大きく密集した集団なんか、「共生」などというお気楽で快適なレベルではない。
人と人がむやみに仲良くしたり傷つけ合ったりしている関係なんか、「共生」などというお気楽で快適なレベルではない。
人と人は、「共生する」という目的など持っていない。だから、むやみに度を超えた集団や関係を持ってしまう。それは、「寄生」し合っている関係なのだ。
人と人は、存在そのものにおいて、すでに「寄生」し合っている。原初の人類が二本の足で立ち上がることは、たがいに向き合い「寄生」し合う関係になることだった。
人と人は、関係し合いたいわけではないのに、すでに関係し合って存在している。
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   3・当事者とか専門家だからといって全面的に信用できるわけではない
介護の関係は、人と人のもっとものっぴきならない関係のひとつである。
人間は、人殺しもすれば、自分が死んで相手を生かすという献身の行為だってする。これは「共生」という関係ではないだろう。
殺意を抱くのは、それほどに相手の存在が自分の心のかに寄生してしまっているからだし、殺すという行為自体が寄生してゆくことだともいえる。献身することもまた、それ自体が、他者に寄生し他者を寄生させるという一方通行の関係である。
人を好きになることだって、自分の心の中にその人を寄生させることであり、自分の心もまたすでにその人に寄生してしまっている。
人と人の関係は、深く純粋になればなるほど、一方通行の「寄生」という関係になってゆく。
介護の関係だって、どちらものっぴきならない「寄生」という関係なのだ。
つまり、騒々しい田舎っぺのブスが、権利だの義務だの介護士の収入だのとか、おひとりさまだのネットワークだのとわめいているレベルで説明できる関係ではない、ということだ。
この人は、人とのっぴきならない関係になったことがないのだろうか。人に本気でときめいたりときめかれたりしたことがないのだろうか。
権利だの義務だの介護士の収入だのという問題は、世界中どこでも考えている。そんな問題の解決の仕方は、世界がそれぞれの事情に合わせて解決されてゆくのだろう。
この国が世界に向かって発信できるものがあるとすれば、それは、介護の関係それ自体に対するこの国独自でしかも人類の普遍でもある思想なのではないだろうか。
介護は、生の尊厳を止揚する行為ではない。この生のいとなみは、情けなくもしんどい反復にすぎない。しかもそれは、永遠に続く反復ではない。介護という行為は、この事実を受け入れてゆくことの上に成り立っている。
介護を受けるものが介護を権利など主張するべきではない。
介護をするものが介護をすることの正当性など主張するべきではない。
われわれは、介護の関係を、人間存在の根源までさかのぼって考えることができているか。
こういう問題になると、介護の現場にいる人たちが、当事者ではないおまえらに何がわかるものか、という。
介護している人とか、介護されている人とか、介護施設の運営に携わっている人とか、介護について研究している社会学者とか、そういう「当事者」であるすべての人たちに問いたい。あなたたちは、ほんとうに人間存在の根源にまでさかのぼってこの問題を考えることができているのか、と。
僕は、この問題に関して、今のところ、経験においても知識においても、まったく当事者ではない。だから、おまえがしゃらくさいことをいうな、といわれれば、ごめんなさい、と答えるしかない。
しかし、とりあえず根源にまでさかのぼって問うてみようとする労力だけは割いたつもりだ。
できることなら誰かひとりくらい「そんなことではない、こうなのだよ」といってきてほしかった。そうでないと、「当事者」だから何もかもわかっているとはかぎらない、という思いは、どうしてもぬぐえない。
ほんとにあなたたちが、この国だからこそのイノベーティブで普遍的な介護の思想を世界に向けて発信できるのか、僕はまだ半信半疑だ。
人が人を介護することの普遍的根源的な関係性はどこにあるのだろうか。僕に答えなんかない。しかし、あなたたちが当事者の正義や専門性を主張するのなら、そんなことは信用しない。あなたたちのつらさも正当性も、僕の知ったことではない。そのつらさも正当性も、つねに「他者」のもとにある。あなたが「こうすればいい」と結論すること自体、なんだかいかがわしい。
介護の現場には、そのときその場の待ったなしの関係があるだけだろう。どんな過ちも許されないわけではない。人間の「せずにいられない」ことや「するしかない」ことの切実さや必然性を思うばかりだ。
介護の現場がある、という人間の自然……われわれは、このことをどう考えればいいのだろう。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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