人間だって猿と同じ生き物だが、人間と猿は違う。人間と猿の違いは、人間と鳥との違いより重要だ。
人間の根源は猿にあるのではない。猿と違うことが人間の根源なのだ。
猿の群れには秩序があって、人間の群れは基本的には無秩序で、そのストレスの中で生きている。
そのストレスから、猿のレベルを超えて脳が発達してきた。
秩序とは、未来の混乱を予測してそれを回避することによって成り立っている状態のことか。猿の群れは、そういうことをシステムとしてもっている。それはあくまでシステム(習性)であって、猿が未来を予測しているわけではない。生き物は、身体の傾向や能力に合わせて、自然にそういう生のシステムになってゆく。つまり、そういうシステムから生かされている。
べつに種族維持のために子を産むのではない。セックスをしたら妊娠し子が生まれてくるような体になっているだけのこと。べつに妊娠し妊娠させるためにセックスするのではない。体がむずむずするからそうしただけのこと。未来なんか予測していないが、未来がうまくいくような命の仕組みになっている。
猿の群れは、べつに群れの維持に支障をきたすという未来を予測するから余分な個体を追い出すのではない。余分な個体を抱えていると鬱陶しいから追い出すだけのこと。べつに群れの維持のためじゃない。鬱陶しいだけのこと。しかしそれが、結果的に群れの維持につながっている。
人間社会は、動物のような未来を先取りするシステムを持っていない。その欠落を埋め合わせる機能として、人間的な文化や文明が生まれてきた。
どんな生き物も、未来を予測するような根源的な意識のはたらきは持っていない。ただ命の仕組みがそうなっているだけのこと。
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キャッチボールをするとき、相手の投げたボールがこちらに届くことを予測している。しかしそれは、過去の記憶を反芻しているにすぎない。今まで経験したことのない速さで投げられたとき、予測して早くグローブを構えることができるかといえば、それはできないであわてふためくのが人の心である。
今まで体験したことのない事態を予測する能力は、生き物にはない。すなわち、生き物の根源的な意識に、未来を予測しようとする衝動ははたらいていないということだ。
ただ、未来を予測しようとする制度的な観念のはたらきがあるというだけのこと。
シマウマがライオンに追いかけられて逃げるのは、ライオンに食われることを予測するからではない。そんな事態に遭遇したことのないどころか、ライオンに追いかけられたことのないシマウマでも、そうなったら逃げる。それは、ライオンとの身体の距離が近づくことを嫌う本能的な意識のはたらきを命の仕組みとして持っているからだろう。べつに、予測するからでも、予測しようとしているのでもない。それは、純粋に「今ここ」に対する反応なのだ。
人間だって、根源的には予測しようとする意識のはたらきなど持っていない。
では、予測する観念のはたらきを持ったから人間的な文明や文化が生まれてきたのか。
『人類がたどってきた道』の著者である海部陽介氏は、人類は「未来を見通す計画力」を持ったから文明や文化を発展させてきた、としつこく力説しておられる。しかも、この能力を5万年前のアフリカのホモ・サピエンスは持っていたがヨーロッパのネアンデルタールにはなかったというのだが、話がここまでくるともう、このバカ何を言ってるんだ、という感想しか持ちようがない。
しかし百歩譲って、人類の文化や文明は「未来を見通す計画力(予測の能力)」から生まれてきたのかと問うても、そうではないだろうという答えしか浮かんでこない。そんな能力が人類の進化をもたらしたのではない。
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たとえば、ことばの発生を、赤ん坊が言葉を覚えてゆく現場で考えてみよう。
まず赤ん坊は、お母さんやまわりの人間の口真似で言葉を覚えてゆく。
お母さんが「ワンワン」といって赤ん坊も「ワンワン」といえば、犬のことを表現する言葉を覚えたかといえば、必ずしもそうとはいえない。
犬がワンワンと吠えることを知らない赤ん坊はいくらでもいるのだ。それでもお母さんのまねをして「ワンワン」と言うようになる。そのとき赤ん坊は、犬がワンワンと鳴くから「ワンワン」といっているのではない。つまり、犬がワンワンと鳴くことを予測して「ワンワン」と言っているのではない。彼にとってそれは、犬を示す言葉ではない。犬と出会っている事態に対するときめきを表す言葉として「ワンワン」といっているのだ。
犬との「関係」を表す言葉としての「ワンワン」、その関係に対する「ときめき」を表す言葉としての「ワンワン」であって、犬のことを言っているのではない。。
言葉は、「ときめき」の表現として発生してくるのであって、対象そのものの意味の表現として発生してくるのではない。
赤ん坊は、犬がどんな生き物かということなんかすでに知っている。「ワンワン」という言葉で犬のことを知るのではないし、それが犬であることを伝えようとしているのでもない。その言葉は、誰に伝えようとしているのでもない。ただもう、犬と出会っていることの「ときめき」の表現として「ワンワン」といっているのだ。「ワンワン」といわずにいられない「ときめき」があるからそう言っているだけなのだ。
そのときお母さんは意味の伝達として赤ん坊に「ワンワン」といったが、その口真似をする赤ん坊は、意味の伝達としてお母さんに向かって発しているのではない。
赤ん坊は、お母さんが犬との出会いの「ときめき」として「ワンワン」と言ったのかと理解した。
お母さんとその「ときめき」を共有しているという気持ちもある。
言葉は「伝達」されるのではなく、「共有」されるのだ。お母さんと「ワンワン」という言葉を共有しているというときめき、犬と出会って犬と同じ世界同じ時間を共有しているというときめき、それが「ワンワン」という言葉になる。
べつに犬のことを説明しているのではない。犬のことなんかとっくに知っているし、もちろんお母さんだって知っていることがわからないはずもない。だったら、何をいまさら犬を説明する必要があろうか。それは、犬との出会いの「ときめき」を表現しているのであって、犬そのものことを言っているのではない。その「ときめき」の表現として「ワンワン」と言っているのであって、犬がワンワンと吠えるかどうかということなど赤ん坊にとってはどうでもいいことなのだ。にゃあにゃあと鳴いても、犬は「ワンワン」なのだ。
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原初的な言葉は、対象との出会いの「ときめき」、すなわち対象と出会って心が動いたというその心のさまを表現しているのであって、対象そのものを表現しているのではない。
二歳前後になってくると、しゃべり方もだんだんスムーズになってくる。
それまで単語しかしゃべらなかった子供が、ある日突然「ちょっと待っててね」と言ったりする。このとき子供は、「ちょっと」という言葉と「待つ」という言葉とその意味を知っているかというと、そうではない、知らないのだ。センテンス(文節)、という意識すらない。それは「ちょっと待っててね」という単語であり、心の動きの表現なのだ。べつに「ちょっと待っててね」という言葉の意味なんか知らない。
そういう言葉が生まれてくる状況があって、そういう状況で誰か(たぶんお母さん)が言ったのを覚えていて、そういうことを突然言ったりする。
これは、「リンゴ」とか「犬」というような具体的な対象を指す言葉ではない。それでも幼児は覚えてしまう。「ないない」という言葉だってそうだ。そういう状況に置かれたときの気分を表現する言葉として覚えるのだ。もともと言葉はものの表現や説明として生まれてくるのではなく、たんなる「心の動き」の表出として生まれてくるから、そういう言葉だって覚えてしまう。
けっして「意味の伝達(=予測)」として生まれてくるわけではないからこそ、いろんな言葉を覚えてゆくことができるのだ。
ややこしいいい方をすれば、具体的なものを言葉というかたちに「抽象化」しているのではない。子供は、たんなる「音声」として言葉を覚えてゆく。たんなる音声だからこそ、「ちょっと待っててね」などという高度な表現だって突然覚えてしまうのだ。
言葉は、気分を表出する「音声」である。こんなことを、前述の海部陽介氏のようなアホな人類学者に言ってもわからないだろうな。彼らが言うような「抽象化」の能力とか「計画力(予測)」とか、そんなところから言葉が生まれてくるわけではないんだよ。そんな観念のはたらきが人類の進化をもたらしたのではない。
人間社会は、猿の社会のような予測のシステムを失って行き当たりばったりで運営されている。だからこそそのことによるストレスとして、言葉という音声を発しないではいられないような心の動きが生まれてきた。
人間の乳幼児は、世界に反応する身体能力を持たない。生まれたばかりの赤ん坊は、おっぱいのところににじり寄ってゆくことすらできない。それは、おっぱいのありかを予測して探すということをしていない、ということを意味する。だからこそ、空腹のつらさがひとしお身にしみて「泣く」という行為が盛んになってゆく。そうやってまったく無力のまま行き当たりばったりで生きているからこそ、心の動きが豊かになり、言葉という音声を発するようになってくるのだ。
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赤ん坊は、苦労人なのだ。その苦労の上に、言葉を発する能力が身についてゆく。
50万年前以降に氷河期の北ヨーロッパに住み着いてきたネアンデルタールとその祖先たちだって、人類史上もっとも艱難辛苦を生きた人々だった。彼らは、先のことなんか考えないで、今ここをけんめいに生きた。南に行けばもっと住みよい土地があるのに、それでも極寒の今ここをけんめいに生きた。だからこそ、その苦労とともに言葉が発達してきた。それは、「計画力」や「抽象化の能力」によって生まれてきたのではない。行き当たりばったりに今ここをけんめいに生きる、そのストレスやときめきから生まれてきたのだ。
人類の言葉は、過酷な地をけんめいに生きた彼らのその歴史から生まれてきたのであって、アフリカのホモ、サピエンスの知能がどうこうしたというような話ではない。おまえらほんとうに「計画力」だの「抽象化の能力」だのと、そんな安っぽい概念で人間を語ろうとするなよ。
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