ことだま・ネアンデルタール人と日本人・66


「たま=玉」は、縄文時代からすでにもっとも大切な装身具のひとつだった。
ヒスイは宝石としてそのころから日本列島に広く流通し、歴史家はそれが「霊魂」を象徴するものだとか呪術の道具になっていたという。
しかしまあ、霊魂などというものは後世の人間が意識するようになってきた概念で、首飾りは5万年前のネアンデルタール人だってしていた。
縄文人が5万年前の原始人と同じような無邪気な気持ちで首飾りをしていたと考えたらいけないというわけでもないだろう。
人間は、身体を飾ることが好きなのだ。ボディペイントだって原始時代からなされていた。
霊魂は体の中のものだろう。しかし原始人は、そんなものより体の表面=輪郭が気になってしょうがなかったのだ。
体の中の霊魂が命をつかさどっていると思えるのなら、体の表面を飾る必要なんか何もない。体の表面が気になって気になってしょうがなかったから、衣装や装身具をつけるようになってきたのだ。
人間は、体の中よりも表面が気になる存在なのだ。
体の中のことは、できれば忘れたい。それは、腹が減ったとか息苦しいとか病気になるとかひとまず疲れ果てるとか、まあそんなときに意識されるものであり、忘れていられるときの方が快適で安心であるに決まっている。
そんな体の中を、どうしてわざわざ注意を向けなければならないのか。忘れてしまおうとするのが本能だろう。
そして忘れていることのしるしとして、体の表面を飾っていったのだ。意識が体の表面に向いているということは、体の中のことを忘れていることの証しであり、体の表面を意識していることによって体の中のことが忘れられる。そして体の表面を意識していることは、体の外の世界のことが気になっているということでもある。
人間は、体の中のことを忘れて体の表面を意識する存在だから、体の外の世界としての他者の視線も大いに気になるようになっていった。まあ体毛を失っている存在だから、よけいに外の世界(他者の視線)に敏感である。



かんたんに「原始人の首飾りは霊魂の象徴である」などといってもらっては困る。
人間の自然として、それは、体の表面に対する意識から生まれてきた。
とにかく縄文人だって、自分の体の表面と他者の視線が気になるから首飾りをつけていたに決まっている。
彼らは、あの硬いヒスイの石を、みごとにまんまるに磨き込んでいた。それをたぶん彼らは、「たま」と呼んでいた。しかし、それが球体だからではない。ヒスイの石は、磨けば磨くほどキラキラ輝いてくる。そのキラキラ輝いているさまを「たま」といっただけである。それは、「みそぎ」を果たした心の象徴だった。中身がさっぱりと空っぽになっている心の姿こそ、彼らの願いだった。
つまり彼らは、物質としての石やその球体が好きだったというより、その表面の「姿」としての「輝き」が好きだったのであり、それを「たま」といった。
日本人は、「たま」という言葉に物性を感じていない。だから、「たまたま」とか「たまに」とか「たまらない」というし、そこに「霊魂」などというものはさらに感じていない。心という中身だって、空っぽでまっさらであることこそが美しいのだ。
われわれは、心の中に霊魂があるなどとは思っていない。そこに日本列島の伝統文化の「姿=輪郭の美意識」がある。
「た」は「足る」の「た」、「充足」の語義。
「ま」もまた「まったり」の「ま」で、「充足」「安定」のニュアンスがある。
それまあ、二重に「充足」の感慨をあらわした言葉である。
「まるい」という意味でそういったのではない。それを眺めているとうっとりと充足してゆくから「たま」といったのだ。
月や太陽だって、表面がきらきら輝いている。彼らはそのきらきらした輝く「姿」にあこがれた。
「輝き」は、その物質の「輪郭」であるが、物質それ自体ではない。
そのきらきらした「輪郭=姿」を眺めていると、心が充足・安定してゆくものがあったのだろう。
そして心が充足・安定するとは、体の中や自分を忘れている状態である。この生やこの世界は「今ここ」で完結している、という感慨である。「もう死んでもいい」というカタルシスの感慨である。そして「たまたま」とか「たまに」というときの「たま」と同じように、「これはこの生の一回きりの貴重な体験である」とか「あなたが人間のすべてだ」というような感慨になっていった。
べつによろこびだけでなく、深いかなしみや、女があえぎながらオルガスムスに堕ちてゆくときだって、この生やこの世界は「今ここ」で完結している、という感慨の体験になっている。
とにかく、体の中が空っぽになってゆくような心地こそ、人間にとっての充足・安定である。この生は、そういうパラドックスの上に成り立っている。



日本列島は「姿」の文化であり、それは、人類の普遍的な原始性でもある。
縄文人が、土器の表面になぜあんなにも執拗に模様を施していったのかといえば、「姿=輪郭」に対する意識が強くて、身体の中身としての物性や霊魂などというものに対する関心が極めて希薄だったということを意味する。身体の中身としての物性を忘れてゆくことこそ彼らの生きる主題だったのであり、だからあんなにも執拗に土器の表面に装飾模様を施さずにいられなかったのだ。
「器(うつわ)」という。「うつ」は「うつろ」の「うつ」、「空っぽ」ということ。「わ」は「輪」、すなわち「輪郭」。
「うつわ」とは、「中身が空っぽの輪郭」ということ。この、わざわざ「中身が空っぽ」というところが日本的な美意識である。土器の物性なんか、何もいっていない。中身の空っぽと表面の「輪郭=姿」をいっているだけである。これはもう、縄文以来の美意識なのだ。
縄文人は、木や森や山を見ても、そこに何か(霊魂?)が宿っているというような見方はしなかった。ひたすらその表面の輪郭としての「姿」を見ていた。
日本人はもう、それ以来ずっと、「姿」を眺める視線を洗練させる歴史を歩んできた。その「姿」こそが対象の本質である、というのが日本的な思考の流儀なのだ。
その人がどんな収入や社会的地位があってどんな氏素性かということは差し当たってどうでもいい、その人の人間としての魅力や値打ちはその「姿」にちゃんとあらわれている、というのが日本的な美意識であり、そういう美意識の基礎は縄文土器にすでにあらわれている。
彼らは、「たま=霊魂」などという意識で首飾りをしていたのではない。
まあ「みそぎ」とは体の中の汚ないものや鬱陶しいものをすっから洗い流してさっぱりすることであり、縄文人も古代人も、そういう流儀の生命観だった。
そういうまっさらな心や世界のことを「たま」というのであって、あんまり現代人の俗物根性そのままに「霊魂」という意味を賦与してせっかくその言葉を汚していただきたくないものだ。



やまとことばの語源は、事物の説明ではなく、感慨の表出の機能にある。
古代人や縄文人には、「たま」という感慨があった。そして大陸から伝わってきた「霊魂」という概念とはその「たま」という感慨のことかと古代人は思った。
しかし、どうもそういうことではなく、体の中心にあってこの生を支配しているもので、死んでもなくならないものだということがわかってきた。そうなるともう、「霊魂=たま」というような言葉の使い方はできない。霊魂とは「たま」という感慨のことではなくこの生をつかさどる物質のことだというのなら、そうそうむやみに霊魂のことを「たま」と言い換えるわけにいかない。霊魂は霊魂として別に考えないといけない。そのようにして日本人は、「霊=霊魂」という言葉を「たま」とは切り離して使うようになっていった。そうして「たま」と「霊魂」の中間のニュアンスを持った言葉として「たましい」という言葉をつくった。これは、「霊魂」という意味にもたんなる「心」という意味にも使える便利な言葉だった。その場のなりゆきでどちらの意味にも使える。
「たましい」の「しい」は、「しーん」の「し」、「静寂」「孤独」の語義、つまり「たましい」とは「唯一絶対の心」というような意味合い。そんなふうにして外来文化となんとか折り合いをつけて受け入れてゆこうとするのが日本文化である。
そうやって折り合いつけながら神道では、「たま」という言葉に「霊」という字をあてる習慣を残していった。これは、日本文化の伝統における、外来文化に対して遠慮して敬意を表してゆく態度である。
「遠慮する」という作法は、神道の根本的なコンセプトのひとつである。
「霊魂」という概念を残してゆくのなら、それはもうそのまま「霊=霊魂」というしかない。そうしていつの間にか「たま」という言葉で代用することはしなくなっていった。平安時代ころまではわりと平気で「たま」と言い換えたりもしていたのだが、しだいに「たましい」と言い換えることはあっても「たま」とはいわなくなっていった。
ただ神道では「みたま」などといってきたりもしたのだが、まあこれは外来文化に対する遠慮および敬意の表明の作法なのだ。もともと日本列島にはなかった「神」や「霊魂」という概念を教義の中に織り込んでゆこうとするのだから、そういう言葉の使い方をするしかなかった。因果なことに、神道でいう「みたま」はもう、日本列島の風土に根ざした「たま」という言葉とは別のものなのである。
しかし神道だって、普通の人間の心の中にあるものを「みたま」とはいわない。それは神や死んだ人の中にあるもので、死んだら霊魂が残るというのなら、きっと死んだ人の中にはそれがあるのだろう。日本人は、生きている自分の中に霊魂があるとは思っていない。日本人にとっての霊魂とは、死んだときに発生して死者の体から離れてゆくものだ、というようなイメージだろうか。それは、死者だけが持っているものらしい。普通の日本人はそう思っている。妙なオカルト信者の人にとってはそのかぎりではないらしいが。
日本列島の「たま=霊魂」という概念は、死者と神にしか存在しない。そのようにしてもともと知りもしない霊魂という概念を受け入れ解釈しているだけである。



「たま」というなら、「ことだま」という言葉も検証しておくべきだろう。
普通は「言霊」と書く。すなわち、言葉の霊魂、大方の研究者はそう解釈している。
いつ頃生まれてきた言葉だろうか。もしかしたら日本人が霊魂などというものをまだ知らなかった仏教伝来以前から使われていた言葉かもしれないし、仏教伝来以後の古代に生まれてきたとしても、ほんとうに「たま=霊魂」という意味に限定されていたかどうかはわからない。
古代人だって、言葉をひとつの意味に限定するというような使い方はしていなかった。
ましてや「たま」という言葉は、その時点ですでに遠い昔から使われてきた言葉であったはずだ。
もともとの「たま」という言葉は「充足したり感動したりしている心の表出」として生まれてきたのであり、そこから充足したかたちとしての「球体」のことや「美しい」ことなどを「たま」というようにもなっていった。
そうして最後に「霊魂」という意味に使われるようにもなっていったのだが、それ自体は「たま」という言葉の基礎的本質的なニュアンスでもなんでもなかった。
新年のことをいうときの枕詞に「あらたまの」といわれたりするが、それは「世界や心が新しさに満ちてキラキラしている」というようなニュアンスであって、べつに「新しい霊魂」などという意味ではない。霊魂というのはもともと永久不変のものらしいのだから、「新しい霊魂」などというのは言語矛盾である。
「あらたまの」の「たま」に「霊魂」という意味などない。論理的にあるはずがないのだ。
「ことだま」という言葉にこめられた古代人の本意だって「霊魂」などというところにあるとはかぎらない。それは、大いに疑わしい。
まず「こと」が「言葉」という意味だけだったのではない。われわれだって「こと」という言葉をじつにさまざまなニュアンスで使っている。
「こと」は「コトンと音がする」とか「ことりと落ちる」というように「出現」「発生」というようなニュアンスの言葉である。
「こ」は子供の「こ」、子供は「生まれてくる」ものだ。「と」は「戸」「止まる」の「と」、「終結」「確認」の語義。
すなわち「こと」とは、「出現に気づくこと」というのが語源のニュアンスなのだ。言葉だって口から発せられ出現してくるもので、それ聞いて解釈したり味わったり納得したりする。だから、ひとまず「こと」のひとつになってはいたが、べつに言葉だけのことを「こと」といっていたわけではない。
柿本人麻呂は「大和はことだまの助けがある国だから言挙げはしない」というようなことをいっている。よく考えたらこれはおかしな言い回しである。もしも「ことだま」が言葉の霊魂であるのなら、大いに言挙げすればいい。言挙げしてはじめて「ことだまの助け」が生まれるのだろう。
ここでいう「ことだま」とは「世界は今ここで完結していると深く納得してゆく感慨」というような意味で、だからあれこれむやみな願い事はしない、といっているのだ。
「こと」は今ここの世界の完結、「たま」はそれを深く納得してゆく感慨。それが「ことだま」の語源のニュアンスで、古代人だってそれを意識していた。
万葉人には「言葉の霊魂」などという意識はなかった。それは、平安時代になって霊魂ブームが起き、そこからさかんにそのような意味で使われるようになってきたのだ。そうして安倍清明をはじめとする妙な言挙げの呪術に支配される世にもなっていった。
まあ万葉人の「ことだま」の「こと」に「言葉」というニュアンスがときにあったしても、そのときの「たま」は「言葉の美しい姿」というようなニュアンスであって、言葉の「意味=霊魂」という意識ではなかったはずである。
「ことだま」という言葉は、平安時代以降に現在のような通俗的な意味に変質してきた。
古代以前の人々にとっての「たま」はあくまでも「姿=輪郭」であって、中身の霊魂のことではなかった。
「姿」に対する美意識こそが日本文化の本質・根源であり、それはまた人間存在の普遍的な意識でもある。
人間は他愛なく世界や他者にときめいてゆく心を持っている。そこから「たま」という言葉が生まれてきた。まあ僕は、その事実の方が「霊魂」などという概念よりも、人間について知る上でずっと重要なことだと考えている。
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