このごろ話が堂々めぐりしてなかなか前に進まなくなっている。それはわかっているのだが、まだちょっとネアンデルタール人の「集団性」についての話題を変えるわけにいかない。これでも、人類の集団性を根底から問い直そうとしているつもりだ。
人間ならではのこの限度を超えて密集した集団性こそわれわれを生きにくくさせている元凶であるが、それでも先験的にこの集団の中に置かれてあることが人間であることのかたちであり、そのかたちから人間的な感動や快楽が生まれてくる。
人間は、集団をつくろうとするのではない。先験的に集団の中に置かれてあるようなかたちで存在しているのであり、そこからこの生がはじまっている。だから、つくろうとする衝動など持っていない。人間にとって集団は、すでに存在するのだ。
原始人は、ただ住み着こうとしたのであって、大きく密集した集団をつくろうとしたのではない。住み着いていった結果として自然に大きく密集した集団になっていたのであり、それは、人間が、大きく密集した集団の中に存在できるようなかたちを先験的にそなえているからだ。
すなわち、直立二足歩行とは、大きく密集した集団の中に置かれてあるという前提の上に成り立っている姿勢であり、そこから人間の歴史がはじまっている。
この集団がわれわれに何をもたらすか、ではない。集団なんて鬱陶しいだけで、何ももたらさない。それでも集団の中に置かれてあることはわれわれが生きてあることの与件であり、この与件の外で生きてあることはできない。
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限度を超えて密集した集団の中に置かれた原初の人類は、二本の足で立ち上がることによって、たがいの身体のあいだの「空間=すきま」を確保していった。たがいに身体が動くための「空間=すきま」を捧げ合うこと、この献身性の上に人間の集団が成り立っている。
人間には集団をつくろうとする衝動はないのだから、当然集団のために何かをしようとする衝動も根源的にははたらいていない。
人間に、集団に奉仕する行為を要求するべきではないし、そのような行為に価値や本質があるのでもない。
ただもう、他者の存在にときめくこと、このことが人間の集団性を成り立たせているのであり、ときめくことが献身なのだ。
誰もが他者にときめいていれば、集団は自然に大きく密集してゆく。人類の集団は、そういう1対1の他者性の上に成り立っているのであって、集団をつくろうとか維持しようとする衝動の上に成り立っているのではない。
ただ他者にときめくということ、それが人間の集団を成り立たせている。人間は、イワシの群れや渡り鳥の群れのような一糸乱れぬチームプレーなど持っていない。ただもうそれぞれの他愛なく他者にときめくという心の動きだけで、この無際限に大きな集団を成り立たせている。
言いかえれば、集団(=全体)のイメージを持っていないから、無際限に大きくなってゆくことができる。どこまで大きくしようという目的などないし、境界線を守ろうとする意識も本来的にはないのだ。
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人間社会は、ひとりひとりの他者にときめく心の上に成り立っているのであって、社会をつくろうとする心によって成り立っているのではない。
社会はすでに存在しているのであって、つくるものではないのだ。
政治家だろうと市民だろうと、社会をつくっている人間などいない。社会はすでに存在するのだ。
人々の社会をつくろうとする衝動によって社会が成り立っているのではない。社会の中に置かれていることを受け入れる心を誰もが先験的にそなえているから社会が成り立っているのだ。
根源的には、人間は他者にときめく能力しか持っていない。
他者に気づき他者を思うことがわれわれを生かしているのであり、そのことによって人間的な大きく密集した集団が成り立っている。
人間の集団は、根源的には、どんな弱いものも排除しないし、むしろ弱い者の存在に支えられて成り立っている。だから、無際限に大きく密集してゆくのだ。大きく密集した集団をつくろうとするのではない、もっとも弱い他者にときめいて生かそうとするから大きく密集した集団になってしまうだけのこと。
人間は、誰もが生きてあることの「けがれ」を負い、「けがれ」をそそぎながら生きている。弱いものや死者は、そういう「けがれ」をそそいでくれる対象として存在している。人は、そういう存在から生かされている。これが、限度を超えて密集した人間の集団の根源的なかたちだ。
人間に、集団をつくろうとか守ろうとするような衝動はない。
集団から既得権益を受けている人間は、現在の集団のレベルを守ろうとするだろう。現代社会の制度性は、人々を精神的にもそういう枠の中でしか生きられないようにしてしまっている。制度性に取り込まれて精神が硬直化してしまった人間が、「社会に奉仕せよ」とか「社会の動きに参加せよ」というような愚劣な道徳を振りかざす。
人間には本来、集団の境界に対するイメージはない。原初の人類が二本の足で立ち上がることは、集団の規模や境界に対する意識を忘れる行為だった。
人間は、限度を超えて密集した集団の中に置かれてある。そんな状況で、集団が大切だと思うのなら、他者との1対1の関係には鈍感になるしかない。鈍感になることによってはじめてその集団は止揚される。だが人間は、集団の鬱陶しさなど忘れて他者にときめいてゆく存在なのだ。人間であることの歴史は、そこからはじまっている。
人間は、社会との関係を生きているのではない。社会のことなどわすれて他者との関係を生きているのだ。人間は、社会をうまくイメージできない存在なのだ。
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人間はほんらい、集団をつくろうとする衝動など持っていないし、集団の輪郭に対するイメージもない。
ただ、存在そのものにおいて、すでに集団の中に置かれてあるのだ。人間は、集団をつくろうとはしないが、どんなに大きく密集した集団の中に置かれてあることもできる。
人間の集団は、どこで猿のレベルを突破したのか。
それはたぶん、脳容量が猿のレベルを突破していったことと軌を一にしている。
もともとチンパンジーよりも大きく密集した集団をいとなむ能力を持った猿だったが、さらに大きく密集していったことによって、そのストレスやら感動やらの精神生活が複雑になって脳が発達していったのだろう。
脳が発達したから世界中に拡散していったのではない。世界中に拡散したことによって脳が発達したのだ。
つまり、たとえまわりの集団と関係しているだけにせよ、世界が広くなったのであり、それによる精神生活の変化や複雑化が脳を発達させたのだ。
人間は、集団の輪郭(テリトリー)をうまくイメージできない。だから原始人は、猿のように、集団どうしがテリトリーを接して共存するという関係にはならなかった。猿に比べれば、必要以上に離れたところに新しい集団ができてゆく。そうやって、世界中に拡散していった。
現在のように国境(=テリトリー)を接するようになったのは、拡散しきった氷河期明けに人口が飽和状態になってきてからのことにすぎない。
もともと人間は集団やテリトリーのイメージがあいまいだから、テリトリーを接して共存するということをしてこなかった。しかしだからこそ、猿よりも大きく密集した集団と広い世界を獲得し、脳のはたらきを複雑にしていった。
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人類の脳が爆発的に進化したのは、つい最近の20万年前以降のことである。つまり、このころから集団の膨張が本格化してきた、ということだ。それとともに脳が発達し、世界も広がってきた。
20万年前、アフリカのホモ・サピエンスは家族的小集団で暮らしていたが、小集団どうしのネットワークを広げていった。
一方北ヨーロッパネアンデルタールは、寒さに追い立てられて多くのものが一か所に集まっていった。近くの集団どうしも合流していった。そのようにして、人類史上類を見ない大きく密集した集団が生まれていった。
広いネットワークの社会と、一か所で大集団を形成するのと、どちらが頭のはたらきを複雑にするだろうか。当然、一か所に集まった方が、ストレスもときめきも大きい。
いずれにせよ、どちらもそうやって住み着きながら世界を広げ、脳を発達させていったのだ。20万年前から13万年前の地球は、氷河期だった。この環境が、人類の脳を進化させ、集団性を発達させた。
差別をするつもりはないが、赤道直下の暑さと北の寒さとどちらが「脳=知能」を発達させるかといえば、北の寒さの方だということは、いろんな統計に出ているはずである。
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人類史のイノベーションは、氷河期の北の地で起こった。アフリカのホモ・サピエンスによってもたらされたのではない。
しかし氷河期の北の地は、人口が減ることはあっても、むやみに増えるところではない。つまりそこは、人口が増えないのだから、大きな集団をつくろうとする意図が生まれてくるところではない、ということだ。それでも、その地で大きな集団が生まれてきたのは、勝手に人が集まってきたのだろう。寒いから、人肌に引き寄せられた。おそらく、それだけのことだ。
もともと人間に大きな集団をつくろうとする衝動などない。ましてや、まだ脳も未発達なレベルの、数十万年前の原始人である。
いくつかの集落から脱走したものたちが集まって大集団をつくった、ということなどあるはずがない。そんなレベルの言葉があったのではない。
ただもう、ひとりふたりと一か所に集まってきただけだろう。それでも、長い年月のあいだに、気がついたら大集団になっていた。そこはもう、それ以上どこにも行けない極北の地だった。寒いからじっとしている以外になかった。とくに女子供は身動きできなかった。そして男たちは、そんな女子供を守ろうとしていった。寒いのだから、女の肌のないところになんか行きたくなかった。そこに来てしまったら、誰ももう、どこにも行けなかった。
どこにも行けなかった、ということ。それが、人類史上もっとも大きな集団が生まれてくる契機になった。
集団で狩りをするためとか、そういうことではない。そういうことは大きな集団が生まれたことの「結果」なのだ。
人類は、大きな集団をつくろうとする動機を持ったのではない。気がついたら大きくなっていただけであり、どんなに大きな集団の中に置かれてもなんとかやっていけるところが、人間の猿とは違うところだった。そうやってたがいの体を温め合いながら、大きな集団になっていった。そのとき彼らの意識は、集団にあったのではなく、あくまで他者の体であり、他者の存在だった。
大きな集団をつくろうとしたのではない。
他者に対するときめきこそ、大きな集団が生まれてくる契機だったのだ。
20万年前の北ヨーロッパは、行き止まりの地だった。もうどこにも行けなかった。彼らは、寒さに閉じ込められた。そうやって猿のレベルを超えた大きな集団が生まれてゆき、その集団の中で脳が爆発的に発達していった。
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