大きなスタジアムに集まってきて大観衆になるのは、スポーツにせよコンサートにせよ、ほとんど若者ばかりだ。
大人たちは、あまりそういうところには来ない。
60年代の安保闘争のころは、休日の新宿西口地下広場にいつもたくさんの若者が集まってきては、集会を開いたりデモに繰り出したりしていた。
天安門事件や近ごろの中東における反政府運動の大きな盛り上がりにしても、若者の動きが中心になっていた。
人間が限度を超えて密集した大きな集団をつくる生き物だとしたら、その集団が生まれてくる契機は、大人よりも若者の心の動きや行動様式の中にある、
ネアンデルタールの平均寿命は30数年で、その社会は20代の若者が中心になってつくられていた。だからこそ彼らは、その後の人類が大きく密集した集団をつくるようになってゆく歴史の基礎となることができた。
ネアンデルタールの登場によって、現代文明の基礎が築かれたのだ。すなわち、ネアンデルタールの若者によって。
人類700万年の歴史の699万年以上は、30数年の寿命で歴史を歩んできた。人間がそれよりも長く生きることができるようになって大人が中心の社会がつくられてきたのは、西洋では氷河期明けの1万年前以降のことだが、日本列島においては、弥生時代以降のここ2千数百年のことである。アフリカの赤道直下やアマゾンの原住民の社会なら、近代になってからのつい最近のことに違いない。それまではずっと若者が中心の社会だった。
人類の文明や人間性の基礎は、若者がつくったのであって、大人ではない。
日本列島1万3千年の歴史の1万年以上は20代の若者が中心の社会だった。したがって日本文化や日本人の心性の基礎は、若者のそれとしてつくられている。そのへんのところも、氷河期が明けてすぐに人口爆発が起きて大人中心の社会をつくってきた西洋とは違うところである。
いずれにせよ、人類が大きく密集した集団をつくってしまうことの基礎的な心の動きを問おうとするなら、それは若者の中にある。
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若者たちが何かのはずみでひとつの大きな塊になってしまうエネルギーの源泉はどこにあるのだろう。
人類の集団性の根源的な契機として、ある人類学者はこう言う。「人と人の関係はたがいに誘惑し誘惑される関係にあるから、それがネットワークとして大きな塊になってゆくのだ」と。
そうだろうか。若者たちは。誘惑し誘惑され合っているだろうか。
僕は、若いころ、女の体のエロチックなニュアンスなど何もわからなかった。ただもう、やりたかっただけだ。裸であれば、それでよかった。AVビデオは、女の性器ばかり写している。それはもう、しょうがないことだ。若者が感じるエロチシズムなんか、そんなところにしかないのだもの。
つまり、若者は誘惑し誘惑される存在ではないということだ。何がエロチシズムかということもよくわからないのだから、誘惑されようがないし、誘惑することもうまくできない。
僕だって歳をとった今なら、女の裸のエロチックなニュアンスについて、無限に書き連ねることができる。だから、老いらくの恋は、深みにはまって始末に負えず、ときに刃傷沙汰になったりする。年寄りほど誘惑される存在もないのである。また、そういうことだけでなく人間の心理などもよくわかってくるから、誘惑したがるようになるし、誘惑するのがうまくもなる。そうやって大人の内田樹先生は、他人を誘惑したらしこむ言説を日本中にまき散らしているではないか。
「誘惑」なんて言葉はちょいと文学的で哲学的な匂いもするから、近ごろの思考の薄っぺらな文化人類学者たちがよろこび勇んで振り回しているが、そんなことは大人の駆け引きの世界の話であって、人間の根源的な関係でもなんでもない。
若者の本性は、誘惑することもされることもない。そして、まさにその本性によって、大きな集団になってしまうのだ。
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裸一貫の人間は、誘惑することもしないし、されることもない。それでも彼は、すでに限度を超えて密集した人間的な集団の中に先験的に投げ込まれて存在している。問題は、そこにある。若者は、裸一貫の存在だから大きな集団になってしまうのだ。
若者と中年以上の大人では、その姿が持っているなんとなくの気配が違う。それはもう、後ろ姿を見ただけでなんとなくわかってしまう。若者の身体からは世界に対する「孤立性」のようなものが漂っていて、身体の輪郭がすっきりしている。それに対して大人は、世界と和解してそこにはめ込まれてしまっているから、身体の輪郭があいまいですっきりしない。
どんなバカな若者でも、若者であれば身体の「孤立性」というものを持っている。彼らは、大人のような誘惑したりされたりするような馴れ合いの関係では生きていない。そういう能力を持っていない。しかしそういう生きてあることの心もとなさを持ち寄りながら、大きな集団になってゆくのだ。そういう心もとなさを持っている人間でなければ、大きく密集した集団の鬱陶しさに耐えられない。
若者は、相手の心がよくわからないから、相手に深入りするということをしないし、できない。だからこそ、密集した群れに耐えることができる。
それに対して大人は、よけいな勘ぐりをして分かった気になってしまうし、わかられるまいと警戒したりするから、そういう集団に入れられると落ち着かなくなってしまう。
密集していてもなお他者の身体とのあいだに「空間=すきま」をつくることができるのが直立二足歩行する人間の本性であるが、若者はそれができて、大人はできない。大人はその「空間=すきま」を失って、誘惑したりされたりする関係になってしまう。そんな関係になってしまったらもう、限度を超えて密集した集団の中にはいられない。
その相手が、子供であれ家族であれ好きな異性であれ、特定の相手に深く執着してしまう大人には大きく密集した集団の中にいることはできない。
ネアンデルタールには、そうした執着はなかった。だから、大きく密集した集団をつくる人類の歴史の開拓者になることができた。
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人間の集団は、「この世のもっとも弱いもの」を生かそうとする衝動とともに限度を超えて密集し、大きくなっていった。おそらく若者は、この衝動を持っているから大きな集団になってしまうのだろう。
彼らは、自分自身がすでに「この世のもっとも弱いもの」として生きようとしている。だから、危険な冒険を好む。そのとき彼は「この世のもっとも弱いもの」として、その心細さにうちふるえている。そしてそれは、エクスタシーなのだ。そういうところから、「この世のもっとも弱いもの」を生かそうとする衝動が生まれてくる。
若者の「孤立性」とは、「この世のもっとも弱いもの」として生きているということだ。たとえ自分のことを天才だと思っていたとしても、気分は「この世のもっとも弱いもの」としてどこかしらで途方に暮れている。彼らがスポーツや遊びや恋に熱中するのは、みずからの無力性にエクスタシーを感じているからだ。
言いかえれば大人は、みずからの能力を確認することばかりしてそういうエクスタシーをすでに体験できなくなっている。たとえば、これ以上の出世はもう望めそうもないと諦めるのは、無力性を感じているのではなく、自分の能力を確認しているだけのことだ。
無力だからこそ、そこであがくことにエクスタシーがある。冒険とはまあそのようなことであり、若者にとってはスポーツも遊びも恋も、ひとつの冒険なのだ。彼らは、みずからの能力を知ろうとはしていない。だから、もしかしたら俺は天才かもしれない、などとも思ったりする。自分の能力をわきまえてあきらめるということなどしていない。そんなことなど眼中になく、ただもう能力のぎりぎりのところであがいてその行為からエクスタシーを汲み上げているから、「天才かも」と思ってしまうのだ。
それは、「全能感」ではない。むしろ「無力感」というべき感覚なのだ。
自分の能力をわきまえている大人より、自分のことを「天才かも」と思っている若者の方がずっと「無力感」を知っている。もっと小さな子供なら、だれもがプロ野球選手になれるつもりでいる。それは彼らが、能力のぎりぎりのところで生きている無力な存在だからだ。また、つねに精進している才能のある人間ほど「無力感」とともに生きている。その「無力感」が精進に駆り立てるのだ。
彼らこそ「この世のもっとも弱いもの」であり、「この世のもっとも弱いもの」を生かそうとするものたちである。プロ野球選手になれるつもりでいる子供がなぜ縁日のひよこを買ってきたり子猫を拾ってきて育てようとするのか。彼ら自身が「この世のもっとも弱いもの」として生きているからだ。
彼らにとっては、「この世のもっとも弱いもの」である自分を生かすことは、そのまま「この世のもっとも弱いもの」である他者を生かすことでもある。
人間的な限度を超えて大きく密集した集団は、「弱いもの」を生かそうとすることの上に成り立っている。そうでなければ大きく密集した集団になりようがない。
若者は、「この世のもっとも弱いもの」を生かそうとする衝動を豊かにそなえているから、大きな塊の集団になることができる。
これが、人間の集団性の根源のかたちなのだ。
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人間の集団性は、人間だけではすまないで家畜すら集団のメンバーに加えてしまうくらい度を超えている。
人類最初の家畜は犬だったといわれている。それは、肉にして食うためでも働かせるためでもなかったはずだ。ただそばにおいて生かしてみたかっただけだろう。子供が縁日のひよこを買ってきたり子猫を拾ってきたりするのと同じだ。アマゾンの未開の森の子供たちだって、そのへんで拾ってきた小動物をペットにして可愛がったりしている。そういうところから人類の家畜を飼うという行為がはじまっている。経済的な理由からではないのだ。
ただもう、「この世のもっとも弱いもの」を生かそうとしただけのこと。
この衝動は、じつは大人だって持っている。誰だって赤ん坊や犬や猫は可愛いと思うだろう。この衝動こそ、人類の集団性の根源のかたちなのだ。
文化人類学者たちの多くは、このことについて、集団の興奮とか暴力衝動とか、あるいはネットワークしてゆく「誘惑」の関係というようなアプローチで語っているのだが、そんな事柄はすべて集団が生まれたことの「結果」にすぎないのであって、契機としての根源的な人間性のことではない。
ただもう「この世のもっとも弱いもの」を生かそうとするということ。
僕は、道徳の問題を語っているのではない。性善説性悪説もどうでもいい。
ただもう、人間の根源にはそういう衝動がはたらいているということ、限度を超えた人間の集団性はそのことの上に成り立っているということ、それだけを言いたいのだ。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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