まあ行きがかり上、この問題にひとまずの決着をつけてしまいたいわけですよ。
ここでいう「サークル」は、「チーム」と言い換えてもよい。家族であろうと見ず知らずの集まりだろうと、プレゼンテーション(伝達)し合う「ネットワーク」の関係ではなく、たがいに気づき合う「サークル=チーム」の関係になってはじめてスムーズに機能する。
人は、「サークル=チーム」の関係の上に立って、はじめて「ネットワーク」を受け入れることができる。
「ネットワーク」の関係は、弱者を抑圧する。人類はこの関係で現在までの数千年のあいだ、共同体(国家)を運営してきた。いまさらこの関係をなくしてくれとは言わない。しかしわれわれ弱者は、「サークル=チーム」という関係を基礎に持っていなければ、この「ネットワーク」という関係のプレッシャーに耐えることはできない。また、他者にときめくことも、魅力的な人間も、この関係の中からしか生まれてこない。ひとまず「ネットワーク」という関係を受け入れて耐えるにしても、この「サークル=チーム」という関係の中でしか生きてあることの根源的なカタルシスは体験できない。
かんたんに「ネットワークの関係は未来の人と人の関係のスタンダードになる」などと言ってもらっては困るのである。その関係の本質は、国家が民衆を支配することにある。この関係を通じて人は、「ネットワーク」を発達させてきたのである。あなたが「ネットワーク」が好きだということは、あなたの心がそれだけ共同体(国家)の制度性に冒されてしまっているということを意味する。現代人は、誰もが冒されてしまっている。それはもうしょうがないことだ。われわれはそういう数千年の歴史を歩んできてしまったのだ。
しょうがないけどしかし、それでも人は、「サークル=チーム」の関係の中でこそ、より深く生きてあることのカタルシスを体験するのだ。
ネットワークの関係の中で誰もが自分をプレゼンテーションできるようになればいい社会が実現するのかといえば、そうはいかない。そんなことばかりしていたら、とうぜんそのぶん自分から他者に気づいてときめいてゆくという心の動きは減衰してゆくほかない。
「サークル=チーム」という関係の中では、すでに誰もが深く他者に気づきときめき合っているから、プレゼンテーションし合う関係は起きてこない。まあ、日本人が自分をプレゼンテーションするのが下手な民族であるということは、それだけ長い歴史を「サークル=チーム」の関係の中で生きてきたということだ。
・・・・・・・・・・・・・・・
東浩紀さんや上野千鶴子さんの、自分をプレゼンテーションしたがりのあの騒々しさはいったい何なのだろうと思ってしまう。あなたたちはそのぶん他者に気づいてときめいてゆく感受性が欠落しているし、他者に気づかれときめかれるという人間としての色気(セックスアピール)もどうしようもなく貧しい。
他者にときめかれるという体験をしている人間は、あなたたちほどにはプレゼンテーションしたがらない。すでに他者にときめかれてプレゼンテーションしなくてもすむ生き方をしてきたからさ。
あなたたちの場合は、幼いころの家族関係にたがいにときめき合う「サークル=チーム」の気配が希薄だったそのトラウマでしょうかね。いずれにせよこれは、現在のこの国全体の問題でもある。
われわれは、あなたたちのその、自分をプレゼンテーションして他人を支配してゆこうとする欲望のえげつなさを、ちょっと怖いとも思う。まあ、内田樹先生だって、まったく同じ人種だけどさ。
というわけで、東浩紀氏や上野千鶴子氏の信奉者やフェミニストの人たちの誰かが、ここに抗議してきてくれないですかね。どれほど激しい非難であっても、どれほど高度な論理の主張であっても、逃げはしません、できるかぎり誠実に返答するつもりです。
東浩紀氏と上野千鶴子氏には、もう一度こう言っておきます。この世界がおまえらみたいななんの色気もないうざったい人間ばかりになったら世も末だよ、と。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
プレゼンテーションしたがりは、少なくとも日本列島の伝統ではない。
みんながプレゼンテーションしてみんなが幸せになるいい社会を目指す、などと言われても、それがどうして「いい社会」なのか、僕にはさっぱりわからない。
自分をプレゼンテーションしてゆくことも自分の世界に引きこもることも同じなのだ。どちらもそれはひとつの「ミーイズム」であり、他者にときめきときめかれるという関係を喪失している。
人間集団の根源的なかたちは、ネットワーク以前の「すでに」ときめきあっている「サークル」の関係にある。
われわれにとっての「町」は、「ネットワーク」の場であるのか、「サークル」の場であるのか。
まあどちらの要素もあるのだろうが、基本的には、伝統的な村の寄り合いと同じく、共同体(国家)からの上意下達のネットワークから解放される「サークル」の場として機能してきたはずである。
日本中にいろんな町があるが、それぞれ町独自の文化がある。それは、ひとつの「サークル」の場として自分たちで文化を自給自足してゆこうとする無意識があるからだろう。
大阪と神戸と京都は、微妙に町の空気が違う。東京と横浜と鎌倉も違う。それぞれ独自の町の文化がある。
それぞれネットワークをつくって同じような町になろうとはしていない。
町には、「サークル」として文化を自給自足しようとする無意識がはたらいている。
町には、ファッションの流行がある。それは、雑誌からの情報だけでは起きない。その姿が町にあらわれてそれが町の好ましい景色としてみんなが納得してゆくことによって、はじめて流行になる。
また、町を歩くファッションと、クラブで踊るためのファッションと、コンサートに着てゆくファッションと、パーティーのときのファッションも、それぞれ違う。それぞれが「サークル」の場として文化を自給自足している。
なぜ自給自足しようとするかといえば、ネットワークに対する拒否反応が共有されているからだ。共同体(国家)のネットワークの圧力を「嘆き=拒否反応」として共有されていれば、町独自の文化が生まれてくる。
ネットワークに対する拒否反応が、人と人を結びつけてゆく。
自分をプレゼンテーションして他者を説得しようとしたり支配しようとするものにとっては、ネットワークの場が必要になる。しかしすでに気づき合いときめき合っている「サークル」の場においては、外部からのプレゼンテーションしてくる情報は拒否される。
この国の若者たちがみずからの「サークル」の場で「かわいい」の文化を立ち上げていったとき、共同体(国家)や大人たちが彼らを支配しようとしてプレゼンテーションしてくる既成の価値意識が拒否されていた。そのラディカル(根源的)な拒否の感性が、普遍性となって世界中の若者を魅了していったのだ。
われわれは、無意識においてネットワーク拒否し、文化を自給自足できる固有の集団を持とうとしている。持たなければ生きていられない。
ネットワークという関係には、共同体(国家)の発生以来数千年の人類の歴史の「けがれ」がまとわりついている。われわれは誰もがその「けがれ」をすでに負っている。その「嘆き」を共有しながら、「サークル」という場が生まれ育ってきた。したがって「サークル」の場においては、ネットワークを拒否し、文化を自給自足しようとする。
まあ個人においても、自分をプレゼンテーションしようとする人間は、どうしようもなく野暮ったい。これ見よがしの自意識丸出しの着こなしほど野暮ったい姿もないだろう。成金おばさんが見せびらかしている指より大きな指輪の宝石と同じこと。その野暮ったさは、人類史数千年の共同体(国家)の歴史によってもたらされた「けがれ」の表れなのだ。彼らは、「すでに他者にときめきときめかれている」という「サークル」の場を持っていないというか、「サークル」の意識が病理的に欠落している。だから、プレゼンテーションせずにいられなくなってしまう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一日一回のクリック、どうかよろしくお願いします。

人気ブログランキングへ
_________________________________
_________________________________
しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
幻冬舎ルネッサンス新書 ¥880
わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

幻冬舎書籍詳細
http://www.gentosha-r.com/products/9784779060205/
Amazon商品詳細
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4779060206/