「漂泊論」・24・失恋というみそぎの旅

   1・人に好かれたい
自己愛が強い人は、自分のことが好きではない相手を許せなくなってしまうらしい。
相手が自分のことが好きではないことに耐えられない。だから、誰からも好かれようとする。
問題は、耐えられないほどに相手の気持ちがわかったつもりになってしまうことであり、それがなぜ許せないのかということだ。
相手がなんと思おうと相手の勝手だし、その思いの内実なんかよくわからない。
どんな男にも気があるそぶりを見せたがる女がいる。この場合、「情が深い」というのとはちょっと違う。好かれている自分を確かめたいだけで、誰も好きじゃない。ただもう自分が好きなだけだろう。
いま五人の男から言い寄られて困っている、などといいながら、じつは自分の方から餌をまいて引き寄せただけだったりする。彼女は、好かれていることがそれほど快感で、それほどリアルに好かれているという実感を持つことができるのだろう。
普通は、好かれているかどうかということはよくわからないことだし、好きでもない男に好かれたいとも思わない。
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   2・自分の価値に執着する
自分のことが好きな人間は、相手にも自分が好きであることを要求する。人に好かれて、自分の価値を確認しようとする意欲が強い。
自分の価値を確認しようとするのはひとつの病理的な心の動きにちがいないのだが、多くの大人たちが「誰もがかけがえのない価値のある存在だ」などといって、価値を確認させようと扇動している。
そういう人間は、自分を忘れて何かに夢中になるよりも、いつも自分を確かめていようとする。
バカなことをするのは自分を忘れている態度かといえば、そうじゃない。バカなことをやりながら、バカなことをやっている自分を確かめ悦に入っている。
カラオケ酒場で石原裕次郎になりきって歌っているおじさんは自分を忘れているかといえば、やっぱり石原裕次郎になりきっている自分を確かめて悦に入っている。
みんな、自分が好きなのだ。そんな自分を確かめずにいられないらしい。人に好かれたりほめられたりする自分を確かめずにいられない。
しかしもしかしたらそれは、人に嫌われたり幻滅されたりする自分をけんめいに覆い隠そうとしているのかもしれない。そういう強迫観念のようにも見える。嫌われたり幻滅されたりすることを怖がっている。
なぜ怖がっているかといえば、ひといちばいリアルにそれを感じてしまうからだ。
嫌われたり幻滅されたりすることはしょうがない。この世の中は、誰もがそういう体験をするほかないような構造になっているし、自分だって人を嫌ったり幻滅したりしている。
問題は、なぜそのことをリアルに感じてしまうか、ということにある。
人の気持ちなんかそれほど確かにわかるものではないだろう。人と人のあいだには、それを確かにわかることができない「空間=すきま」が横たわっている。嫌われたり幻滅されているとわかっても、どこかリアルではないのだ。だから、その現実を受け入れることができる。
われわれは、自分の無意識をリアルに感じることができるだろうか。できないから「無意識」というのだろう。そのようにして、自分と自分の関係においてすら、リアルに感じることのできない「空間=すきま」が横たわっている。
他人の気持ちだろうと自分の無意識だろうと、それらをリアルに確信して、嫌われることを避けたいとか許せないと思うのは、病的である。そういう病的な部分を抱えているから、むやみに誰からも好かれようとするし、相手が自分を嫌っていることが許せなくなったりする。
その、リアルに確信してしまうことが、病気なのだ。自分と自分が一体化し、自分と他者が一体化して感じて確信してしまうことが病気なのだ。
分裂病者の、「近くの見知らぬ他人が自分の悪口を言っているのが聞こえる」という心的現象も、他者と一体化して確信してしまう病理である。
石原裕次郎を悦に入って歌っているのも、自分と自分が一体化してしまう病理である。まあそれで他人から「お上手ね」とほめられたら、嫌われることに耐えられない不安もひとまず解消されるのだろうが、病理そのものが消えるわけではない。
「お上手ね」といいながら、あんがい他人は冷ややかに見ている。それでも本人は、他人がうっとりと聞き惚れていると確信しているし、そういう満足がないと生きられない。
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   3・他人の気持ちなんかわからない
内田樹先生は、「私は誰に対しても上機嫌なオープンマインドで接する」と自慢する。それは、人間が好きだからではない。それは、人に嫌われたくない、という強迫観念であり、すべての人間に対して、俺を好きになれ、と要求し支配しようとしている態度なのだ。
自分が好きな人間は、人にも「この私を好きになれ」と要求する。彼は、60年間その手練手管を磨いてきたのだ。そりゃあ、熟練していることだろう。
まあ、この世の中には、そういう人間がたくさんいる。そういう人間がたくさんあらわれてくるような社会の構造になっているのだろう。
人が好きだから好かれたがるのではない。好かれている自分を確認するために好かれたがるのだ。相手を好きになれば、相手も自分を好きになってくれる。そういう返礼がかえってくることを期待して、好きなそぶりを見せる。
なんとしても、自分が人に好かれるに値する人間だということを確認したい。そうして、あんがいかんたんに「好かれている」と確信することができる。
そうやってかんたんに自分(の価値)を確信し、他人の自分に対する称賛を確信する。それは、病気だ。その確信が反転すれば、自分の無価値を確信し、他人の悪意を確信するようになる。
人間は、そうかんたんに自分のことも他人の気持ちもわからないのである。自分に対しても他人に対しても、わかることができない「空間=すきま」を持っているのが人間の心なのだ。
この「わからない」という気持ちを携えて関係してゆくのが人間なのだ。「わからない」からこそ、たがいの身体のあいだの「空間=すきま」で生成している「言葉」に反応しあのだ。わかる(確信できる)のなら、言葉なんかいらないのだ。目と目で合図し、抱きしめ合えばいいだけだ。しかし、それでもわからないのが人の気持ちである。キスしたりセックスしたりすれば「あの女はもう俺のものだ」というわけにはいかないだろう。
「あの女はもう俺のものだ」と思うことは、相手の心に「反応」していないのと同じなのである。相手の心に反応するとは、「相手の心はわからない」と思うことだ。それこそが、体ごとの正確な反応なのだ。
「あの女はもう俺のものだ」と思うことや、石原裕次郎を歌ってほめれていい気になっていること、すなわち相手の心がわかったと「確信」することは相手の心に反応していないのと同じであり、そうやって自分で自分を説得してしまっているだけの心の動きにすぎない。
厳密にいえば、人は相手の心はわからないのだから相手の心に反応することなんかでないのだ。相手の「言葉」に反応することができるだけである。それが実際の言葉であれ、ボディランゲージであれ。
そういう相手の心がわからないという不可能性の上に、人間的な愛や友情や連携が成り立っているのだ。
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   4・団塊世代はあきらめが悪い
自分の価値を確かめずにいられないのは、何か疾しさを抱えているからだろうか。
欲望とは、欠落を埋めようとする衝動であるのだろう。先験的な欲望などというものはない。何か「契機」があるにちがいない。
もともと自分の中に凶悪でグロテスクなものを持っているから、人に好かれることによってそれを相殺しようとしているのだろうか。凶悪でグロテスクな人間だというのではない。凶悪でグロテスクな心の動きを持ってしまっている。つまり、人に対する「殺意」とか「ルサンチマン」のようなもの。人に好かれていないと、それが頭をもたげてくる。
たとえば失恋したときなどに、一気にそのことが思い知らされる。
相手の心変りが許せなくて刃傷沙汰になったりすることがある。この場合は、もともともとそうしたサディスティックな衝動の持ち主だったからだろう。この人には、相手がなんと思おうと相手の勝手だ、という意識はない。自分が好かれているときだって、自分が相手を支配して自分のことを好きにさせていた、という思いがある。すなわち相手は自分が支配できる対象のはずであり、だから心変りが許せないし、もう一度自分に振り向かせることができるはずだ、とも思う。
「人に好かれたい」というのは、支配欲だ。そしてそれは、自分で自分を支配しているところから生まれてくるのだろうか。何はともあれ、支配というかたちで相手と一体化してゆこうとするばかりで、他者の身体とのあいだの「空間=すきま」に対するイメージが欠落している。けっきょく人間としての「病理」とは、このことに尽きるのだろうか。
失恋して刃傷沙汰を起こすのと、あきらめるためのみそぎの旅に出るのと、どちらが人間的だろうか。
失恋が殺意に変わるくらい深く愛していた……といえるだろうか。そんなことをいいたがる小説家もいそうだが、そういう問題じゃない、と僕は思う。
たぶん「空間=すきま」のイメージがあれば旅に出るのだろう。まあ実際に旅に出なくても、泣いて泣いて泣ききってあきらめてしまうことだって、ひとつの旅だといえる。
普通、歳をとればだんだんあきらめもよくなると考えがちだが、近ごろは団塊世代をはじめとする老人の刃傷沙汰が頻発しているらしい。歳なんか関係ないのだろう。むしろ、歳をとるほどあきらめが悪くなるのだろうか。まあ、そういう人も、そうでない人もいる。
いずれにせよ、「確信する」という病だ。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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