都市の起源(その十一)・ネアンデルタール人論162

その十一・人間的な集団性の基礎としての連携

「どこからともなく人が集まってくる」ことによって「祭りの賑わい」が生まれる。現在のスポーツ観戦やコンサートはもちろんのこと、ものを売る商店だって、ようするにそうした人類普遍の生態の上に成り立っている。
「祭りの賑わい」が人間社会を成り立たせている。
集団からはぐれ出たものたちがあちこちから新しい土地に集まってきて、ときめき合いはしゃぎ合うお祭り騒ぎになり、それがやがて新しい集団になってゆく。人類は、このお祭り騒ぎの果てしない繰り返しによって地球の隅々まで拡散していった。
思春期の若者たちは、家族という集団からはぐれ出てゆくことによって、友情や恋などのときめき合う関係を見出してゆく。「人が集まってくる」という現象は、「集団からはぐれてゆく」ことを契機にして起きる。人は、集団を鬱陶しがるという孤立性を持っているから、都市という際限なく大きな集団をつくることができる。猿よりも豊かにときめき合い豊かに連携し合ってゆくことができる人類の集団性は、そういうパラドックスの上に成り立っている。
都市の起源は、大きな集団をつくろうとしたのではない。集団を鬱陶しがるのが人間の本性であり、根源的にはそんな欲望は持っていない。ただもう、「祭りの賑わい」という「混沌」の中で、いつの間にか大きな集団になっていたのだ。その「混沌」が大きな集団を生み出した。
大きな集団になれば混乱して収拾がつかなくなってしまうだけなのに、その「収拾がつかない」という「混沌」が人の心をいっそう引き寄せていった。
猿はけっしてこんなことはしない。つねに集団の「安定と秩序」を保とうとする。そのために「ボス」が君臨し、その他の個体どうしもちゃんと「順位」という上下関係をつくっている。
しかし人類は、「ボス」も「順位関係」もない「祭りの賑わい」に飛び込んでゆく。猿はその「混沌」の中でヒステリーを起こすが、人類は、そこでこそ、さらに深く豊かにときめき合ってゆく。原初の人類の「二本の足で立ち上がる」という体験は、そういうメンタリティと生態をもたらした。


人間的な「連携」は、みんなが同じことをするという「同一化」の「安定と秩序」の上に成り立っているのではない。それぞれが別のことをしながら、それぞれが他者を生かそうとしていることにある。土を掘る人と掘った土を運ぶ人、まあそういう関係を「連携」という。チームスポーツは、ポジションごとに役割が違う。
「連携」は、自分が生き延びるために他者を支配することではない。自分を捨てて他者を生かそうとしてゆくことだ。
たとえばキャッチボールは、相手が受け止めることができるところにボールを投げることによって成り立っている。ボールは自分の大切なものであり、それを相手に差し出すのだ。生き延びることを断念して、相手に差し出すのだ。そうやって、相手を生かそうとしているのだ。そうやってボールを「投げる人」と「受け止める人」との「連携」が成り立っている。
人の心の底には、「他者を生かそうとする衝動」がはたらいている。そこから人間的な「連携」という生態が生まれてきた。それは「強いものが弱いものを助ける」とか、そういうことではない。どちらも「生きられない弱いもの」して、たがいに助け合うのだ。
人の本質・自然において、「強いもの」など存在しない。誰もが「生きられない弱いもの」なのだ。誰もが「生きられない弱いもの」として存在することによって、人間的な「連携」が生まれてくる。
人の二本の足で立っている姿勢は、もともととても不安定で、しかも胸・腹・性器等の急所を外にさらして攻撃されたらひとたまりもない極めて危険な姿勢であり、原初の人類はその姿勢を常態にすることによって猿よりも弱い猿になってしまった。そこから人類の歴史がはじまっているわけで、猿よりも弱い猿になるになることによって「連携」という関係の生態が生まれてきたのだ。それは、たがいに自分を捨てて相手を生かそうとし合ってゆくことだった。「生きられない弱いもの」は、そういうかたちでしか生きることができない。
「強いものが弱いものを助ける」なんて、強いものがその強さを誇示し満足しているだけのことにすぎない。そうやって弱いものを「支配」しているだけのこと。内田樹などは、「自分は弱いものを助ける立場で生きている」などと自慢しまくっているが、そうやってみずからの「自尊感情」を満足させているだけのことで、彼の言説に助けられているのは、じつは彼と同じようにみずからを生きることができる強いものや賢いものとして「自尊感情」を満足させたいものたちばかりなのだ。そういう下品で思い上がったものたちが彼の言説に賛同し、寄ってたかってこの世の生きられない弱いものや愚かなものたちをさげすむ屁理屈ばかりこねている。まあ彼らは、自分の外の世界や他者に対する警戒心や緊張感が強い。だから、自分を守るための「自尊感情」が必要になるし、本能的に他者をさげすむ物言いをしてしまう。なぜなら、それこそがもっとも「自尊感情」が満足する体験だからだ。自分を守るための「自尊感情」の強いものが、自分を捨てて他者と「連携」してゆくことなどできるはずがない。彼らは、この世の「弱いもの」と「連携」しているのではなく、「弱いもの」を助けるというかたちで「弱いもの」から自分を隔て、みずからの生き延びる能力に執着・耽溺している。そうやって内田樹などは、愚にもつかない自慢話ばかり垂れ流している。今どきは、知識人であれ庶民であれ、そんな「幸せ自慢」を垂れ流してばかりいる人種がうようよいる。
生きられない弱いものは、自分を誇示するものを持っていない。だから、自分を捨てることができる。人は「生きられない弱いもの」として「連携」してゆくのであり、いつだって「生きられない弱いもの」は「生きられない弱いもの」によって生かされているのだ。それが人類の歴史だったわけで、「生きられない弱いもの」どうしにおいてもっとも豊かな「連携」がはたらくのだ。
人と人は「生きられなさ」の「混沌=悲劇」の中で「連携」してゆく。