「漂泊論」・26・みそぎの旅

   1・三角関係という制度性の発生
共同体の基礎は、三角関係の上に成り立っている。三角関係の一方をはじき出す、というかたちで正義=権力が生まれてくる。
そのはじき出された体験から、ルサンチマンが生まれてくる。そうして、自分がはじき出す側に立ちたいと思う。このときその人は、「はじき出す」という行為を当然のこととして受け入れている。
人と人はほんらい、そういうことができるほど関係を接近させない生き物である。したがってその不自然な関係は、精神の病理を引き起こす。
なぜそういう関係が起きてきたかといえば、氷河期に明けに環境がよくなって人口爆発が起こったと同時に、集団どうしのテリトリーの境界がくっついてしまうという圧力が生まれてきたからだろう。それまでの人類は、たがいのテリトリーのあいだに「空間=すきま=緩衝地帯」を持っていたから、たがいにそうした圧力は感じることがなかった。
そうした圧力を体験しないで700万年の歴史を歩んできて、1万年前にはじめて体験したのだ。
それまでの集団はどんなに大きくなっても数百人程度だったが、氷河期明けには数千人の規模まで膨らんだ集団もあらわれてきた。環境がよくなって行動範囲も広がってきたし、そうなればとうぜんテリトリーも拡大し、他の集団のそれと境界が接するようになった。
その外部からの圧力によって集団内の関係が必要以上に接近していった。それは、集団内の結束になると同時に、集団内の個体どうしにも第三者を排除するという三角関係が生まれてきた。
まあそうやって「家族」という単位が生まれてきたのだ。
「三角関係の発生」、これが氷河期明けに起きたことであり、この関係によって人と人の関係がどんどんややこしいものになってゆき、社会的な精神の病理も生まれてきた。
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   2・関係がくっついてしまうことの病、離れてしまうことの病
また、家族は、外部の第三者を排除することの上に成り立っている空間である。そうして家族の中にも、両親対子供とか、子供どうしの両親との関係の比較とか、いろいろと三角関係がつくられている。
ネガティブにせよポジティブにせよ、三角関係に目覚めることによって、「人に好かれたい」という欲望が肥大化しつつ、他者との関係や自分と自分との関係を「一体化」したものにイメージしてゆくことになる。
三角関係は、人と人の関係をくっついたものにしてしまい、人と人を切り離してしまう。そうして、ともに人間的な「空間=すきま」を失ってしまう。
三角関係で密着しすぎた二人の関係だって息苦しいものなってゆき、やがて支配と被支配の関係が生まれてくる。
おそらく人類は、そういう三角関係に目覚めることによって、共同体(国家)というものを生み出していったのだろう。
人類が異民族という第三者との本格的な出会いを経験したのは氷河期明けの1万年前ころからであり、4〜2万年前の氷河期にアフリカのホモ・サピエンスとヨーロッパのネアンデルタールが出会うということなどなかったのだ。
それはまあいい。とにかく人類は、この密着しすぎた関係を、700万年前の人類発生以来、1万年前以降にはじめて体験した。そうして、さまざまな社会的精神病理が生まれてきた。
くっつきすぎることと、排除すること。こうした病理的な人と人の関係は、共同体の発生以降に生まれてきたもので、原始人の社会にはなかった。
人と人の関係は、くっつきすぎても離れてしまっても病理的になる。
猿は、くっつきすぎて支配と被支配の関係になっても、人間ほど鬱陶しがらない。また、別れてしまっても、人間ほどかなしまない。
人と人は、たがいの身体のあいだの「空間=すきま」を保っていないと、関係が病んでしまう。この「空間=すきま」に憑依し合って関係をつくっている。
くっつきすぎる関係から「確信する」という心の動きが生まれてくる。
まあ現代社会は、人と人の関係がくっつきすぎていると同時に、離れ過ぎてもいる。
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   3・「けがれ」と「みそぎ」
人間にとっては、くっつくことも離れることも不自然な関係なのだ。
現代人の「人から好かれたい」という衝動だって、三角関係の意識であり、自分がはじき出す側に立っていたいという衝動である。そうして他者の身体とのあいだの「空間=すきま」に対する意識が欠落しているから、他者と一体化してしまい、他者と関係することはそのまま他者と関係している自分を確認することになってしまっている。
つまり、さびしがり屋でいつも人と関係したがっているのだが、それは自分を確かめたいからであり、自分を確かめることしかできなくなってしまっている。「空間=すきま」の向こうに他者をみるということができない。人一倍なついてゆくのに、少しも他者にときめいていない。なついてゆきながら他者を支配して自分を好きにさせているだけである。自分を好きにさせて、自分を確かめている。
他者にときめくとは、自分を忘れて「空間=すきま」に旅立ってゆくことである。つまり他者と共有しているその「空間=すきま」に憑依してゆくこと。そのとき人は、自分を確かめてなどいない、忘れている。
現代人は、「自分を忘れる」というタッチを失っている。はしゃいでいても、つねに自分に憑依してしまっている。
意識が自分に憑依してしまう事態のことを、やまとことばでは「けがれ」という。古代においては、「けがれ」は自覚することであって、他人を差別するための言葉ではなかった。
他人との関係がくっついてしまうことは、自分を意識させられることである。そういう自分を意識してしまうことの「けがれ」を自覚して、「みそぎ」の旅に出てゆく。
そしてこの「自分を忘れる=みそぎ」ということは、「空間=すきま」に旅立っていかなければ体験できない。
水をかぶって「けがれ」を洗い流すことは、「自分」を洗い流すことである。だから、冬の冷たい水ならなおいい。自分を忘れていなければできない行為は「みそぎ」になる。
旅に出れば、自分を忘れて新しく出会った人や景色にときめいてゆく。
旅人は、その共同体の一員ではない。したがって、その共同体におけるアイデンティティを持たない存在として共同体の人間と向き合っている。つまり、「自分」を持っていない人間になっているのだ。
自分を喪失し忘れているからこそイノセントにときめいてゆくことができるのだし、共同体の住民にも受け入れてもらうことができる。そのとき共同体の住民もまた、その姿に接して心が洗われ、みそぎを体験しているような心地になる。
人は、自分を意識してしまう「けがれ」を負って存在している。だから旅に出るのだし、共同体の住民もまた「けがれ」を負っているから旅人をもてなす。これが、「空間=すきま」のイメージを根源において抱いている人と人の関係の基本的なかたちにちがいない。
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   4・「空間=すきま」を漂泊している
まあ、内田樹先生のような「けがれ」の自覚のない大人ほど目障りな存在もない。その自覚がないから、いつも上機嫌だと自慢していられる。自分の中には凶悪で混沌とした心が潜んでいる、などといいながら、そのことに居直っている。そうやって自分の中の「けがれ」を人格者ぶった態度で隠蔽しながら居直ってゆくことを「大人になる」というのだ。
そうして大人である「自分」をいつも確認しながら生きている。
それに対して子供は、世界や他者に対して、自分を忘れてイノセントにときめいてゆくことができる。なぜなら子供は、自分が弱者であることの「けがれ」を深く自覚して生きている存在だからだ。
子供の心は、つねに「空間=すきま」を漂泊している。
自分を忘れてたがいの身体のあいだの「空間=すきま」にときめき共有してゆくことは、三角関係からの解放である。
三角関係が「けがれ」をつくる。
そうして内田先生は、つねに自分を意識するという「けがれ」に居直って、「空間=すきま」に旅立ってゆくことをしない。
自分を意識しているかぎり、人はつねに三角関係の中に置かれている。
人間性とは、自分を確かめることにあるのではない。それは、人間であることの「けがれ」であり「病理」なのだ。
人は、第三者を排除している家族という空間でくっつきすぎる関係に置かれ、自分を確かめずにいられない心を培養されてしまう。また、家族の中の三角関係において第三者として排除される体験をさせられることによって、さらに自分が気になってしまう。そうして、この社会もまた、三角関係で動いている。
人との関係が、くっついても離れても自分を意識してしまう。そういう三角関係によって、自分を意識してしまうという「けがれ」が生まれてくる。
人は、三角関係の第三者に置かれることの屈辱が骨身にしみた体験や、第三者を排除しているくっつきすぎる関係に囲い込まれてしまった体験によって、「自分」という意識から離れられなくなってしまう。「大人になる」とはそういう「自分」という意識を飼いならしてゆくことであり、「けがれ」の自覚がないまま「けがれ」をためこんでゆくことだ。その果てに、さまざまな社会的な病理症状を引き起こしてしまう。
自分を意識してしまうことは、べつに病理とはいえない。人間とはすでに自分を意識してしまっている存在だともいえる。ただそれを、「けがれ」として自覚しないことが病理なのだ。その自分という意識に居直って(=自分という意識を飼いならして)、その意識を洗い流す「みそぎ」のカタルシスを体験できなくなっているところで病理症状が起きてくる。
まあ、社会にうまく適合しているあいだは平穏無事でいられても、それを失えばたちまちその病理症状が顕在化する。平穏無事でも、すでにもう病んでいるのだ。
逆にいえば、「みそぎ」のカタルシスを体験しているかぎり、人は生きられる。生きられないということそれ自体を生きることができる。生きていることなんかうんざりなのに、それでも「みそぎ」のカタルシスがあれば生きてしまう。
そのカタルシスはたぶん、生物としての「ホメオスタシス」と通じている。
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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