ネアンデルタール人は、人類がかくも限度を超えて大きく密集した集団をいとなむようになったことの先駆的な役割を果たした人々だった。
彼らは、べつに計画的戦略的に大きな集団を組織しようとしたのではない。ただもう人と人の自然で濃密な関係性が生まれてきて、気がついたら大きな集団になっていただけである。
しかしこの「人と人の自然な関係性」を、われわれは正しくとらえることができているだろうか。
生き物の生殖行動は「種族維持の本能」によってなされている、という考えが生物学の常識になっている状況である。そんなことをいっていて、「自然(=本質的)な関係性」が突き止められるのだろうか。「種族維持の本能」なんかあるはずがない。そんなもの、不自然だろう。
カラスがカラスとセックスをするのは、カラスという種族を守りたいためか。冗談じゃない。ヒットラーが「ゲルマン民族の血を守りたい」と言ったようなことを、カラスも考えているというのか。カラスがカラスとセックスしようとするのは、生まれたときからカラスとの関係の中で生きてきたからであって、たとえ本能的にであれ自分たちはカラスだという自覚があるわけでもなかろう。
カラスとカラスをセックスさせているのは「神」であって、カラス自身がカラスであろうとしているからではない……と言った方が、まだ自然だ。ここでいう「神」を「自然の仕組み」というように考えるなら、そういう理屈も成り立つ。
それはべつに、カラスの遺伝子に組み込まれた衝動というわけでもないだろう。カラスでもハトの中で育てば、ハトとセックスしようとするだろう。鳥の飼育などで、生まれて最初に見たのが飼育員なら、飼育員を親だと思ってしまう、というのはよく聞く話だ。
カラスがカラスとセックスをするのは自然の仕組みであって、カラスの「種族維持の本能」なんかではない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
利己的な遺伝子』のリチャード・ドーキンスは「遺伝子は<自己複製>する」と言ったそうだが、それは、「カラスはカラスを複製しようとする」ということではなく、あくまでカラスにとっての「自分」の問題だろう。
自然の仕組みはカラスとカラスをセックスさせるが、べつにカラスがカラスという種族であることを自覚しているわけではない。
どんな生き物も「いまここ」をけんめいに生きているのであって、種族維持だろうと何だろうと、そんな「未来」など意識しているはずがない。
「自己」すなわち「いまここ」を複製しているだけだ。
カラスは、カラスを複製しているのではない、「自己=今ここ」を複製しているだけだ。
それは自然の仕組みがそうなっているだけのことで、カラスの「遺伝子=本能」が選択していることではない。
「自己複製する」とは、「選択しない」ということである。誰にとっても「自分」だけは選択しようもない事実だ。
「いまここ」の事実を受け入れてゆくのが、この生の自然なかたちだ。
カラスとカラスが仲良くするのは、カラスという種族どうしだからではなく、生まれたときから一緒に暮らしてきた仲だからだ。そういう事実の方が、学者たちのいうどんな「本能」よりも重いのだ。そういう事実が、カラスとカラスをセックスさせているのだ。
「種族維持の本能」などと言われると、うんざりしてしまう。西洋人は、どうしてこんな愚劣なことを考えてしまうのだろう。おまえらはそんな考え方ばかりしているから、「ゲルマン民族の血を守る」というようなヒットラーの思想も生まれてくるのだ。おまえらにヒットラーを批判する資格なんかあるものか。
カラスとカラスがセックスするのは「神」の意志であって、カラス自身の「種族維持の本能」という意志ではない……それでいいじゃないか。
彼らが「神の意志」と「人間の意志」を混同してしまうのは、「神はみずからの姿に似せて人間をつくりたもうた」という前提を持っているからだろうか。その延長で「カラスの意志=種族維持の本能」まで捏造してやがる。それが、西洋人の思考の限界だ。
蓮実重彦氏をはじめとしてこの国の脳みその薄っぺらなインテリ連中はすぐ「日本語では本格的な思考はできない」などと言いたがるのだが、彼らには西洋人の思考の限界というものがちゃんと見えていないらしい。
「自己複製する」とは、「本能」などというものはない、ということだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
カラスとカラスがセックスることの自然な関係性とは、「種族維持」というスローガンにしがみついてゆくことか。そのときオスもメスも「種族維持」というスローガンで興奮しているのか。ヒットラーの演説集会じゃあるまいし。アホらしい。おまえらの考えることのその俗っぽさは、いったいなんなのか。
だいたいそのときメスは興奮なんかしていない。興奮していたり、「種族維持」という目的があったら、すぐやらせるさ。メスにはそんな本能も興奮もないから、求愛行動が生まれてきたのだ。
そしてオスだって、ヒットラーにそんなスローガンを叩きこまれた民衆のような恍惚も興奮も満足もない。ただもう欲求不満のいたたまれなさにせかされているだけだ。それは、興奮とか恍惚とか満足とはもっとも遠い状態なのである。
興奮しているのなら、いきなり乗っかってゆくさ。求愛行動などしない。しかし彼らは、やらせてくれ、と賢明に懇願しているのだ。人間社会のスローガンを共有して安心しきっているおまえらには、そのせつなさはわからないだろう。
オスもメスも「種族維持」というスローガンを共有しているのなら、オスはきっとすぐ乗っかってゆくし、メスだってそれを受け入れる。
そんなスローガンなど何も共有していない。オスはただやりたくてたまらないし、メスはやりたくない。そういうどうしようもない「断絶」が横たわっているから、求愛行動が生まれてくるのだ。
そのときオスの行動をうながしているのは、「いまここ」のどうしようもないいたたまれなさ(嘆き)であって、「種族維持」などという人間社会の制度的なスローガンのようなものではない。
生き物の生に「種族維持」というテーマなどないのだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
生き物の関係性の根源は、遠い昔の「雌雄の発生」にあるのかもしれない。それは、同じ性質や形質の完全な個体どうしの1+1=2というようなくっつき方ではなく、不完全で異質な個体どうしの0・5+0・5=1というようなかたちの出会いだったはずである。
ともに異質で不完全だから関係が生じるのであって、同質で完全なものどうしなら、ともに無関心であるか反発し合うだけだろう。
すべての個体が単体生殖できる完全な個体ばかりの世界なら、雌雄が発生してくるはずがない。
そういう根源を考えるなら、われわれ生き物が関係してゆくことには、コミュニケーションが成り立たない個体どうしのコミュニケーション、というような性質があるのではないだろうか。
オスとメスの断絶、すなわち「ディスコミュニケーション」、これが、生き物の自然な関係性の本質ではないだろうか。
カラスは、カラスとして生きているのではない。一緒に生まれ育った仲間と生きているだけである。その相手がハトであるのなら、ハトと一緒に生きてゆく。そこには、「種族」という自覚はない。「一緒に育った」という本能的な自覚があるにすぎない。
つまり、「一緒に育った」という「関係性」こそが「本能」なのだ。「関係する」という体験、生き物は、その「事実」を自覚しているのであって、カラスであるという遺伝子を自覚しているのではない。カラスであることの遺伝子には、カラスであるという自覚は組み込まれていない。遺伝子に組み込まれてあるのは、生まれ落ちてから体験する「事実」を複製してゆくことだ。
雌雄のある生き物は、「関係する」ということを体験する。「関係する」という行動性が遺伝子に組み込まれてある。それが、やがて生殖行動になる。
生き物は、種族であるという自覚でセックスしているのではない、「関係する」という行動性がセックスさているのだ。だから、カラスがハトとセックスするということも起きてくる。
パブロフの犬の「条件反射」だって、「関係する」という行動性が遺伝子に組み込まれてあるからだろう。
そして他者と「関係する」ということを覚えてゆくのは、基本的に雌雄のあるすべての生き物は不完全な個体として成り立っているからだろう。
自分だけでは完結できないから関係してしまう。また、たがいに異質だから、関係してしまう。つまり、ともに不完全で異質であるなら関係が成り立たないはずなのに関係してしまう。関係が成り立たないことが「関係する」ということだ。そういう「ディスコミュニケーション」の上に関係が成り立っている。
鳥の求愛行動は、そういう「ディスコミュニケーション」である。
・・・・・・・・・・・・・・
動物園で生まれたコウノトリの雛が、飼育員を親だと思ってしまう。これも「ディスコミュニケーション」だろう。コウノトリは、自分がコウノトリだと自覚する遺伝子のはたらきも種族維持の本能も持っていない。「関係する」という行動性を本能として持っているだけだ。
そして「関係する」とは、「出会う」ということであって、「コミュニケーション」をすることではない。だから、飼育員を親だと思ってしまった。
そのコウノトリはもう、生涯、飼育員が親だという「出会い」の体験を複製してゆく。そうやって「自己=今ここ」を複製してゆくことこそ本能であって、「種族」としての自覚など「本能=遺伝子のはたらき」には組み込まれていない。
「関係する」ことは、「出会う」ということであって、「コミュニケーション」することではない。
「出会う」ことは、「出会う」ことであって、「一体化」することではない。同じになることでも同じだと思うことでもない。だから、飼育員を親だと思ってしまう。
何はともあれ雌雄を持った生き物にとっての「本能=遺伝子のはたらき」は「関係する=出会う」という体験を複製(反復)してゆくことであり、それによって鳥は求愛行動をしている。
「種族の自覚」という本能などない。
オスの求愛行動は、関係に対する飢餓感の表現なのだ。オスとしての魅力や生殖能力を誇示しているのではない。こういうことは、「説得する=コミュニケーション」が万能だと思っている西洋人にはわかるまい。
「関係する」ことそれ自体、「出会う」ということそれ自体に関係性の本質があるのであって、「説得する」とか「コミュニケーション」ということはひとまずどうでもいいのだ。
しかしわれわれは、西洋人がつくりあげたこの「説得する=コミュニケーション」の論理を、この島国の言葉でどうやって突き崩してゆけばいいのだろう。それが問題だ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一日一回のクリック、どうかよろしくお願いします。

人気ブログランキングへ
_________________________________
_________________________________
しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
幻冬舎ルネッサンス新書 ¥880
わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

幻冬舎書籍詳細
http://www.gentosha-r.com/products/9784779060205/
Amazon商品詳細
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4779060206/