閑話休題・泣くという感情について

先日海江田経済産業省大臣が国会答弁中に落涙したとかで、そのことについて内田樹先生が、先験的な感情などというものはない、といっておられる。
泣くことを学習することによって悲しいという感情が生まれてくる、という。
じゃあ生まれたばかりの赤ん坊は、誰から泣くという行為を学習したのか。彼はそのあともしばらく、この世に自分以外に泣くという行為をする人間はほかに誰もいないという状況の中で生きる。
人間は、泣くという行為を誰からも学習しない。誰もが、この世で最初に泣いた人間として生まれてくるのだ。
意識とは、感情である。この世界やみずからの身体に対する異和感という感情として意識が発生する。
生まれたばかりの赤ん坊が泣かないと、ゆすったりして無理やり泣かせることがある。泣かないのは、意識が発生していない証拠だからだ。
何が「先験的な感情などというものはない」か。
人は、泣くことによって悲しいということを自覚する。それは、先験的に悲しいという感情を持っているから、自覚することができるのだ。泣いてから悲しくなるということがあるものか。泣くことによって、自分が悲しかったことに気づくだけのこと。
悲しいから泣けてくるのだ。こんなこと、当たり前じゃないか。この世の中には、この程度のことすらわからないアホがたくさんいる。内田先生は、ミラーニューロンがどうちゃらこうちゃらとしゃらくさいことをいっているが、泣くことは、ミラーニューロン以前の問題なのだ。
人間は、泣くことを誰からも学習しない。
赤ん坊は、自分固有の生のかたちとしてすでに泣くという行為を持っているから、ほかの赤ん坊が泣いたら、自分も泣きたくなってしまうのだ。そのとき彼は、泣くという行為を学習しているのではない。みずからの固有の生のかたちを呼び覚まされているだけなのだ。
つまり赤ん坊のもらい泣きの連鎖は、意識は感情として発生する、ということを証明している現象であって、誰も悲しみを学習しているのではない。かなしみは、この生のかたちとして誰もが先験的に持っている。
泣くことによってかなしくなるのではない。自分がかなしんでいたことに気づかされるのだ。かなしみは、この生の通奏低音としてだれもが持っている。だから人はもらい泣きをしてしまう。
そのとき人は、泣くことやかなしみを学習しているのではない。この生の通奏低音としてかなしみが息づいていることをよびさまされるのだ。
内田先生がどうしてこれしきのことがわからないかというと、もともと人間に対して鈍感で、人にときめくという感情が希薄だからであり、自分の感情と向き合うという習慣を持っていないからだろう。かなしいとか腹が立つとかわけがわからないとか、そういう感情と向き合うことができないのであり、そういう感情が起きてくるとたちまちへりくつ(観念)で封じ込めて自分をつくろってしまう習性を持っているからだ。
だから、今回の大震災のときも、被災した人びとのかなしみを追体験することができなくて、勝手にハイになってうかれまくり、へりくつをこねまくっていただけだった。そのとき僕は、この男の正体を見た、と思った。
それがわからなくて、この男の薄っぺらなへりくつに振り回されている人間がこの世には、うんざりするくらいたくさんいる。振り回されているというのか、共犯者というのか。まあ、同類なんだろうね。
世の中にこんなアホが一人いるということなどどうということもないが、同じようなアホがわんさかといて群れているということに対しては、なにやらひどく気味悪いし、怖いし、かなしいとも思う。
「先験的な感情などいうものはない」などという言い草は、人間的な生のかたちを持っていないということと同義なのだ。そりゃあね、何もかも作為的にしか生きられない鈍感なブ男連中には、感情なんて邪魔なだけだよね。
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