ふゆごもり・枕詞の起源8

<はじめに>

御訪問、ありがとうございます。
僕は、ふつうに社会人生活をしていれば、定年を迎えてひと仕事すませた気分になれるような年まで生きてきてしまいました。それなのに、どこをどう間違ったのか、自他ともに人並みと認められるような生活とは、もう20年以上縁がありません。そのあいだ、何をしてきたのかと問われても、ひと口に答えることはできませんが、ずっと考えてきたことがひとつだけあります。それが「人間とは何か」ということです。
人間とは何か、生きてあるとはどういうことか、その根源というか普遍に迫りたい、どうしても知りたいと思ったら、現代都会人の表層的な心象だけ考察して終わりというわけにはいきません。たとえば、今のわれわれ日本人は戦前の日本人の直系のせいぜいが二代目三代目の子孫で、生き物としてはまったく同じとしか表現のしようもないでしょうが、それでも戦前の祖先の生活や心象についてはよほど想像力をたくましくして思考実験をくり返してみない限り、ほんとうのところどうだったのか、なかなか見えてきません。
で、もっともっとと根源を問うてゆくうちに、とうとう直立二足歩行の起源に辿り着いてしまいました。
このブログは、直立二足歩行の起源やネアンデルタール人にまでさかのぼったところからはじめた、いわば人類論です。2006年の12月に書きはじめ、あちこち寄り道したり脱線したりしながらも、「人間とは何か」という一貫したテーマで書き続けてきました。
お手本のテキストもなく師も同伴者もいない孤立無援の作業だし、真実を確認することのできないテーマがほとんどだから、ときには足踏みしたり虚しくなったりしてしまうこともあるけれど、どこかで誰かも同じ問いを同じように途方に暮れながら宙に向かって問い続けているのではないか、という希望も捨ててはいません。そんな誰かに是非読んでもらいたいし、できればコメントももらって語り合いたいという気持ちを抑えきれず、思い切ってブログランキングに登録しました。興味を持ってくださる方は下のマークのクリックをお願いします。そうすることで少しでも多くの人の目に触れ、できれば建設的な反論や、論理的な穴や甘さの指摘などもしていただけるようになったら、望外のよろこびです。
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<本文>

ふゆごもり・枕詞の起源8


かんたんなようでかんたんでない枕詞がある。
「ふゆごもり」という枕詞は、「春」にかかる。
これはもう疑う余地はないらしく、万葉集では、みなそのようなお約束で使っている。
ただ、「春」ではなく「張る」にかかる場合もある。このようなかかり方はよくある。もともと枕詞は「音声」として成り立っている言葉だから、「はる」という音声であればなんでもいいということだろう。
ともあれ現在では、「ふゆごもり」のことを誰もが「冬が過ぎて」と訳しているのだが、この「こもり」に「過ぎて」という意味などない。「ふゆごもり」とは「冬が隠れて(こもって)充満している」ということであって、冬が隠れて去ってゆく、という意味ではない。むしろ、それとは逆の意味なのだ。「ふゆだらけ」ということ。
「冬が過ぎて」だなんて、どう考えても誤訳なのだ。
冬がこもっているのか、人が冬にこもっているのか。それがもし「冬」という意味なら、そうとしか解釈できない。
なぜ「冬去りて」といわないのか。
たぶんこの「ふゆ」は、「冬」ではないのだ。「冬」のような顔をしながら「冬」ではない。
現代の研究者が勝手にそういう意味にこじつけて安心してしまっているだけのことだろう。これは、「冬が過ぎて」という意味なんかではない。「ふゆごもり」は「冬が隠れている」という意味であって、去っていってはいない。
だったら、なぜそのあとお約束のように春の情景を詠うのかといえば、この「ふゆだらけ」という感慨に対して作者は嘆き悩んでいるわけで、そのまま差し出すことをはにかんでいるのだ。
この「隠れている」というニュアンスにこそ、この枕詞の味わいがある。
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■ふゆごもり 春咲く花を手折りもち 千遍(ちたび)のかぎり恋ひ渡るかも
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「花を手折る」とは「情を交わす」ということの比喩で、まあ「燃え盛るような情熱的な恋がしたい」という歌だ。
しかし、この歌の「ふゆごもり」が「冬が過ぎて」という意味なら、これは枕詞とはいえない。ちゃんとそういう情景を描写している意味があるなら、現代語訳で省略してしまうわけにいかない。だからこの枕詞は、誰もが「冬が過ぎて」と訳す。でも、それは違う。
もしかしたらこの作者は、年甲斐もなく性欲が燃え盛っているのだろうか。いや、若くてもいいのだが、とにかく、好きなあなたとやりまくりたいのだ。恥ずかしいけど。
たぶん「ふゆごもり」というという枕詞には、そういうニュアンスがある。
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■ふゆごもり 春の大野を焼く人は、焼き足らじかも、わが心焚く
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これも同じで、「冬が過ぎて春になった大野を……」と、いつも訳される。しかしそういう言葉であるのなら、枕詞ではないだろう。
まあ、いつもお約束で次には「春」という言葉が来るというのなら、枕詞に違いない。
そして枕詞であるのなら、ほんとうは別のニュアンスがある。なんといっても枕詞は、「感慨のあや」を表出しているのがほんらいの機能なのだ。
この歌は、たぶん道ならぬ恋をしていて、自分の心まで焼かれてしまいそうだ、と詠っているのだろう。そして「ふゆごもり」という枕詞に、そういう道ならぬ恋に夢中になっていることを想像させるニュアンスがある。
「ふゆ」だから「冬」だとはかぎらない。ただ「ふゆ」という音声が枕詞になっているだけのこと。たぶん、べつのニュアンスがある。
万葉集でいちばん有名な「ふゆごもり」の歌は、なんといっても額田王の次の長歌だろうか。
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■冬ごもり 春さり来(く)れば 鳴かざりし 鳥も来鳴(きな)きぬ 咲(さ)かざりし 花も咲けれど 山を茂(も)み 入りても取らず 草深み 取りても見ず 秋山の 木(こ)の葉を見ては 黄葉(もみじ)をば 取りてそしのふ 青きをば 置きてそ歎(なげ)く そこし恨(うら)めし 秋山われは
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これは、天智天皇から春と秋とどちらが好きかと聞かれて答えた歌らしい。
一説によると、そのころ額田王をめぐって天智天皇と弟の大海人皇子が恋の鞘当てをするという三角関係になっていたらしく、そういう下心もあったらしい。
で、額田王は、春もいいけどしいていえば秋の方が好きです、と答えている。
この二人のどちらが春でどちらが秋かかは知らない(たぶん、大海人皇子の方が好きだといっている)が、額田王としては、それなりに思い悩むところはあったのだろう。
だから「ふゆごもり」という枕詞を差し出した。
この「ふゆ」は、「冬」のように装いながら、じつはそれだけの意味ではない。
「ふゆ」は、「増(ふ)ゆ」「振(ふ)ゆ」でもある。「ふ」は「振る」「震える」、「ゆ」は「揺れる」。震えて揺れながら増えてくる(ふくらんでくる)ことを「ふゆ」という。
「こもり」は「隠れる」という意味もあるが、「こもる=充満する」というニュアンスもある。「隠れる」ことは「充満する」ことなのだ。すなわち胸の中に思いが満ちてくること。「こんもり」盛り上がっているということ。
すなわち「ふゆごもり」とは、「震えて揺れる心が胸の中に満ちていること」。ただ「冬が過ぎて」というだけの言葉ではない。やっぱりこれは、そういう「感慨のあや」を隠し持っている枕詞なのだ。したがってこの歌の現代語訳はこうなる。
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(訳・ ああ、私の心は震えて揺れています。春になればいままで鳴かなかった鳥も来て鳴くし咲かなかった花も咲きます。でも山の茂みは入って手にも取れないし草も深く手折って見ることもできない。一方、秋の山は木の葉を見るにつけ、黄葉を手に取っては賞賛し、まだ青いまま落ちてしまった葉を手に取り地面に置いては歎いたりすることもできます。そんな一喜一憂して心ときめく秋の山こそ私は好きです)
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そのとき額田王は、二人の男のあいだで揺れている心を胸に秘めながら、「ふゆごもり」という枕詞を置いた。そしてこの枕詞は、この歌全体の通奏低音になっている。
威風堂々とみんなの前で輝いて近づきがたい人よりも、そばにいてともに嘆き慰めてやれる人の方が好きです……と詠っているのだろうか。
しかし天智天皇がその隠された思いに気づいたとしても、それをなじるのは野暮というものだ。それはあくまで「隠されている」のだから。
上の二つの歌の「ふゆごもり」だって同じである。最初は「大いに燃えがっている性欲」、二番目の歌は「道ならぬ恋に揺れている心」、「ふゆごもり」という枕詞には、そういう「震えて揺れる心が胸の中に満ちている」という「感慨のあや」が隠されている。そうでなければ、これらの歌の「ふゆごもり」なんて、ただの蛇足なのだ。
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