山と森の人類史・ネアンデルタール人と日本人97


ネアンデルタール人の「絆」の意識は淡かった。
この意識は、共同体の制度性によってつくられる。
人類が「絆」の意識を強くしていったのは文明の発生以後のことで、それによって共同体として結束してゆき、結束の外を排除するというかたちで戦争が生まれてきた。
現在のわれわれがそういう「絆」の中に置かれているとしても、それだけで生きているわけでもない。「絆の意識を取り戻さないといけない」などというべきではない。誰だって、もうじゅうぶん持ちすぎている。
絆の意識を淡くしておくという生き方や思考や感じ方の作法があり、それが日本文化の基底のかたちである。それはまあ、人間の原始性だともいえる。
原始人の絆の意識は淡かった。絆の意識の淡さこそ、人間性の普遍=自然である。



ネアンデルタール人の社会は「乱婚」だったといわれている。家族という絆などなかった。生まれてきた子供は、みんなで育てた。絆が淡いからこそ、そういう生態になってゆく。絆が淡いからこそ、誰もが他愛なくときめき合っていた。特別な関係としてくっついたり、その外を排除するということはなかった。
特別な関係に入り込むと、その外の人に対するときめきを失ってしまう。家族から国家まで、現代社会には幾重にも絆の意識を持たされる装置がはたらいていて、人はだんだん他愛ないときめきを失ってゆく。
絆の意識の淡いさびしい存在だからこそ、他愛なく人にときめいてゆく。
まあ人類が拡散してゆくということは、絆からはじき出されたものたちがその外に新しい集団をつくってゆくということの繰り返しで実現していった。したがってその繰り返しの果てに行き止まりの地まで拡散してきたネアンデルタール人たちにはもう、絆をつくろうとする意識はほとんどなかった。
集団の外に出た見知らぬものどうしが他愛なくときめき合ってゆく体験として新しい集団が生まれる。そういうことを繰り返して拡散してきた人たちの遺伝子には、他愛なくときめいてゆくというメンタリティが色濃くあった。
彼らは、そのころの地球上で、もっとも他愛なくときめき合い、もっとも絆の意識が淡い人たちだった。
そんな他愛なくときめき合ってしまう人たちが、特別な相手を選んで家族をつくってゆくということをするはずがない。



極寒の空の下の彼らは、洞窟の中で男と女が毎晩抱き合って眠るということをしていた。そうしないと、凍死してしまう危険があった。
抱き合えばとうぜんセックスすることになるのだろうが、誰を相手にするかはもう、早い者勝ちのような状況だったのだろう。誰でもよかったし、誰に対してもときめいた。まあ、いつもとは違う相手のほうがその気になりやすい。とくに男は、ペニスが勃起しないとセックスにはならないから、毎晩のように違う女のほうに寄っていっただろうし、女だってどんな男でもやらせてあげた。
きつく抱き合えば、自然にペニスは勃起してくるし、勃起したペニスを感じた女もやらせてあげようという気になってゆく。
きつく、心を込めて抱きしめる。それはもう、快楽のためというより、命がけの行為だった。彼らにとって抱き合いながら眠りにつくことは、相手を生かすことであり、自分が生かされることだった。
これは、セックスだけの問題ではない。こんな乱婚をしている人たちが、はたして他の集団と戦争をするだろうか。他の集団からやってきた旅人を追い払ったりするだろうか。
彼らはもう、本能的な他者を生かそうとする心の動きを持っていた。
旅人との出会いは、新しいセックスの相手との出会いの体験であり、ときめかないはずがない。
いよいよ寒さが厳しくなってきて人口を減らした集団どうしがひとつになるということはあったかもしれないが、戦争をしていたということはちょっと考えられない。
原始人が戦争ばかりしていたなんて、ありえない話だ。
彼らには、そんなことをしたがるような「絆」の意識はなかったし、その絆の淡さを飛び越えてときめきあっていった。



絆の意識が淡いことこそ人間性の自然である。
とくにネアンデルタール人は絆の意識が淡かったし、だからこそ、小さく結束することも外を排除することもなく、大きな集団をいとなむことができた。
大きくて密集した集団になれば、それなりに鬱陶しくなるしややこしくもなる。それでも彼らがその集団をいとなむことができたのは、誰もが絆の意識を淡くしていたからだ。
人類の集団が大きくなっていった歴史のはじまりはネアンデルタール人のところにあるのだが、その契機が絆の意識を淡くして他愛なくときめきあっていたことにあるということは、銘記しておいてもいいのではないだろうか。
猿としての限度を超えた大きな集団をいとなむという人類史の実験はここからはじまった、といってもよい。
われわれ現代人はもう、ネアンデルタール人よりもはるかに大きな集団を形成しているわけだが、それでもそうした集団を生きる基本のメンタリティは、絆の意識を淡くして他愛なくときめいてゆくことにあるのだろう。
そういう体験がなければ、しんどくてやっていられない。
絆という言葉でわれわれの心を縛るのはやめていただきたい。



ネアンデルタール人の男たちは狩が好きだったらしく、おそらく毎日のように出かけていたのだろう。たくさん食べないと凍え死んでしまう環境でもあったのだし。
そして多産系だった女たちも、新生児を抱えていれば子供の世話どころではなくなってしまう。
そのせいかどうか、ネアンデルタール人の社会には、子供だけの社会があったらしい。子供の面倒は子供たちで見ていた。これだって、小さな子がむやみにお母さんにまとわりつかないというメンタリティがあってこそだろう。ましてや、現代のような上の子が赤ん坊にやきもちを妬くということなどまったくなかったらしい。彼らの社会では、大人と子供や親子の絆だってとても淡いものだった。大人たちは、子供たちを見守るということはしても、干渉するということはしなかった。
これは、かつての日本社会だってそうだったのだろう。大人と子供の絆は淡かった。いまどきは、上手に「見守る」ということができない大人が多くなった。だから子供たちは、息苦しくなって自分の部屋にひこもってしまう。まあ社会全体が、学校をはじめとして子供を監視するシステムになっており、それは「干渉する」ということであって、「見守る」というのとはちょっと違う。
絆が大事の社会なら、どうしてもそうなってしまう。



日本列島にはかつて「若衆宿」というシステムがあり、戦後もしばらくは、「青年会」というかたちで引き継がれていた。
どの村にも大人たちとは別の若者だけの社会や家があり、祭りや災害救助などは若者たちがリードしてやっていた。まあ、大人の領分と若者の領分があった。「棲み分け」は、生き物の生態の基本である。そういう絆の淡さこそが生き物の自然であろう。そして日本列島ではとくに、人と人の絆は淡く按配されてきた。それは、狭い島に閉じ込められてきたということもあろうが、それ以上に「山の中に入ってゆく=非日常に向かってフェイクしてゆく」文化の風土だったからだ。絆を淡くしておかないと、非日常に向かってフェイクしてゆくということができなくなってしまう。
日本列島の文化は、生きてあること(=日常)に対する嘆きの上に成り立っている。その嘆きを共有しながら、絆を淡くしておくという関係の文化を紡いできた。
絆を淡くして非日常に向かってフェイクしてゆくというかたちの「探求する」態度こそが、日本的な知性や感性を花開かせてきた。
「探求する」すなわち「ときめいてゆく」ということ。
このようなメンタリティはまずネアンデルタール人がそうであったわけだが、日本列島もまた人類拡散の東の行き止まりの地だったのであり、おそらく住み着いた最初からネアンデルタール人に似た生態を持っていたはずである。
絆を淡くして他愛なくときめきあってゆく生態。
その西の極北の地の原始文化は、極東の島国で引き継がれ洗練してきた。



ネアンデルタール人もおそらく山の民だったはずである。
そもそも最初に発見されたのが、ドイツのネアンデルタール渓谷という山の中だった。
山の中に入ってゆきたがるのは、人間の原始的本能的な習性らしい。
サバンナは大型肉食獣がいるから、アフリカではサバンナに点在する森の中に住んでいた。森の中は、サバンナに比べれば人類のような身体能力が劣った猿でも比較的安全に暮らせた。
人類は、その歴史の最初から「森=山」の中が住処だった。
あるとき、サバンナに囲まれた小さな森の中にもぐりこんだ類人猿の集団があった。彼らにとってそこはもうまさに行き止まりの地であり、そこでたぶん二本の足で立ち上がっていった。そこには、排除するべき外部のライバルはいなかったし、そうなるともう順位制等の内部の秩序をつくるべき理由もなかった。ただ、集団の個体数が増えてくれば、みんなで行動するときや狭い場所で集まっているときはたがいの体どうしがぶつかり合うという不都合が起きてきて、ヒステリーを起こしそうになってきた。それで、いつのまにか自然にみんなで二本の足で立ち上がり、たがいの身体のあいだの「空間=すきま」を確保し合っていった。
そうして、他愛なくときめきあっていった。この姿勢はそもそも不安定な上に急所を外にさらしているのだから、攻撃されたらひとたまりもない。それでも誰もそんなことをせず、他愛なくときめき合っていった。それは、他愛なくときめきあっていないと成り立たない姿勢だった。
ここから、人類の歴史がはじまっている。
他愛なくときめきあっている猿として歴史を歩みはじめたのだ。



原初の人類が暮らしていた森は、ライバルがいない非日常的な空間だった。だから、順位制とともに内部で結束してゆくという日常としての絆も捨てた。その森は、彼らを非日常的な存在していった。非日常に向かってフェイクしてゆく心を持った猿になってゆき、非日常に向かってフェイクしてゆくように二本の足で立ち上がっていった。
そのあとたぶん気候の乾燥化によって森が二つに分断され、集団も二つに分かれた。何しろ内部の絆が淡い集団だったから、かなりばらばらに行動することが多かった。
そして、その二つの集団からはじき出されるというかはみ出てゆくものが出てきて、そうした者たちがまた新しい森に入り込んでいった。
もしかしたら人類拡散は、新しい「森=山」に入り込んでゆく体験の繰り返しとして進んでいったのかもしれない。そうしてそのたびに人間的な「探究心」を深く豊かにしてゆき、知性や感性を発達させてきたのかもしれない。
おそらくネアンデルタール人にも、「森=山」の中に入ってゆくという習性はあった。
とすれば数万年前に日本列島に住み着いた人々だって、住処はあくまで森の中につくっていたのだろう。その延長として、縄文人は山の中に入っていった。



「山の中に入ってゆく=非日常に向かってフェイクしてゆく」というコンセプトは、日本文化の基底であると同時に、人間性の普遍でもあるのかもしれない。
人間は生きてあることに嘆きを持った猿だから、どうしても非日常に向かってフェイクしてゆくという心の動きを持っている。
しかし、それをさせないで日常の絆の中に人をとどめ置こうとするのが、共同体の制度性である。そうやってエジプト・メソポタミア地方から人類最初の文明が発生し、戦争の時代になっていった。
絆とともに結束し、外部を排除してゆく……しかし人と人の関係は、これだけで成り立っているわけではないし、これだけでは知性も感性もどんどん鈍磨してゆく。戦後日本は、「民主主義」や「市民社会」という旗印のもとに平和の中のこの関係に邁進してゆくことによって高度経済成長を果たし、同時に「山の中に入ってゆく=非日常に向かってフェイクしてゆく」という歴史意識を失っていった。
おそらく、あの連中が合唱する「民主主義」や「市民社会」や「家族」や「ネットワーク」などというものでは、現在の社会病理や閉塞感の解決にはならない。どれもみな「日常=絆」にしがみついた論理ばかりである。
もちろん僕がその解決策を提示しようというつもりもないし、そんな能力もない。
ただ、どうして人は他愛なくときめき合う心を持っているのだろうということが気になっているだけである。しかし、たったこれだけのことを考えるのに、いったいここでどれだけの言葉を並べてきたというのか。
ああ、「腰砕け」という言葉が浮かぶ。
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