1・アメリカの蹉跌
内田樹先生は、最新のブログでこう言っておられる。
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幼児や高齢者や病人や障害者を含む集団を維持するためには、「集団内の弱者を支援し、扶助し、教育することは成員全員の当然の義務である」という「倫理」が身体化しているような集団がどうしても必要である。
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じゃあ、「幼児や高齢者や病人や障害者」は「成員」じゃないのか?
内田先生は、そうだといっているのだ。
まったく、むかつく。
まあ、一見ごもっともな説で、今のアメリカはこういうことができていないからだめなのだ、といいたいらしいのだが、じつはそうじゃないのだ。アメリカほどこういう「倫理が身体化している」国もないのである。
アメリカは「強いもの」しか生きられない国だから、強いものはけんめいに弱いものを助けようとする。そういう人情はたっぷり持っている人たちで、彼らは、西部劇のむかしから、ずっとそうやって歴史を歩んできたのだ。
 西部開拓時代は、弱いものどうしがおたがいさまで助け合うなどということを言っていられる余裕はなかった。弱いものは、なんとか自分だけでも生き残ろうと必死にがんばるしかなかった。おたがい出自が違うものどうしだから、せっぱつまったら、どうしてもそうなってしまう。
弱いものどうしがおたがいさまで助け合うという関係は、それなりに一緒に暮らしてきた長い時間の歴史と伝統があってはじめて成り立つ。
新しい土地にいきなりやってきて生きるか死ぬかのせっぱつまった状況に置かれたら、弱いものどうしは助け合ってなどいられない。余裕がある強いものが助けてやるしかないし、強いものは弱いものを押しのけて強くなったのだから、そういう後ろめたさもある。
白人が原住民のインディアンを駆逐したといっても、白人だって食いつめていたのだ。出自が違う相手と助け合う余裕なんかなかった。そしてインディアンを押しのけて強いものになってから、インディアンの保護をはじめた。
けっきょくアメリカは、弱いものどうしが助け合う文化を育てることができなかった。弱いものどうしが競争して強いものになってゆく文化(アメリカン・ドリーム)の国である。そうしてそのアメリカンドリームを達成した強いものが「集団内の弱者を支援し、扶助し、教育することは成員全員の当然の義務であるという倫理が身体化している」ようになった国である。
アメリカ移民の方が少数民族で彼らがインディアンに同化してゆくというかたちで歴史が始まっていたらまた別の文化になったのだろうが、弱者である移民が弱者であるインディアンを駆逐するというかたちで始まっている。アメリカの弱いものどうしは競争する。だから犯罪が多く起きる。犯罪は、強いものであろうとする衝動である。そうして強いものになってから弱いものを助ける。これがアメリカ文化の伝統にほかならない。
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   2・強いものが自己を免責し正当化する文化
アメリカほど、金持ちによる慈善活動の盛んな国もないだろう。
内田先生のいいざまと同じように、その、正義ぶって「助けてやる」とか「教育する」という発想がうさんくさいのであり、それ自体伝統文化の貧困である。
内田先生だってようするにアメリカ的「移民の思想」であり、「弱いものどうしがおたがいさまで助け合う」という日本列島の伝統文化が身体化していないのだ。
そうやって正義の側に立って「弱者を支援し、扶助し、教育する」ことによってみずからを免責し正当化しているだけであり、それは現在のアメリカ人と同じ思想なのだ。
アメリカの弱者は、どうしても人を押しのけて生きようとしてしまう。移民の弱者同士がそうやって生きてきたし、弱者どうしとしてインディアンと戦ってきた。自分が強いものであるという自覚を持ったアメリカ人は、けっしてそんなことはしない。正義の名のもとに、けんめいに弱者を助けようとする。
しかし、アメリカの強者なんか、ほんの数パーセントで、圧倒的多数が弱者である。その数パーセントの救いの手などたかが知れているし、弱者どうしは、なんとか生き残ろうとけんめいに競争している。
そんな社会なら、ホームレスがなくなるはずがない。
弱者どうしが競争して誰もが強者の仲間入りを目指しているのなら、強者はつねに自己を正当化し正義の側に立っていられる。
アメリカには弱いものどうしがおたがいさまで助け合う文化がない。
強者が「「弱者を支援し、扶助し、教育する」といい、強者が正当化され弱者が強者になることを目指す文化であるかぎり、アメリカからホームレスはなくならない。
弱者が強者になることを目指すとは、より弱い弱者がどんどん振り落とされてゆく社会だ、ということである。
弱者を助ける強者が尊敬され、強者みずからが自己を正当化しているかぎり、ホームレスも犯罪もなくならない。そういうことを現在のアメリカが教えてくれている。
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   3・弱いものどうしが助け合う伝統
それに対してこの国の江戸時代の農民は、「みんなで貧乏しよう」という合言葉で結束していった。彼らは、強いものに憧れたりはしなかった。強いものの正当性を認めなかった。それは、「弱者を支援し、扶助し、教育する」ということの正当性を認めなかったということだ。
「みんなで貧乏しよう」とは、誰もが「弱者を支援する強者」ではなく、誰もが「支援される弱者」であろうとしたということだ。そのようにして、「弱いものどうしがおたがいさまで助け合う」というかたちで結束していった。
つまり彼らは、「弱者を支援する強者」であることの正当性を否定し、「支援される弱者であることの尊厳」を止揚していった。
これが、「歴史の伝統」というものである。おまえらみたいな自分を正当化することばかりに熱心な移民根性のものたちにはわからないだろう。
たとえば、身体障害者の子供を持つ親たちを支えているのは、この「弱者の尊厳を止揚する」視線である。現在の老人介護の問題だって、この視線がなければ成り立たない。実際に介護の現場に立って働いているのはみな社会的な弱者であり、そういうものたちでなければその仕事は長続きしない。
「弱者を支援し、扶助し、教育する」などという横着なこといっているかぎり、すぐやめていくのだ。「弱者であることの尊厳」を感じる感受性を持っていないものは、すぐノイローゼになったりやめていったりするのだ。
この社会は、近代になって「弱者を支援し、扶助し、教育する」ことが身体化され、強者を正当化するようになって堕落したのだ。
たとえばこの国の古代における道路や橋やため池や港をつくるなどの土木工事は、みな庶民たち自身でやった。大和朝廷には、庶民を動かす能力も意欲もなかった。大仏建立のときにしても、庶民たちの土木事業のリーダーになっていた行基という在野の僧にたのんでやっと人手が集められたのであって、朝廷の命令で集まってきたのではない。
奈良盆地の巨大前方後円墳にしても、おそらく庶民が干拓や信仰の目的でつくったものを天皇に捧げただけで、天皇がみずからの権力を誇示するために庶民を使役してつくったのではない。だから、天皇陵のことを「陵(みささぎ)」という。実際にそのような調査結果を発表している歴史家もいるのだ。
たとえば、もしも奴隷を牛馬のごとくこき使って古墳を覆う石を置いていったのなら、同じ場所の石が集まっているはずである。しかし実際は、さまざまの場所の石がばらばらに置かれているのである。百人の奴隷が集中的にこき使われたのではなく、千人一万人の庶民がひとつずつ石を持ち寄ってきたのだ。
古代の土木工事は、「弱いものどうしがおたがいさまで助け合う」というコンセプトでなされていたのである。
この国には、「助けられる弱者の尊厳」を止揚してゆく伝統文化がある。助けるものは、けっしてみずからを正当化しない。「助けられるものの尊厳」に献身してゆくだけである。助けられる弱者を「教育する」などということはしない。
古墳時代天皇は「助けられるもの」であった。だからこそそこに「尊厳」があった。なんのかのといっても、これが、この国の天皇制の伝統の正味なのである。
われわれ日本列島の住民がなぜ天皇制を維持してきたかといえば、天皇が「この世のもっとも弱いもの」のかたちを体現する存在だったからであり、そこにこそ天皇の「尊厳」があったのだ。
日本列島は「弱いものどうしがおたがいさまで助け合う」文化だから、そういう存在のリーダーを必要としたのだ。
この国には、他者=弱者を「教育しよう」とする文化などない。誰も天皇を教育しようとなんかしない。天皇は、ただもう生きていてくれればそれでいい。そのようにせっぱつまって、他者=弱者の尊厳に深く気づき、他者=弱者を「生きさせよう」とする文化なのだ。子供に対してもそういう視線を持てないやつが、子供を教育しようとばかりするのだ。アメリカ人みたいに。
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   4・弱者の尊厳
ネアンデルタール人が飼育するオオカミ=イヌから、「人と人の関係と何か」とか「集団とは何か」ということを学んでいったように、人類はまず「弱者の尊厳」を発見したのであり、この発見を身体化してゆくことによって人間になったのだ。
原初の人類が二本の足で立ち上がることは、不安定な姿勢のまま胸・腹・性器等の急所(弱点)をさらしている「弱者になる」行為だったのであり、そこで人類は、たがいに「弱者の尊厳」を発見し合ったのだ。
人間は、そういう視線を身体化しているから、「家畜を飼う」というということを覚えていったのだ。それが起源の契機だったのであり、「家畜を教育する」などという傲慢なことをするようになっていったのはずっと後のことだ。
「弱者の尊厳」を止揚すること、これが人間であることの起源であると同時に、人間であることの究極のかたちなのだ。
子供の中に「弱者の尊厳」を見てそこから人間であることの何かを学んでゆこうとする親と、「弱者を支援し、扶助」するなどといって子供を教育しようとする親の態度と、いったいどちらが子供を生きさせる力になるか。まあ、内田先生みたいに子供に逃げられる親になりたければ、せっせと子供を教育しようとすればいいさ。
弱いものは、他者を「教育」しようとはしない。他者から学び、他者を生きさせようとする。強者として子供を教育しようとすることばかりして、弱者どうしとして子供を生きさせようとするせっぱつまったものを持っていない親は、子供にそむかれ逃げられる。
正義ぶった強者は、他者を「教育」しようとする。
弱者は、他者「生きさせよう」とする。
この違い、わかるかなあ。他者を否定し教育してゆこうとする態度と、他者に深く気づき他者を生きさせようとする態度の違い。ネアンデルタール人の社会だってこの後者の態度によって成り立っていたのであり、彼らはこのことをオオカミ=イヌから学んでいった。
大人たちが子供や若者を教育しようと企んでばかりいる世の中だから、年間の自殺者が3万人以上という事態を引き起こしているのだ。われわれの現代社会は、他者を「生きさせよう」とする文化を喪失している。
もともと他者=弱者を「生きさせよう」とする伝統文化の国なのに、他者=弱者を「教育しよう」とする社会構造になってしまっている。そこが、この国の現在の生きにくいところだ。
われわれはこの国の伝統文化を喪失しているわけではないが、「戦後」をずっと引きずったまま、社会の構造がすっかりアメリカナイズしてしまっているのかもしれない。だから、内田先生みたいないやらしいことをいうアジテーターが出てくる。
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