たまのをの・起源としての枕詞9


このシリーズのこのあとはもう、ぐだぐだと「霊魂」の問題が続きます。われながらしつこいなあと思うのだけれど、どうしても気になる。もともと霊魂などというものを深く考える人間でもなかったのに、気になってしょうがない。もちろん、霊魂という問題意識が大切だというのではない。ようするに「そんなものどうでもいいじゃないか」といいたいだけなのだが、現代社会は、僕が考える以上にこの問題と深く結び付いているらしい。
枕詞の研究者だって、どうしても「霊魂」という問題意識が手放せない。
どうしてなのだ、そんなのどうでもいいじゃないか、そんな問題意識で考えているから、あなたたちは、つまらないこじつけをして平気でいられるのだ……。
なにごとも「霊魂」という概念を持ってくればつじつまが合ってしまうらしい。つじつまが合わなくても合っているつもりになれるらしい。
われわれの心は、どこかしらで「霊魂」という概念に侵されている。


古代人にとっての枕詞は、現代の研究者が考えるよりもずっと大切なものだった。
そこには、彼らの世界観や生命観がこめられている。すなわちその言葉は彼らの「身体感覚」から生まれてきた。
「古代人は霊魂の永遠を信じていた」とか、もうそんなステレオタイプな考察はやめたほうがいい。
現代人の意識は、つねにスケジュールの未来に向かっている。そうやって時代は目まぐるしく変化して動いてゆく。
しかし縄文時代は、1万年もほとんど社会の構造や人々の暮らしの意識が変わらなかった。それは、彼らの意識がむやみに未来に向いていなかったからだ。彼らは、生きてある「いまここ」を味わいつくして暮らしていた。
生きてある「いまここ」に対する意識の切実さが、彼らとわれわれ現代人とではまったく違う。そしてそれは、この身体がこの世界と向き合ってどのように存在しているのかという「身体感覚」の問題であり、その「身体感覚」が世界観や生命観のもとになっている。
その「身体感覚」から枕詞が生まれてきた。
その「身体感覚」をかんたんにいえば、彼らは、この身体に肉や骨や内臓がつまっていることが鬱陶しくてならなかったために「からっぽの身体」になりたいという願いを持っており、「からっぽの身体」になってゆく心地のカタルシスを汲みあげる作法を問いながら生きていた。それが「みそぎ」ということであり、それが「からっぽの身体=姿」に対する美意識の伝統になっていった。
人類の文化や意識が発達したり行動様式が複雑になってくれば、つよく死を意識したり身体に対するストレスもふくらんでくる。それとともに医療技術も進歩してきたのだが、それ以前に意識だけが発達して医療が未熟のままの「はざまの時代」があった。
その「はざまの時代」に、日本列島ではひたすら「からっぽの身体」になろうとする身体意識になってゆき、大陸ではアニミズムが生まれてきた。
アニミズム(霊魂信仰)を持たなかったから、「からっぽの身体」になって「みそぎ」を果たそうとする「姿」の美意識の文化が育ってきた。
現代人は、身体に「霊魂」をつめて安心しようとする。それに対して古代人は、何もつまっていない「からっぽの身体」に「みそぎ=カタルシス」を感じていた。
少なくとも古代以前の人々は霊魂という概念など知らなかった。
霊魂という概念は、文字とともに大陸から輸入されたものにすぎない。
「からっぽの身体」とは、まあ「衣装」のことだといってもいい。言葉の肉体は「意味」であり、衣装は「音声」である。その「衣装=音声」がまとっている「感慨のあや」こそ、枕詞の正味の「姿」である。



古代人は、歌にひとまず枕詞という衣装を着せずにいられなかった。そういう枕詞を着せた「姿」に対する美意識があった。だから、時代を経るにしたがって、意味のこじつけや語呂合わせのような、かたちだけのいわば枕詞のための枕詞も生まれてきて、最終的には千以上になったといわれている。
まあ、現代人にとってわけがわからないような枕詞はみなプリミティブなものだったのだろう。そして表記文字に惑わされた愚かな解釈で意味をこじつけてしまっているものが多い。
それは、「意味の表出」ではなかった。「感慨の表出」だった。
枕詞は、あとの言葉の意味を説明しているのでもなければ、霊魂の役割を果たしていたのでもない。その言葉に着せられた「衣装」だった。
古代以前の人々にとっては、「霊魂」のことよりも「衣装=姿」のほうがもっと切実な問題だったし、この「姿」に対する感受性こそ日本列島の美意識の伝統なのだ。
人間が衣装を着ることは、共同体の制度性の問題ではない。衣装は、肉や骨を忘れた純粋な身体の輪郭であり、じつはこの輪郭によってわれわれは身体活動をしている。そういう「からっぽの身体」にならないと体はうまく動かない。「からっぽの身体」という意識の位相において、「体が勝手に動く」ということが起きている。
われわれにとって体はやっかいな対象である。それは、意識の操作だけで動いているのではない。意識で操作しているようでいて、じつは勝手に動いてしまっている。その「勝手に動いてしまっている」というタッチをちゃんと持っていないと上手く動かない。
そして、勝手に動いてしまっている身体には、肉も骨もつまっていない「からっぽの身体」である。意識は、肉や骨に指令を出しているのではない。「からっぽの身体の輪郭」に向か
って指令を出し、「からっぽの身体の輪郭」が勝手に動いてしまっている。
われわれは、「コーヒーカップを取ろう」と思っても、「手を動かそう」とは思わない。手を動かそうと思うことの不可能性というものがある。
生き物は、体は勝手に動く、という信頼がなければ、身動きひとつできない。
それは、身体を動かす「霊魂」がはたらいているからか。そうではあるまい。霊魂が支配できるのは、肉や骨であって、「からっぽの身体の輪郭」ではない。それは文字通り「からっぽ」なのだから、霊魂もつまっていない。つまり、そういうプリミティブな意識の位相から霊魂という概念が発想されることはない。
体が動くことは、自分とか霊魂の操作によるのではなく、いわば「なりゆき」なのだ。そういう「なりゆき」を感じることが原始的古代的な心性だったのではないだろうか。
文明が発達すれば、医療のことなど、だんだん肉体を支配できるようになってくる。しかしそれによって人は、「からっぽの身体の輪郭」という意識の位相が希薄になってくる。それを補うために衣装を着るようになってきた。
肉体を支配しコントロールできるということは、そのぶん肉体の鬱陶しさも強く抱え込むということでもある。現代人は、暑さ寒さや痛さ苦しさに対する耐久力が、古代人や原始人よりもはるかに弱くなっている。だから、衣装にこだわって「からっぽの身体の輪郭」を取り戻そうとする。
「からっぽの身体の輪郭」に対する意識は、生き物としての本能のようなものだ。
そして人間の使う言葉もまた、「意味という肉体」を支配しコントロールしているだけの機能では息苦しくなってしまう。
勝手に音声がこぼれ出てしまうというタッチがなければおしゃべりははずまない。言葉だって、「勝手に動いている」のだ。いちいち言葉を思い浮かべながら話しているのではない。勝手に文節になってゆく「なりゆき」というものがある。
生き物は「なりゆき」で生きている。その「なりゆき」が豊かに生まれるためには、「からっぽの身体の輪郭」という「衣装」を持っていなければならない。
「あおによし奈良の都」という「なりゆき」の妙というものがある。それは、言葉の「衣装=姿」に対する美意識である。「霊魂」などという問題ではない。



日本列島の古代以前の人々は、「霊魂」など発想しなかった。ひたすら「からっぽの身体の輪郭」という「衣装=姿」を大切にしていた。
「たま」という古語は、ひとまず「霊魂」のことだと解釈されている。
しかし古代以前の人々にとっての「たま」とは、「霊魂」のことではなく、胸に溢れてくる思いのことをいっただけだ。だから、いっぱいになることを「たまる」という。
「た」は「立つ」「足る」の「た」、「充足」「到達」「完了」の語義。かたちが整うこと。
「ま」は、「まったり」の「ま」、穏やかに安定しているさま。
語源的には、充足感が胸に溢れてきて「たま」という音声がこぼれ出てきたのだ。霊魂など関係ない。
いまどきの歴史家はみな、原始神道アニミズムだったといい、古代以前の人々はみな「霊魂」という概念とともに生きていたかのように考えているらしい。
「たま」という古語は、もともと「霊魂」という意味ではなかった。「霊魂」というものをイメージしたからそれを「たま」と名付けたのか。そうではない。言葉は、そのようにして生まれてくるのではない。「たま」という音声がこぼれ出るような感慨があっただけだ。少なくともやまとことばはそのようにして生まれ、洗練されてきた。だから、「たま」という言葉は、いろんなニュアンスで使われている。「たまに」とか「たまたま」という言葉だって、最初の「たま」という音声を水源としているのだ。
「たまに」とは、一回きりの充足のこと。
「たまたま」は、偶然の充足。
丸いものを「玉(たま)」というのも、それが充足完結したかたちのように感じられるからだ。
大陸文化が入ってきてから「たま」に「霊魂」という漢字を当てたのも、そういう感慨を表す言葉のひとつかと思っただけで、霊魂のなんたるかを知っていたのではない。
少なくとも「たま」というやまとことばは、古代になっても霊魂という意味では使われていない。
だから現在では、死霊とか悪霊とか怨霊とか背後霊とか、霊魂のことは「れい」という漢字読みの言葉を使うだけで、「たま」という言葉に「霊魂」というイメージを重ねている日本人なんかほとんどいない。それは、もともと「たま」という言葉に「霊魂」という意味などなかったからだ。
「たましい」という言葉があるではないか、という人もいるかもしれないが、それは「心をひとつに込める」とか「思いつめる」というようなニュアンスだった。「し」は「固有性」の語義、「い」はその強調。「たましい」とは、自分だけの心。「霊魂」というのならそういうことかなあ、と思っただけだ。
おそらく「霊魂」という概念は大陸の陰陽道とともに入ってきたのであり、それまでの日本列島の住民はそんなものは知らなかった。



「たま」が付く枕詞の「たま」はただの接頭語である。
では、「たまのをの」という枕詞の場合はそうではないのだろうか。
いや、これだって例外ではない。「を」という一音がこの枕詞の感慨なのだ。「を」という音声がこぼれ出る感慨のことを「たまのを」という。「たま」といってもまだ足りないから「たまのを」といっただけのこと。
現在では、この枕詞の「たま」は「命=霊魂」のことだとほとんどの人が思っている。
「たまのを=玉の緒」とは「宝玉の穴を通す紐」のことだと辞典には書いてある。
まあ、玉=霊魂と玉=霊魂をつなげるもの、といいたいのだろう。だからこの枕詞は「逢う」という言葉にかかるといわれているのだが、実際にはそれだけでなく、ほかの枕詞以上に多種多様な言葉があとに置かれている。もうあとにかかる言葉の規則などない、というくらいに。
そのあとに「逢う」という言葉が多く置かれているとしても、「たまのを」の「を」は、ほんとうに「宝玉をつなげる糸」のことだろうか。
「を=お」は、「おーい」の「お」、「負う・追う」「置く・奥」「押す・捺す」の「お」、すなわち「を=お」という音声は、心が何かに「向かう」ときに口の端からこぼれ出てくるのだ。
「りんごを剥く」というときの「を」は、心がリンゴに向かっていることを表している。
「たまのを」とは、何かに向かう心。願い、祈り、あこがれ、決心、何かに夢中になっている心、関心。ほんとうは「たま」といわなくても、「を」といっただけでそういう「心のあや」を表している。
・・・・・・・・・
■たまのをを あわ緒によりて結べれば のちにも逢はざらめやも
■たまのをの 現(うつ)し心や 年月の行きかはるまで妹に逢はざらむ
・・・・・・・・・
両方とも逢いたいという「向かう心」を表している。それだけのことだが、ここでの「たまのを」がかかる「逢う」という言葉の置き方は、ちょっと変則的である。それは、次の句ではなく、最後の句に置かれている。それでも研究者は、ここでは「あわ緒」や「現(うつ)し」にかかっていると、いかにも強引で堅苦しいこじつけをしている。
そんなことをいっても、「向かう」というニュアンスを持った「たまのを」という言葉には「逢う」という言葉がいちばん似合うのだ。
「たまのを」というくらいだから、「たま」よりも、この「を」という言葉が主役なのだろう。だから研究者は、この言葉のあとに「長い」とか「短い」という言葉が来ると、それが「紐」という意味だからだというのだが、そういうことではないのだ。
それは、命(霊魂)の「緒」とか「紐」というようなことではない。こんなものはすべて後世の人間のこじつけだ。
この「を」は、「向かう」という心の動きを表している。だから「逢う」にかかる。
それだけのことなのに、今ではこの「たま」に「命」とか「霊魂」という意味が付与されて、なんだかまがまがしいニュアンスの言葉のようになってしまっている。
「霊魂=命の緒」って、いったいなんなのさ。霊魂はこの「緒=紐」でわれわれの心や体を支配しているとでもいいたいのか。
そんなことよりも、この「を」という音韻で心が何かに向かう(=焦点を結ぶ)ことのあやを表現しようとした古代以前の人々のセンスのほうがずっとおしゃれで根源的である。そういう「を」だったのだ。



まあいまどきは「霊魂」という概念にご執心の人はたくさんいるらしいが、もともと日本列島の住民は、伝統的にどこかしらで「霊魂なんか知ったことではない」という思いも抱いている。
平安時代にはすでに「たまのを=命(霊魂)の緒」というイメージが定着していたのだろうが、それでも霊魂を信じきれない部分を誰もがどこかしらに残していて、そこから「あはれ」や「はかなし」の美意識が生まれてきた。
なんといってもいちばん有名な「たまのを」の歌といえば、新古今集のこれだろう。
・・・・・・・・・・
■たまのをよ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする(式子内親王)……(命=霊魂の糸なんか切れてしまえばいい、そうでないと生きれば生きるほどあなたをひそかに思っている心が弱くなってしまう)
・・・・・・・・・・
この歌は、たしかに「たまのを」という枕詞を「命(=霊魂)の糸」という意味で使っている。
しかし、霊魂なんか当てにしていると純粋な「命に向かう心」「人を想う心」が弱ってくる、と詠っている。
私は「霊魂と霊魂が繋がっている」ということなど信じない、あなたとは絶望的に離れているというそのことの中でけんめいにあなたのことを想っている、つながっているとわかってしまったら想い続けることなんかできない……と詠っているのだ。
忍ぶ恋をしていたって、女は男よりもずっとリアリストだ。男のようにかんたんに霊魂という概念に転んでしまったりしない。
そしてこれこそが、平安時代の女流の「あはれ」「はかなし」の美意識である。
たとえ霊魂霊魂と騒いでも、日本列島の住民は誰もがどこかしらに霊魂などとは無縁の現実世界を生きる感触を「心のあや」として持っている。
これは、霊魂賛歌ではない。むしろ、霊魂を否定している。そしてその歌が、いちばん有名な霊魂の歌になっているというのも何やら皮肉である。
現代社会にも「たまのを」という言葉が好きな人はたくさんいるらしいが、日本列島の住民は歴史的に、じつはあまり本気で「霊魂」や「神」という概念とかかわってきていない。
なんといっても古代以前の人々は、そのような概念を知らなかったのだ。
枕詞は、「霊魂」や「神」という概念を知らない心から生まれてきた。
玉=霊魂という解釈ですませてしまえるならかんたんなことだが、そうはいかない。
「古代以前の人々は霊魂を知らなかった」ということにこそ、枕詞がまとっている豊かな「感慨のあや」がある。
いまどき横行する「たまのを=命(=霊魂)の緒」という思い込みこそが、枕詞の解釈を狭めてしまっている。



枕詞は、「みそぎ」を果たした「からっぽの身体」なのである。そういう「音声=衣装」がまとっている「感慨のあや」の表出にこそその本質的な機能があるのであって、そこには「霊魂」という「意味」などつまっていない。
日本列島の住民のそういう「姿」に対する美意識は、「からっぽの身体」になって「みそぎ」を果たそうとする身体感覚から生まれてきた。
つまり古代以前の人々は、身体の中に宿っている霊魂という意識はなく、音声として吐き出された身体がまとっている「感慨のあや」に関心があった。それは、身体の中に宿っているものではなく、身体の外にあって身体がまとっている「衣装」なのだ。
枕詞は「感慨のあや」の表出として生まれてきたのであり、それは、古代以前の人々の身体感覚であり、生命観でもあった。
現在の古代文学の研究者の多くは、「古代人は生命=霊魂の永遠を信じていた」という。こんなステレオタイプな解釈をしているかぎり、どんな屁理屈を並べても枕詞のほんとうの「姿」には永久に迫れない。
日本列島の住民が「たま」という言葉を、「霊魂」という意味に縛られずに無限のニュアンスで使いまわしていることは、今にはじまったことではなく、最初からそうだったのだ。というか、古代以前の人々が使う「たま」という言葉の方がもっと多種多様なニュアンスがあった。
それが、言葉の歴史の法則である。言葉は、歴史とともに意味が限定されてきた。それは、共同体を円滑にいとなむためには言葉の意味は限定されていたほうがいいからであり、文字の普及が言葉をそのようにしてしまったということもある。
「たま」という言葉が現代でもこんなにも多種多様使われているということは、古代以前においてはもっとそうだったということであり、彼らがそれを「霊魂」や「宝玉」だけの意味で使っていたということはあり得ない。
文明が未発達な古代やそれ以前は言葉の意味も限られていたと考えるのは大きな誤解である。
現代は、言葉の意味が限定されているからたくさんの語彙が必要なのだ。
「たまくしげ」の語源を「化粧箱」という具体的なひとつの事物の意味に限定してしまうのは、まったく倒錯した解釈である。
古代以前の枕詞には、「意味という霊魂」はつまっていなかった。
それは、「姿」という「からっぽの身体¬」だった。



どうしてみんな、古代人は霊魂=生命の永遠を信じていた、といいたがるのだろう。
そもそも彼らは、霊魂そのものを知らなかったのだ。
霊魂のことは、いまでも霊魂という。昔は「たま」といっていたというのなら、わざわざ霊魂という必要はない。折口信夫などは「たま」が霊魂のことだというのは日本列島の土着の意識だといっているのだが、そうであるのなら、わざわざ霊魂という言葉を使う必要がない。
米づくりの用語は、「いね」とか「よね」とか「あぜ」とか「もみ」とか、すべてやまとことばである。それは、米づくりが大陸の人々から教えられたものではなく日本列島にもともとあったからであり、もともとあった言葉はそうかんたんには捨てない。捨てる契機がない。
日本列島に最初から「たま=霊魂」という意識があったのなら、これほど霊魂という言葉が普及することはない。普及する契機がない。
霊魂という言葉が普及していったということは、もともと日本列島にはそれに当たる言葉がなかったことを意味する。
それはもう、すべてそうだろう。日本列島で普及していった漢語は、和製漢語も含めてすべてもともとそれに当たる言葉がなかったからだ。
霊魂という概念=イメージは、古代以前の日本列島にはなかった。なかったからこの言葉が定着していったのだ。
最初から「たま=霊魂」という意味があったのなら、わざわざその言葉を使う必要はどの時代にもない。
万葉集の初期のころは、ほとんど霊魂という言葉を使っていなかった。それは霊魂という概念がよくわからなかったからだろう。
ただ、心、とくに満ち足りた心のことを「たま」と呼ぶようなことはしていた。そして霊魂とはそういう心のことだろうかと思って「たま」という言葉を「霊」という字で表記したりしていた。
「たまのを」といっても、「霊魂の紐」というような意味ではなく、心が何かに向いていることをそういっていただけだった。「を」とは「向かう」ということ。
霊魂という言葉が普及していったのは平安時代になってからだろう。そうして「たま」という言葉にも「霊魂」という意味を付与するようになってきた。
しかし日本列島の文学は、それでも霊魂よりは「心」そのものを表現しようとしていった。日本列島の歌や文学は、「心」そのものを表出してゆくかたちで生まれ育ってきた。
そして「心」とは、この身体の中に宿るものではなく、「身体の輪郭」において生成しているものだということを古代および古代以前の人々は知っていた。
「身体の輪郭」とは、身体の外であると同時に身体を取り巻く空間の内側でもある。そういうあるかなきかの不思議な空間で心(=意識)は生成している。
したがって、身体の中に宿る霊魂が心を支配しているといわれても、すぐにはのみこめなかった。
いや、日本列島の住民は、いつまでたっても「霊魂」という概念がよくのみこめない。
心=意識は、「身体の輪郭」で生成している。身体の中で生成しているのではない。日本列島の住民は、「身体の輪郭」で生成している「心」にこだわって歴史を歩んできた。
身体の中に宿っているとかいう「霊魂」ではない。日本列島おいては、身体の中は「からっぽ」であることが伝統になっている。
「たま」という言葉で霊魂を解釈することには、どうしても無理があった。そういう試みは神道でずっとなされてきたが、日本列島の住民の心情においては、けっきょくたまはたまであり、霊魂は霊魂だった。
彼らにとって「たま」は「からっぽの身体」のことでもあった。そして身体の中身がからっぽになってゆくカタルシスのことを「たま」といった。
けっきょく「たま」は、「霊魂」ではなかった。
「たま=心」は「身体の輪郭」で生成し、「霊魂」は「身体の中」に宿っている。その違いは、けっして小さくはない。
霊魂などを信じたら、身体を「からっぽ」にすることができない。それでは「みそぎ」にならない。



日本列島の住民は、霊魂は命を支配しているという認識はあっても、心を支配しているとは思っていないふしがある。「霊魂=命」であっても「霊魂=心」というイメージは希薄である。
霊魂は霊魂、心は心。霊魂に支配されている心は病んだ心である、と思っている。その心は体の中に停滞しているから、霊魂に支配されてしまう。
心は、「体の中」ではなく、「身体の輪郭」というあるべき場所に戻してやらねばならない。それが、古代人の「詠う」という行為だった。
古代以前の人々にとっての生きてあることの醍醐味は、身体が「からっぽ」になってゆく「みそぎ」の体験にあった。であれば、そこから「霊魂」という概念が生まれてくることはあり得ない。彼らが歌における「心の表出」にこだわったのは、心が「身体の輪郭」で生成しているものだということを知っていたからだ。身体の中に宿る霊魂から心が生まれてくるとは思っていなかった。彼らにとって声に出して歌を詠むことは、身体の輪郭で生まれた心が身体の中に入ってきて、それをまた身体の輪郭に戻してやることだった。
思いが胸に満ちてきて、その思いを音声とともに吐き出して、身体の輪郭に戻してやる。
思いとともに生きつつ、しかも身体の中をからっぽにしておく作法として「歌」が生まれてきた。それは、相手に伝えるというより、相手を前にすると詠わずにいられない思いが胸に満ちてきたということだ。そうしてみずからのその音声を聞きながら、身体がからっぽになってゆくカタルシスをくみあげていった。
たがいに音声を交わし合うということは、たがいに心が身体の輪郭で生成していることを確かめ合うことであり、たがいに身体「がからっぽ」になってゆく体験(カタルシス)を交歓し合うことだった。
彼らは、死んだら霊魂になって身体の外に出てゆくとは思わなかった。
霊魂という概念をまだ知らなかった古代以前の人々にとって命とは、身体が「からっぽ」の輪郭になるということであり、それはつまり、命の行く末はないということだ。命がなくなることが命だった。
身体の命には、かぎりがある。だから人は永遠の生を願うのだろうが、「からっぽ」の身体の行く末なんか思いようがない。
古代人にとっては「いまここ」で命を消してしまうことが命のいとなみだった。
いや別にそんな理屈を考えていたということではなく、「いまここ」に生きてある生活感情として、命の行く末なんか彼らには思いようがなかった。
だから、「死んだら何もない黄泉の国に行く」という生命観が生まれてきた。
まあすべては、「からっぽの身体」になるという「みそぎ」のイメージからはじまっているのかもしれない。枕詞も、そこから生まれてきた。
われわれは、歴史の無意識として、「霊魂=命の永遠」というイメージをうまく描くことができない。
だから、日本列島土着の天国や極楽浄土のイメージが生まれてこなかった。

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