「ケアの社会学」を読む・36・分裂病について考える

   1・「他者の承認を得る」という嘘
分裂病のことに関してはただの無知など素人である僕が発言するのはたんなる暴走であることは承知であるが、今、どうしても書かずにいられないわけがある。
しかし、そのわけはいわない。
ただもう、世界中に向かってこういいたい。分裂病に対する認識も、人間の根源的な存在の仕方に対する認識も、世界中が根底的に間違っている、と。
人間は、「愛される=他者の承認を得る」ことを自分が存在することの根拠にしているのか。
内田樹先生は、ラカンレヴィナスを引用しながら、まあそういうことをいっておられる。
人間とは、自分が存在することの根拠を得ようとする生き物であるのか。
そりゃあ、他人にちやほやされたら気持ちいいだろう。そうやって自分の存在が確認される。
しかし分裂病者の「自分に対する他人の悪口が聞こえてくる」という幻聴もまた、「他者の意識が自分の中に流れてくる」ということにおいて、「愛される=他者の承認を得る」ことを自分が存在することの根拠にしている心の動きである。
気取ってみたって、どちらも同じなのだ。
分裂病の治療方法がいまだに確立されないのも、「人間とは自分が存在することの根拠を得ようとする生き物である」という前提で考えているからだろう。西洋人はみんな、人間とはそういう生き物であると思っている。人間存在をそういう前提で考えるかぎり、分裂病をますます進行させても、治療にはけっしてならない。ますます進行させる方法で治療方法を考えているのだもの、治療方法なんか見つかるはずがない。
この前見たテレビで、分裂病の人に対してあるカウンセラーが、「ちゃんと自分と向き合うことができるようにならないとだめです」といっていた。
それはおかしい。そういう現代社会の大人の論理そのものが、分裂病的なのだ。そんなことをいっても、ますます彼らを「自分」という袋小路に追いつめるだけだ。
「自分が存在することの根拠を得ようとすること」それ自体が分裂病の病態なのだ。
社会に順応して人からちやほやされる存在であるかぎり、病理現象はあらわれない。誰だって、一人や二人はちやほやしてくれる相手を持っている。長く会社にいれば、若者を指図できる立場になって一人や二人はへいこらしてくれるだろう。会社の規則や社会の規範を盾にとれば、指図する立場に立てる。
家族の中で親や家長という立場に立てば、「他者から承認されている」という自覚が持てるだろう。子供が親からちやほやしてもらえれば、「他者から承認されている」という満足が得られるだろう。
人は「他者から承認される=愛される」ことによって、みずからの存在を自覚する。
「みずからの存在を自覚する」という流儀で生きているから、他者の意識が自分の中に流れ込んでくる。それが「ちやほやする言葉」であっても「悪口」であっても、同じなのだ。「みずからの存在を自覚する」ことが目的化されているかぎり、誰もが分裂病の入口に立っている。
まあ誰もがそうした分裂病的な傾向を持っているのだが、内田先生やレヴィナスラカンは、「みずからの存在を自覚することが目的化されている」ことにおいて、すでに分裂病者だともいえる。病理的な現象を持たなくても、すでに分裂病者なのだ。
われわれだって、すでに分裂病者なのだ。
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   2・人間はみずからの存在を自覚しているか
鏡に映っている自分がほんとうの自分で、それを見ている自分はほんとうの自分ではない……という分裂病的感覚も、「みずからの存在を自覚する」ことに執着しているから起こってくる。
そりゃあ、鏡に映った「見えている自分」の方がリアルであるに決まっている。「見ている自分」の姿なんか鏡がなければわからない。自分で自分の顔を見ることのできる人間なんかいない。
「みずからの存在を自覚する」ことが目的で生きているのなら、鏡に映った自分をほんとうの自分だと思うしかない。実際に、誰にとっても、鏡に映った自分の方がリアルなんだもの。
「みずからの存在を自覚する」ことそれ自体がおかしいのだ。
人間はみずからの存在を忘れようとしている生き物であって、みずからの存在を自覚しようとしているのではない。
みずからの存在を忘れるタッチを持っていない人が、分裂病になりやすいのだ。
「ほんとうの自分」を「リアルな自分」として執着すること自体がおかしいのだ。「ほんとうの自分は、リアルでもなんでもない。リアルじゃない自分が、ほんとうの自分なのだ。
鏡に映った自分は、リアルだからこそ、ほんとうの自分ではないのだ。
指の腹で机の表面をなぞれば、机の表面の質感をリアルに感じる。だから分裂病者は、机の表面が自分だ、という。自分がリアルなものであらねばならないのなら、机の表面を自分だと思うしかない。それはもう、誰にとってもそうなのだ。
もともと「自分」とは、リアルな存在ではないのである。
分裂病者は「リアル」の感じ方が間違っているのではなく、自分をリアルな存在だと思い込んでいることが間違っているのだ。
まあ人は、この社会と調和しているかぎり、自分をリアルな存在だと思い込むことができる。それは、分裂病だ。分裂病者は、他者の意識を自分の中に流し込んで、自分をリアルな存在だと思い込んでゆく。内田先生が解説するように、レヴィナスが、「他者の承認によってみずからの存在を自覚する」といっているのだとしたら、それ自体分裂病者の心の動きだ。
人間は、みずからの存在を忘れようとする。
だから僕は、われわれはみずからの身体を「非存在の空間の輪郭」として自覚している、といった。
みずからの身体が「非存在の空間の輪郭」であるとき、われわれは「リアルな自分」を忘れている。生き物は、みずからの身体を「非存在の空間の輪郭」として生きている。これが、われわれの生の基本的なかたちだと僕は考えているが、このことを説明しているときりがないので、いまはやめておく。
とにかく、この生のいとなみは、身体を「リアルな存在」としてではなく「非存在の空間」として認識し扱ってゆくことにある。身体のリアルな実在感を消去してゆくのが、生きるいとなみなのだ。
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   3・愛されることの鬱陶しさ
で、とりあえずここで否定したいのは、「愛される(他者に承認される)」ことが人間を生かしている、という認識だ。そんなことばかりいっているから、分裂病は治らない。
「愛されている(他者に承認されている)」と自覚することは、病理なのだ。そんな自覚が人間を生かしているのではない。
幻聴は、他者の意識が自分の中に流れ込んでくる、というかたちで起きている。それは、「愛されている」と自覚することそのままのかたちである。
人は、他者の意識を察知することによって生きているのではない。「愛されている」と感じることは、基本的には鬱陶しいことなのだ。
異性に秋波を送ればもてるとはかぎらない。むしろ、むやみに秋波を送らない人間の方がもてている。
酒場のマダムに愛想良くしてもらおうと思うなら、口説くことを断念することだ。断念しているかぎり、向こうは安心してやさしくしてくれる。つまり、「愛されたい」となど思わないことだ。
「愛されている(承認されている)」という自覚によってみずからの存在を確かめようとしている人間は、人から好かれない。そんなことを当てにしていない人間が好かれる。
当てにしないで、ただもう一方的にときめいてゆくことのできる人間が好かれる。愛されることを断念していれば、向こうだってむやみにいやがりはしない。愛されることを当てにして寄ってゆくから、邪険にされるのだ。
受け狙いが見え見えのジョークは、滑りやすい。仲間内なら「空気を読んで」笑ってくれるが、部外者の他人には鬱陶しいだけだ。
もしも自分が仲間を持たない裸一貫の人間としてこの世に置かれていると自覚するなら、「愛される」ことも、「愛される」ことによってみずからの存在を確かめることも一切断念するほかない。
人間が他者との関係の中に投げ入れられた存在であるのは、他者に「愛されている」ことによってみずからの存在を自覚するからではなく、他者にときめいてゆくことによってしかみずから存在の鬱陶しさを忘れることができないからだ。存在そのものにおいて、すでに他者にときめいているのだ。それが、「他者の中に投げ入れられてある」ということだ。
人間は、他者に愛されて自分を確かめているのではなく、他者にときめいて自分を忘れてゆく存在なのだ。他者がいないと自分を忘れることができない。他者がいないと自分を確かめることができないのではない。
自分を確かめようとすることが、分裂病の病理なのであって、自分が空虚に感じられることは病理ではない。
なのに現代の心理学は、自分が空虚に感じられることが病理だと決めつけている。
自分を確かに感じることが病理なのだ。「愛されている」という自覚が病理なのだ。
社会と調和して生きているものたちが、みずからの「自分を確かに感じること」や「愛されているという自覚」を合理化して手放さないでいるかぎり、分裂病の問題はけっして解決しない。
他人が自分の悪口をいっているのが聞こえるという幻聴だって、「愛されている」という自覚なのである。
「愛されている」という自覚を欲しがるなんて、病理なのだ。愛することのできない人間は、「愛される」ことを欲しがり、それによって帳尻を合わせようとする。
人間は、「愛される」ことを欲しがる前に、すでに「愛してしまっている」存在なのだ。「愛してしまっている」人間は、「愛される」ことを欲しがらない。
「愛される」ことは、よろこびではない。精神の危機、である。幻想、である。
「愛される」という状態など存在しない。「愛される」という自覚(=自意識)が存在するだけである。それが、精神の危機であり、幻想なのだ。
だから、「愛されている」と自覚することは鬱陶しい。それは、他者との距離感を喪失することである。
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   4・空間意識が壊れている
生き物は、他者の身体とのあいだに「空間=すきま」を確保することによって、はじめて体を動かすことができる。「愛される」ことは、その「空間=すきま」を失うことである。
「愛される」すなわち他者の意識に気づき、他者の意識が自分に張り付いてくること。
だからわれわれは、相手にその鬱陶しさを負わせるまいとして深くお辞儀をして挨拶する。また同時にそのとき、「愛されている」と気づくことを回避している。
「愛されている」ことを欲しがるのは、「愛している」状態を喪失する不安に由来している。「愛している」ことを確保するために、「愛されている」ことを望む。あるいは、「愛されていない」という不安を打ち消すために「愛されている」ことを望む。
「愛されている」という自覚を持ちたがる病理、がある。すなわち、他者との関係を喪失する不安。その不安が、幻聴を引き起こす。
人は、共同体の制度性の中に身を置くことによって、他者との関係を確認する。共同体の制度性から振り落とされる不安を打ち消すために「愛されている」という自覚を欲しがる。
共同体の制度性から振り落とされたり振り落とされる不安が募ったとき、無意識のうちに幻聴を捏造して共同体との関係を確保しようとする。
何はともあれ人は、他者との関係に対する不安から、「愛されている」ことを欲しがるようになる。
他者との関係が近すぎると、みずからの存在を自覚させられる鬱陶しさを覚える。他者との関係に適当な「空間=すきま」をつくってゆくことが、他者との関係の中に身を置くことである。
しかし共同体の制度性の中に身を置くことは、その鬱陶しさの中に身を置くことでもある。その鬱陶しさを止揚してゆくことで、人は、共同体と和解している。すなわち、みずからの存在を確かめることの鬱陶しさを、共同体と和解し調和することによって相殺している。そうやって「みずからの存在を確かめること=愛されること」が止揚されている。それは、共同体の制度性と和解し調和してゆくことであって、人間存在の根源のかたちでも人と人の関係の根源のかたちでもない。
われわれは、この社会の制度性に浸されて生きているから、どうしても「愛される」ことを欲しがってしまう。
「愛される」ことを欲しがるのは、「愛される」ことに対する飢餓感である。「愛される」ことの鬱陶しさを知らないから、そんな関係性をむやみに欲しがる。
愛されたがる人が多い世の中だから、愛していることを伝えようとする態度も盛んになる。
はじめに「愛される」ことに対する飢餓感があり、「愛される」ことを止揚する社会的合意がある。だから、むやみに愛されたがる。
他者との距離感を失っているから、他者の気持ちがわかるつもりでいる。わかるつもりにならなければ「愛される」ということは成り立たない。
他者の気持ちがわかることなどあるはずがないのに。
人は、他者の気持ちがわかるのではない。他者の身になって考えたりもらい泣きをしたりしているだけである。それを想像力というのであって、他者の気持ちがわかったつもりになるのは、ただの分裂病的妄想である。
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   5・愛されようとすることは、自分に対する関心である
問題は、いろいろややこしい。
一夫一婦制の社会になっていることにも問題がある。一夫一婦制の関係を成り立たせるためには、第三者を排除しなければならない。そうした家族の中では、まず子供が排除される。可愛がられているようでも、両親の関係が存在するということそれ自体に排除されている。
一夫一婦制の家族の子供は、まず「排除されている」トラウマを体験させられる。そうして他人の意識に過敏になり、排除されるまいとして愛されようとしてゆく。
排除されることに対する不安と恐怖、そこから、さまざまな病理現象が生まれてくる。そういう不安と恐怖が蔓延している世の中だ。
だから「他者に承認されることによって人間は人間たり得る」などという愚にもつかない言説が説得力をもったりする。
「愛される」こと、すなわち「他者の意識を自分の中に引き込む」ことが止揚されている世の中であるかぎり、分裂病の治療は錯誤し続けるほかない。
みんな分裂病なのだ。このことは自覚されてもよい。愛されることは鬱陶しいことだから、愛は長続きしないのだ。
しかしそれでも人は、愛されたがる。愛されている(承認されている)と自覚することは、まぎれもなく病理なのだ。
人は他者を愛し承認する存在であるが、愛され承認されていると自覚する存在ではない。愛され承認されていると自覚することの上にこの生が成り立っているのではない。
われわれは、他者の愛や承認を必要としているのではない。他者を愛し承認しているだけだ。
人にほめられれば、誰だってうれしい。しかし、ほめられようとしてしたときより、ほめられることを当てにしていなかったときの方がもっと嬉しいだろう。そして、ほめられることを目的にしている行為よりも、そんなことは忘れてあくまでも好きでやっている行為やせずにいられない行為の方がレベルが高いのである。
ほめられることを第一の目的にしてしまったために、ほんとうにしたいことやせずにいられないことを見失っている例はとても多い。これと同じで、愛はつねに一方通行である。返ってくることはない。返ってくると思い込んでしまうことが病理なのだ。
ほめられることはうれしいが、ほめられようとしてはいけないのだ。
ほめられようとすることは他者の意識を自分の中に引き込もうとすることであり、それに失敗したら、相手を恨んだり喪失感に打ちひしがれたりすることになる。そうやってだんだん心が壊れてゆく。
愛されても、愛されようとしてはいけない。「承認願望」は病理なのだ。それは、自分に対する関心であって、他者にときめいている状態ではない。他者にときめいているものは、愛されることなんか当てにしていない。愛されることすなわち愛されるであろう自分に対する関心がはたらいていないから、他者にときめくことができるのだ。
人は、自分を確かめて生きているのではない。自分を忘れて世界や他者にときめきながら生きているのだ。
愛されようとすることや他人の心理をわかろうとすることは、自分に対する関心という病理なのだ。だから、心理学者には分裂病は治せない。
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   6・自分や身体の実在は「危機」として知らされる
みずからの身体の存在は、痛みや空腹等の身体の危機として知らされる。だから、自分を確かめようとするときも、自分の危機として知らされる。分裂病の幻聴は、そのようにして起きている。
人間は、いやなことはなかなか忘れない。自分に対する関心が強いぶんだけ、自分の危機は忘れられなくなる。なぜなら、その危機によって、より確かに自分を確かめているのだから。
自分の実在も身体の実在も、「危機」として知らされる。人間は、先験的に「危機」として自分や身体の実在を認識している。そこから、この生がはじまる。そこから自分や身体を「非存在」と認識してゆくことが、生きるいとなみである。そして「非存在と認識する」とは、「実在を忘れる」ということである。
愛されたいとか、ほめられたいとか、ちやほやされたいとか、かまってもらいたいとか、そういうことを忘れてゆくことが人間の基礎的な生きるいとなみである。
愛されたいとかほめられたいと思うから、他者の意識を知って、他者の意識を自分の中に引き込もうとする。しかしそれは、つねに自分の「危機」として引き込んでしまう可能性をはらんでいる。
人間は、先験的に「危機」として自分や身体を認識している。したがって自分や身体は、「危機」として認識しているときこそもっとも確かに認識しているのだ。
言い換えれば、自分や身体の実在は、「知らされる」対象であって、「知ろうとする」対象ではない、ということだ。「知ろうとする」のは、倒錯であり病理なのだ。「忘れてゆく」ことこそ生きるいとなみなのだ。
「忘れる」という脳のはたらきを持っていないのは、とても危険なことである。
他者に「愛されている」ことを自覚しようとしないで(=忘れて)他者の存在そのものにときめいてゆくことにこそ、人間性の基礎がある。
人間は、みずからの身体(=自分)の実在感を確かめて生きているのではない。身体が感じる暑さ寒さや空腹や痛みを忘れてみずからの身体を「非存在の空間の輪郭」として自覚してゆくことが生きるいとなみになっている。
他者に愛されている(承認されている)と自覚することは、救いにはならない。人間は、そんなふうにして人間たり得ているのではない。
その「承認願望」が他者にはたらきかけてゆく契機になっているのではない。他者にはたらきかけて自分を忘れていないと生きられない存在だからだ。
人間は、根源において自分を確かめようとなんかしていない。だから、他者に「愛される=承認される」必要もない。
現代の心理学者は、分裂病を治す方向ではなく、分裂病を進行させる方向で人間を認識している。
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しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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