「漂泊論」・25・新しい「問い

共同体(国家)は、異民族の圧力に対抗して自分たちだけの結束を守ってゆくというかたちで生まれてきたのだろう。
家族という単位がだんだん大きくなっていって共同体になったのではない。共同体ができたあとから、その限度を超えて大きく密集した集団の運営のややこしさを整えるというかたちで家族という単位が生まれてきた。
家族は、人間にとっての先験的な集団のかたちではない。猿は、お父さんお母さんと子供というような一家団欒をやっているわけではない。共同体(国家)が生まれ、そのややこしさやしんどさから逃れるようにして「一家団欒」が生まれてきたのだ。
われわれ現代人だって、社会に出てその鬱陶しさから逃れるようにして結婚し、子供を生み育てている。
まあわれわれは、子供のときからすでに共同体の制度性に囲い込まれてしまっている。そうしてこのことの困ったことのひとつは、「確信する」という心の動きを持ってしまうことにある。
それは、人間としての病理なのだ。
犯罪を犯せば法で裁かれる。それはもう絶対で、この社会の「確信」になっている。共同体は、そういう「確信」の上に成り立っている。共同体とは、「確信」をつくるシステムである。
法は、文字として定着することによって、人々にその絶対性を「確信」させる。文字には、そういう機能がある。そしてわれわれは、その文字によって文化をつくっている。
今や、「確信」という心の動きが生まれてくるシステムは、われわれの暮らしの隅々まだ張り巡らされている。
そうして、「確信する」ことが正義であり優秀な能力であるかのような世の中になっている。
しかしそれでも、「確信する」ことは、人間としての病理なのだ。
われわれは、そうした「確信」のシステムから逃れるようにして、おしゃべりをしたり恋をしたり友情をはぐくんだりしている。
直接生の音声を交わし合うおしゃべりは、文字による「確信」のシステムからの解放になっている。
恋心とは、相手の気持ちがわからないという不安に浸って揺れ動くこと。
われわれの知性がたどり着く先は、「解答」ではなく、新しい「問い」にほかならない。
だから人は旅をする。
旅とは、新しい「問い」に向かって出発し、さらに新しい「問い」と出会う体験である。
まあ人間の心そのものが、そういう運動をするようにできている。それが人間の自然であり、解答を得て「確信」することではない。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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