「ネットワーク」よりも「サークル」、ひとまずそう言っておくことにしよう。
「ネットワーク」の関係が新しい時代を切り拓くものだとは、僕はぜんぜん思わない。
「ネットワーク」を信奉することなんか、すでに限界が見えてきている。それはもう誰もが薄々感じていることだが、それでも時代の先導者を自認する知識人たちがなぜこの概念にこだわるかといえば、彼ら自身がこの関係の中でしか生きられなくなっているからだろう。
一方、「サークル」の基本的なかたちは、ネアンデルタール人が洞窟の中で火を囲みながらみんなで語り合っていたことを僕はイメージしている。
「ネットワーク」が、知らないものどうしがおたがいプレゼンテーションし合いながら仲良くなってゆく関係だとすれば、「サークル」は、プレゼンテーションの必要もないすでに顔見知りの関係である。
人と人の関係の根源は、「一緒にいる」ことではなく「出会いのときめき」にある。
たとえば、日本列島の伝統としての村の寄合は、ひとつの「サークル」である。そしてこれは「出会い」の場である。村の暮らしの停滞は、この場をたくさんつくってゆくことによって解消されていた。そのために日本の家屋は、寄り合いの規模によって襖や障子を取り外して広間にしてしまうことができる構造になっている。
また、村だけの集団の自家中毒を解消するために、旅の僧や旅芸人がやってきて、娯楽やよその土地の噂話を提供してくれた。それだって「寄り合い」という一つの「サークル」のバリエーションにほかならない。そうして旅の僧は、村どうしをつなげて共有の道路や橋やため池をつくるための仲介役にもなっていた。
顔見知りの「サークル」の場だからこそ、さまざまな「出会い」の場が生み出されていた。「サークル」こそ、「出会いのときめき」が生まれてくる場なのだ。
それは、日本列島だけのことではない。ネアンデルタール以来の伝統とうしての「サークル」の文化は、おそらく世界中に今なお機能しているはずである。
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「一緒にいる」ことなんか鬱陶しいばかりだ。「一緒にいる」という家族関係が崩壊して、そこから、「ネットワーク」という概念が止揚されてきた。
現在に至る戦後の60数年は、家族という概念が止揚され、やがて崩壊していった歴史でもあった。
だが、それに代わる「ネットワーク」に「出会いのときめき」はあるだろうか。
一見ありそうだが、じつはそうではない。
それは、見ず知らずのものどうしの出会いからはじまる。そのとき人はどういう反応をするかといえば、まず戸惑い、おたがいを探り合おうとする。だから、ともにプレゼンテーションしてゆかねばならない。プレゼンテーションによって相手の印象が決まる。プレゼンテーションの能力のある方が優位に立つ。
これは、現代社会そのものの構造でもある。
田舎から都会に出ていったものは、自分をプレゼンテーションしてゆかなければ、都会の一員になれない。入学試験や入社試験も、会社の仕事そのものも、おおかたはプレゼンテーションの場に違いない。そのようにして現代社会は、プレゼンテーションの能力によって階層化が進んでいるのだろう。
プレゼンテーションの能力を持った者にとっては、ネットワーク社会こそ住み心地がいいにちがいない。
ネットワーク社会では、「出会いのときめき」は起きない。起きないから、プレゼンテーションが必要になり有効になる。
ただ知らないものどうしが出会ったというだけでは、出会いのときめきは起きない。
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いや、知っていても知らなくてもいいのだが、出会ったときにすでに「共有」されているものがあるかどうかということだ。
すでに何かが共有されている関係においては、プレゼンテーションをする必要がない。「サークル」とは、ひとまずそういう関係のことを言う。
何も共有していないから、プレゼンテーションをしていかないといけない。というか、プレゼンテーションしないと生まれない価値だけを共有しているから、そういう関係になってしまう。
相手に教えてやるとか、相手の知らない情報を差し出すことは、現代人にとってはひとつの快感に違いない。
現代社会において、自分をプレゼンテーションしたがる人間が増えているということは、それだけ人と人の関係が希薄になっているからだともいえる。
知っている関係でも知らない者どうしの関係でもいいのだが、相手の存在そのものにときめくという体験を持っていないから、プレゼンテーションをしたくなる。また、存在そのものにときめかれたという体験を持っていないから、プレゼンテーションをしたがる人間になってゆく。
ここで言う関係の希薄さとは、物理的に親密かどうかということではない。家族であれば、ひとまず親密な関係だ。しかしそこでひとまず仲良くしながらも、相手の存在そのものにときめき合っているかどうかということは、また別の問題だろう。
いい子であれば、親と仲良くできる。しかしそのとき親は、いい子であることに満足しているだけで、子供の存在そのものにときめいているわけではない。いい子でなければならないというスローガンが、子供の存在そのものにときめく体験を奪っている。子供だって、親の存在そのものにときめくという体験を失って、いい子であることのプレゼンテーションをしていかねばならないという強迫観念を負ってしまっている。
直接的な関係になっていない。希薄な関係とは、そういうことでもある。
仲良くしていても、彼らの関係は、濃密でも直接的でもない。仲良くすることが優先されるなら、そういう関係になるほかない。
いい子であることを要求されてそれに反発して育ったとしても、親に直接的なときめきがなければ、やっぱりその子にはプレゼンテーションしていかないと関係はつくれないという強迫観念が植え付けられてしまうだろう。
そういう時代なのだろうか。
そうやって、誰もがプレゼンテーションしたがりの人間になれば、ネットワークというプレゼンテーションの場が渇望されてもくる。
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現在、「ネットワーク」という概念を称揚しておられる上野千鶴子氏や東浩紀氏のツイッターをのぞいてみるにつけ、彼らはどうしてこんなにも自分をプレゼンテーションしたがるのだろう、といつも違和感を覚えてしまう。そしてこの人たちには自分をプレゼンテーションしてゆくネットワーク社会が心地いいのだろう。
まあ、内田樹先生だって、プレゼンテーションしたがりということなら、彼らにぜんぜん負けていない。
そういう人たちがじつに多い世の中になっている。彼らはそれが人間の本性だと思っているらしいが、僕は、制度的な「病理」だと思う。
彼らは、こちらから勝手にときめいてゆく、という直接的な関係を失っている。だから、プレゼンテーションせずにいられない習性が、どうしようもなくしみついてしまっているし、しみついてしまっているという自覚が彼らにはないらしい。
人間としての色気(セックスアピール)がないんだよね。色気がなくてもプレゼンテーションの才能さえあれば尊敬されるし、好かれることもあるにちがいない。プレゼンテーションの才能が色気だとか人間的な魅力だとみなさん思っておられる。この国の現代社会には、そういう合意があるらしい。
尊敬されたり好かれたりすればそれで満足らしい。そりゃあ、そういう栄誉は、成功者のところに集まるに決まっている。そうして社会の階層化がどんどん進んでいる。
しかしたとえば、いまどきの芸能界でなぜ「竹野内豊」という俳優が色気のある男としてもてはやされるかといえば、彼は自分をプレゼンテーションすることの「はにかみ」を気配として持っているからだ。その「はにかみ」が色気になっている。
内田先生も上野千鶴子氏も東浩紀氏も、そういう「はにかみ」の気配がないんだよね。
プレゼンテーションしたがりなんて、この国の伝統文化でもなんでもなければ、人類の普遍的な文化でもない。
そして、人間社会からこの色気(セックスアピール)の文化をなくせるかといえば、そんなことはきっとあり得ない。なぜならそれこそが人と人の関係の基本であり、人間集団の基本であり、人間の本性に由来する文化であるからだ。
色気のある人間になれ、というのではない。誰もが勝手に相手の色気(セックスアピール)を感じ合っているような関係や集団がある、ということだ。
それは、生きてあることの「嘆き」や「はにかみ」を共有しつつ、誰もがむやみに自分のプレゼンテーションをしたがらないし、する必要もない集団において実現される。
「人間賛歌」とか「生命賛歌」とか「幸せ」とか「いい子」とか「いい社会をつくろうとすることの正義」とか、そんなことばかり言っていたら、人と人の直接的な関係、すなわち色気(セックスアピール)の文化などどんどん衰退していってしまう。
だが近ごろでは、「それだけじゃすまないよなあ」という気配にもなってきているのではないだろうか。
だから、竹野内豊がもてはやされる。
セックスアピールなんかプレゼンテーションするものではない。しなくても相手が勝手に感じてしまうものをセックスアピールというのだ。
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ある「サークル」内では、ブスとブ男だってくっついてしまう。そして彼らは、本気で相手に色気(セックスアピール)を感じている。「サークル」という集団では、そういう魔法がはたらいている。プレゼンテーションが必要な「ネットワーク」では、こうはいかない。
ブスやブ男だろうと、デブやチビやハゲだろうとかまやしないのだ。それが、「サークル」という集団である。
そういう「サークル」の根源のかたちとして、僕は今、洞窟の中で火を囲んで語り合っていたネアンデルタールの集団をイメージしている。
内田樹先生は、「家族を維持してゆくことそれ自体に意義がある」といっておられる。女房子供に逃げられたニューファミリーの世代としては、どうしてもそういうことにしておきたいんだろうね。そういうスローガンでしか新しい奥さんをつなぎとめておく有効な手段がないんだろうね。
存在すること自体に意義があるだなんて、思考停止そのものじゃないか。
家族なんて、あってもなくてもいいのだ。何はともあれ、親も子も、夫と妻も、きょうだいも、たがいに相手の存在そのものにときめくことができているか、と問われなければならない。そういう直接的な関係を持つことができているか。それがなければ、家族だろうとネットワークだろうとアウトなのだ。「存在し維持すること自体に意義がある」だなんて、そんなスローガンの間接的な関係に逃げ込もうなんてまったくいじましい話で、女房子供に逃げられた男の負け犬根性にすぎない。
いい子やいい親や仲良くしたってダメなのだ。あくまで直接的な関係として、相手の存在そのものにときめいてゆくことができなければならない。そういう「セックスアピール」が生まれている集団を僕は模索しているのだ。
生きることの価値なんか止揚したってだめだ。そんなことを繰り返しているから、成功者ばかりが得する世の中になってしまうし、色気のない人間ばかりになってゆく。
直立二足歩行の発生以来、人類は、生きてあることの「嘆き」を共有して歴史を歩んできたのであり、今でもそういうところで人と人はときめき合っているのだ。
日本列島においては、生きてあることの「嘆き」こそ縄文時代以来現在まで引き継がれてきた伝統の通奏低音にほかならない。そしてネアンデルタールの社会集団もまた、生きてあることの「嘆き」の上につくられていたと僕は確信している。
そういうところでは「ときめき=色気(セックスアピール)」の文化が生まれてくる。
何が「ネットワーク」か、くだらない。そんなことばかり言っているから、おまえらには人間としての色気がないのだ。
僕は上野千鶴子氏は嫌いではないから、あの人に文句を言ってきてもらいたいところだが、まあそれはあり得ないだろう。せめて、上野氏を信奉しておられる女性からの抗議があればなあ、と願っている。僕は、生まれてこのかた、女から責められることはわりと慣れているし、どちらかというと嫌いじゃないのですよ。
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