「漂泊論」・27・「自分を好きになる」という制度性、あるいは権力

   1・この世に好かれるに値する人間は存在するのか?
基本的には、人の気持ちなどわからないし、人がなんと思おうと人の勝手だ。
好きになってもらえればありがたいが、好きになってくれと要求する権利など誰にもない。
でも、自分で自分が好きなら、人からも好きになってもらわないと、その気持ちを保つことができない。
自分は好かれるに値する人間だという自覚によって、自分が好きになっていられる。
人間の心は自分を好きになるようにできているわけではないし、生まれつき自分が好きな人などいない。また、自分が好きな人でも、明日には自分がいやでいやでしょうがなくなってしまうこともある。
自分が好きでなければ、人も好きになることはできない、という。冗談じゃない。自分なんかいやだけど人は好きだ、という人間はいくらでもいる。
自分が好きだということは、人から好かれているという自覚によってはじめて成り立つ。ようするに、人から好かれたいのだ。それはつまり、三角関係の第三者を排除する側にいたいという衝動だ。そういう人は、人に好かれないと、人を好きになることができないし、自分を好きでない人間を許せない。
しかし人間とは、そんなものじゃないだろう。自分のことが好きであろうとあるまいと、好きな人は好きだし、自分のことなんか忘れて好きになってしまうときはある。
自分を好きでないと人を好きになれないなんて、病気だと思う。それは、人を好きになっているのではなく、好かれている自分が好きなだけだ。
なんとしても好かれている自分でありたいという強迫観念、なんとしても正義の側に立って人に後ろ指を指される人間であるまいとする強迫観念。そういう強迫観念で人は、自分で自分を支配し操作してゆく。
それは、自分がつくっている自分なのだから本物の自分かといえば、そうともいえない。
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   2・意識が自分に張り付いてしまう
自分とは、何ものか?
人間である。生き物である。自分とは自分である。
僕はここで何度も「人間」という言葉を使っているが、人間という存在を外側から眺めて考えながら文字にしているだけで、ふだん、自分のことを人間だと意識しているわけではない。生きているということだって、一日の99パーセントは意識していない。「自分」ということだって、98パーセントは意識していない。
「そこにコップがある」と認識するとき、自分とコップとの関係が存在しているのだが、べつに「自分」という意識などない。コップのことを思っているだけである。そして自分のことを忘れているぶんだけ、より鮮やかにコップを認識できる。
「そこにコップがある」と認識することは、意識をコップに向けることであり、そのとき意識は自分に向いていない。つまりそれは、自分に向いている意識を自分から引きはがしてコップに向けることである。
われわれは、意識を自分から引きはがしてこの生をいとなんでいる。
われわれは自己意識で生きているのではない。この世界の物事に意識を向けて生きているのだ。
人間がどうしても自己意識を持ってしまう生き物だとしたら、それはつまり、自己意識を引きはがしながら生きている、ということを意味する。自己意識を引きはがすことが、われわれの生きるいとなみである。
人間は、自己意識を引きはがす(解体する)習性を持っている。そうやって人にときめき、好きになっているのだ。
自己意識が強くて自分が好きな人間は、人を好きになることなんかできないのだ。
「自分を好きにならなければ人を好きになることはできない」などという言い草は、大嘘なのだ。自分が好きな人間が示す人を好きになる態度なんか、相手が自分を好きになるようにするための策略にすぎない。
そういう自己意識を引きはがさなければ、人にときめくことはできない。
われわれが人にときめいているとき、自分に対する意識が消えている。人にときめくことのできる人は、自分に向いた意識を引きはがす作法を持っている。
若者がすぐ「かわいい」ということだって、自分に張り付いた意識がはがれてゆくカタルシスとして体験されているのだ。「かわいい」という音声はそういう感慨から思わず発せられている感嘆詞であって、べつに対象がなんであるかということを説明し伝達しようとしている言葉ではない。自分を忘れてときめいてゆく感慨の表出として「かわいい」というのだ。
「かわいい=かわゆ」、「かわゆ」と英語の「キュート」は語感が似ている。だから、外国人にもそのニュアンスがわかる。どちらも、自分を忘れてときめいてゆく感慨から生まれてきた言葉なのだ。
しかし、そういう言葉をすぐ発したがるということは、それだけ意識が自分に張り付いてしまうことのしんどさを抱えているということでもある。
自己意識が肥大化してしまうような社会構造があり、自己意識が肥大化した醜い大人がうんざりするくらいあふれている社会だ。
「自分を好きにならなければ人を好きになることはできない」などという言い草を、僕は信じない。たぶん、そうやって支配の構造がつくられている。自分が好きな人間に「おまえが好きだよ」といってやれば、かんたんに支配できる。彼らは、人が好きなのではない、好きになられたいだけだ。自分が自分から好きになられる満足がなければ、人を好きになることもできない。自分からだろうと人からだろうと、「好きになられたい」のだ。
人を好きになるために、どうしてそんな努力をしないといけないか。人間は、すでに人を好きになっている。自分なんか忘れて好きになっている。
人間性の基礎は、「自分を好きになる=自分を知る」ことにあるのではなく、「自分を忘れる」ことにある。意識が自分に張り付いている場所から旅立つことにある。
いわゆる「感動」とは、意識が自分から剥がれ旅立つことである。われわれはそういう作法でこの生をいとなんでいる。ただ「そこにコップがある」と認識すること自体が、そういう作法なのだ。誰だってそうやって生きている。意識が自分という場所から旅立っているぶんだけ、そのコップは美しく見える。
なのに、その観念生活においてそういう作法を失った大人が、失っていることに居直って「自分を好きにならなければ人を好きになることはできない」とか「自分を知っていることが人間の証しである」などと愚にもつかないことを言い出す。それは、この社会の制度性に毒された人間の観念の病である。
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   3・現代社会で子供をやっていることのしんどさ
まあ現代人は、子供のうちからそうした社会の制度性に心が囲い込まれてしまう危うさを負っている。
たとえば、いわゆる「発達障害」などという心の病は、親や社会の制度性から心が囲い込まれてしまっていることによって起きてくるのだろう。
親が世間をなめたような生き方や観念を持っていれば、子供だって世間をなめたような振る舞いになる。親の生き方や観念を絶対のものとして子供に押し付ければ、子供は、世間にはいろんな生き方や観念があるということに戸惑い、軋轢を起こしたりするようにもなる。
多くの子供の心は、親や社会に囲い込まれてしまう。
内田樹先生のように、「私は正しい囲い込み方を知っている」などといってもしょうがない。その「囲い込んでしまう」ということが子供の心を追いつめ、いびつにしてしまうのだ。
発達障害とは、心が他者や世界に向けて旅立てなくなってしまうこと。
授業中に奇声を発したりすぐ席を立っていったりしてしまうことを「多動性障害」というのだそうだが、これなどは、親が世間をなめているから子供も世間をなめたようなそんな振る舞いになってしまうのだろう。そのとき子供は、自分に対する意識を引きはがして世界に向ける、ということができなくなっている。それくらい、世間をなめきっている。いったいどんな親が育てたのだ、という話である。こういうことを、生まれつきに遺伝子の異常とか、そういう議論にしてしまうべきではない。
まあ、バブル世代の子供に多いらしい。今の40代のバブル世代の親は、世間をなめている人種が多いらしい。つまり、自分の観念世界から旅立って人にときめいてゆくことができない世代なのだ。彼らは、おおいに自分のことが好きなことだろう。
団塊世代も、まあ似たようなものだけど。
団塊世代はバブルを牽引した世代で、40代はもっともバブルを謳歌した世代だった。
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   4・現代社会の大人たちは子供を食いつぶしている
人間は、生まれた直後からすでに「言葉」という制度性に囲い込まれてしまう。
しかし、その制度性から旅立させるのも、言葉にほかならない。
言葉はもともと、猿としての限度を超え密集した人間の集団性から囲い込まれて意識が自分に張り付いてしまうことからの解放として発生してきた。言葉がそういう機能を持っていたからこそ、人類は、さらに大きく密集した集団をつくってゆくことができた。
言葉は、人の心を囲い込む制度的な機能と、囲い込まれていることから旅立ってゆく機能の両方をそなえている。まあ、おもに旅立ってゆく機能として使われていた言葉が、時代とともにどんどん囲い込む機能に偏っていった。その転換の一里塚として、「文字」が生まれてきた。
古代の王権は絶対的な支配だったなんて、嘘だ。心理学者が「古代の王=父」という文脈で精神病理を語りたがるのは、言葉はもともと人を囲い込む機能として生まれてきたという思い込みがあるからであり、人間とはもともと人を囲い込む(支配する)習性を持っていると思い込んでいるからだろう。
しかし、それは違う。あなたたちは、人間性の根源に対する理解が、じつにいいかげんだ。そんな人間理解では、人間性の根源にも現代社会の病理にも迫ることはできない。
現代社会ほど人が人を囲い込もうとする時代もなかった。古代の王権などの比ではない。古代の庶民は、もっと解放されていた。彼らはちゃんと、自分に張り付いた意識を引きはがして旅立ってゆくことができていた。そうやって楽しくおしゃべりをする作法を知っていた。古代人はそれを、「この国は<ことだまのさきはふ>国だ」といった
あなたたち大人は、親や大人や社会に囲い込まれてしまった子供の地獄に対して、ちゃんと思いをいたしていない。それは、古代の王権の記憶ではない。あくまで現代的な病なのだ。あなたたち大人の病理の問題なのだ。
人を好きになる努力などというものがあるものか。人間は、すでに人を好きになっている存在なのだ。その「努力する」という「自分」さえ捨てれば、自分がすでに人を好きになっていることに気づく。
誰だって、そうやって人を好きになっているだけじゃないか。おまえら大人のその「努力」なんてくだらない。努力しない人間になることが、人を好きになることだ。
人間は、「自分を知っている」存在ではない。「自分を忘れている」存在なのだ。猿や猫よりも、もっと自分のことを忘れている。そして猿や猫よりもはるかに、意識が自分に張り付いてしまうことの苦悩を知っている。
自分を好きになるために人を好きになるのでも、人を好きになるためには自分を好きにならなければならないのでもない。
どいつもこいつも、言葉とは人を囲い込む(伝達する)ための道具だと思っていやがる。人間は人を囲い込む(支配する)生き物だと思っていやがる。そんな前提で人間を考えているから、現代の精神病理学言語学も全部だめなのだ。
そんな前提で考えているから、内田樹とか上野千鶴子というようなグロテスクな大人たちがはびこるのだ。
おまえらの語る「愛」とか「好きになる」ということなんか、ただの支配=権力の論理にすぎない。
「自分を好きにならなければ人を好きになることはできない」だなんて、何をくだらないことをほざいていやがると思う。おまえらは、そうやって子供を囲い込み、子供を食いつぶしているのだ。
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【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
幻冬舎ルネッサンス新書 ¥880
わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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