北ヨーロッパネアンデルタールが生息していた20万年前以降の氷河期は、人類のユーラシア大陸への拡散が一段落し、世界中で懸命に住み着こうとしていった時代だった。そしてこの傾向は最終氷河期明けの1万年前まで続き、それによって人類の脳が爆発的に発達し、文化のイノベーションが起きてきた。
何はともあれそうしたイノベーションは、住み着いてゆくことによって集団が大きくなり、集団性が複雑になってくることによって起きてきたのだ。
そうして集団が大きく複雑になれば、集団として自己完結できなくなり、他の集団との関係の仕方も進化してくる。人間はもともと集団の輪郭を明確に自覚して集団を完結させるということが苦手な生き物である。だから、集団どうしの連携を持とうとする。そうやって、文化や遺伝子が世界中に伝播してゆく。
そのころネアンデルタールは、ヨーロッパから中央アジア西アジアから北アフリカまで拡散していたが、すべて「ムスティエ」型という同じ石器を使っていた。それは、彼らの集団がそれほどに自己完結できない大きな集団で、絶えずまわりの集落との連携があったことを意味している。そういう状況が、脳を爆発的に発達させたのだ。
まあアフリカはアフリカで、家族的小集団どうしのネットワークを広げていったし、人類は、住み着くことによって脳を発達させたのだ。
つまり、人間関係がいろいろとややこしくなってきて、脳が発達してきた。
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人間は、すでに集団の中に置かれてある存在であるがゆえに、集団をイメージしない。
したがって人間の集団は自己完結できない。
猿の集団は、ボスをはじめとする順位制など、さまざまな規範がある。しかしネアンデルタールの集団には、そうしたものはほとんどなかった。彼らはただ、他者に対する関心と献身だけで集団を成り立たせていた。
そこは、もうどこにも行けないという行き止まりの地だった。大きな集団をつくろうとする意図などなかったのに、気がついたらそうなっていた。
もし人類に大きな集団をつくろうとする意図があったのなら、こんなにも大きな集団にはならなかったし、こんなにも脳が発達することもなかっただろう。
イワシや鳥は大きな集団を形成しても脳は発達していない。彼らにとって大きな集団は予定調和のことだから、戸惑うこともない。しかし人間は、大いに戸惑ったのだ。戸惑いながら脳が発達していったのだ。集団が大きくなってゆくことのストレスもときめきも大きかった。人間にとって集団を大きくすることは予定の行為ではなかった。
人間の関心は、あくまで他者との関係にある。
もしも100頭のシマウマがライオンに追いかけられたら、たがいの身体どうしの間隔を保ちながら一斉に右へ左へと逃げることもできるだろう。人間には、そんな芸当は絶対できない。たちまちぐちゃぐちゃになって将棋倒しになってしまう。それほどに集団のイメージがあいまいなのだ。
人間はもう、行き当たりばったりで集団を大きくしてきた。
人類学者たちは、人間の知能の特徴を「計画性」などというが、ある面で人間ほど行き当たりばったりな生き物もいないのであり、その行き当たりばったりの「即興性」こそ人間の知能を高度にも複雑にもしているのだ。
イワシや鳥の群れの一糸乱れぬチームワークの動きがひとつの「予測」の能力の上に成り立っているとすれば、人間はその能力を持たない。相も変わらずスタジアムやイベント会場で将棋倒しの事故を起こし続けている。
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氷河期において集団の人口の増えた地域は、行き止まりの地だけである。それが北ヨーロッパであり、大陸とつながっていた日本列島も同じだったのかもしれない。
たくさん子供が生まれ育って人口が増えたというのではない。地域全体の人口は減っても、人間が一か所に集まって大きな集団になっていっただけのこと。
たとえば温暖期のその地域に、100人の三つの集団があったとする。氷河期になってそれぞれ50人になってしまったが、その3つの集団がひとつになれば、温暖期のときより大きな150人の集団が生まれたことになる。
そうやって氷河期は人口が増えたわけではないが、より大きな集団が生まれてきた。
そのとき、誰も50人の集団を守ろうとなんかしなかった。それよりも他の集団との連携の方に関心があった。べつに生き延びるためではない。生き延びるためなら、小さくコンパクトにまとまっていった方が都合がよかったかもしれない。
しかしもともと人間には集団全体のイメージがなく、あくまで出会いのときめきに身をゆだねていった結果として、ひとつの大きな集団になっていった。
彼らに「計画性」などなかった。成り行きまかせの「出会いのときめき」によって、150人の集団になっていった。
計画性など持っていたら、その大きな集団は生まれなかった。大きな集団になれば混乱して鬱陶しくなるという「予測」など立てなかった。もともと集団のイメージがあいまいな人間は、ほかの動物よりももっと混乱し鬱陶しさを覚える。そうやってうろたえながら脳が発達していったのだ。
計画性や予測の能力を持たなかったから人間の脳は発達したのだ。
人間の脳を発達させたのは、計画性や予測の能力ではなく、行き当たりばったりの出たとこ勝負の「即興性」なのだ。
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さて現代社会においても、集団全体の未来図をあれこれ偉そうに描いて見せる人間は多いのだが、人間性の基礎は、そんなことなどわすれて今ここの目の前の他者にときめいてゆくところにある。そういう即興的な心の動きを失った人間が、あれこれ集団の未来を語りたがる。
集団全体のイメージなんてどうでもいいのだ、目の前の他者の心に寄り添ってゆくことの上に人間の集団性が成り立っているのだ。そこのところを、えらそうなことを言う彼らは何もわかっていない。
大人の知恵によって集団が支えられているのではない、子供じみたというか原始的なというか、そういうイノセントな他者に対するときめきが人間の集団性の基礎になっているのだ。
集団の未来を語る大人の言説よりも、生きてあることのときめきやかなしみを直接「あなた」に語りかける言説の方が、おそらく現在のこの社会にはずっと大切なのだ。集団の未来ばかり追いかけて目の前の他者に対するときめきが希薄になっていることこそ、この社会を生きにくいものにしている元凶なのだ。
集団のイメージを持たない人間存在は、集団に対して大いに鬱陶しがり嘆きもする。しかしその嘆き(ストレス)が、人間の脳を発達させた。生き物の進化は、そういう嘆き(ストレス)が起きているところから生まれてくるのだ。
たとえば、人類の言葉は、世の研究者たちが言うように「計画性(予測)」から生まれてきたのか、それとも「即興性」から生まれてきたのか、これは一考に値する問題だろう。
まあ僕は、予測の能力なんかなんにも素晴らしいとは思っていない。たとえば予測の能力で目の前の人間を動かそうとして生きてきた内田樹先生が、どれだけ女にもてたのかといえば、あんがいたいしたことないと思うよ。
女をたらしこむことがうまくならなくても、女に惚れられる男になればいいだけさ。
そんなスケベ根性なんか捨てて無邪気にときめいてゆけばいいだけのことだし、そのことの方がずっと人間的な社会の基礎になっているんじゃないの。
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