鬱の時代・24・人間の心の「消える」というコンセプト

僕だって憂鬱だ。
僕が書いているものを、「奇をてらって逆転の発想をこねくっている」といってきた人がいる。まあ、知識人の範疇に入る人だ。
つまり、世の中は赤いりんごばかりだから青いりんごをつくれば売れるかもしれない、というような戦術で書いているのだろう、それではおまえの書くものはしょせん亜流に過ぎない、といいたいらしい。
アカデミズムがいちばんえらいと思っているらしい。
俗物め、おまえらはすぐそうやって人を見くびって自分のアイデンティティを守ろうとする。
おまえらの生きる流儀や考える流儀はそういう技術的な問題でなされているのかもしれないが、僕はただ、しんそこそう思うからそう書いているだけだ。
亜流でけっこう。
ときには世界中を敵に回す覚悟で書いている。
内田樹先生だろうと養老先生だろうと茂木なんたらだろうと、このネット界の知識自慢の連中だろうと、みんな薄っぺらなことしか考えられないじゃないか。「本流」なんてそのていどのものかと思うばかりだ。
どいつもこいつも、「俺は知っている、俺のいうことを聞け」というような言い方ばかりしてくる。
だから僕はこういう。おまえらが知っているんじゃない、「人間の真実」はあの人たちのほうがずっと深く知っている、あの人たちに聞け、と。
あの人たちとは、この世のもっとも貧しく弱い人たちであり、今にも死にそうな人たちであり、縄文人でありネアンデルタールであり直立二足歩行をはじめた原初の人類たちだ。
「人間の真実」は、そういう「他者」に聞くしかない、お前らが知っているのではないし、マルクスヘーゲルが知っているのでもない。そんな有名人の権威を借りた薄っぺらな思考で「俺が知っている」なんていわれてもうんざりだ。アカデミズムの本流が、そんなにえらいのか。
おまえらより、原始人のほうがずっと深く「人間の真実」に気づいている。
ただ僕は、原始時代に帰れ、といっているのではない。「人間の真実」は「あの人たち=他者」に聞くしかないだろう、といいたいだけだ。
僕は、技術論だけで生きているわけでも、考えているわけでもない。
あんなことをいわれると、ほんとに憂鬱になる。
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憂鬱になったら、相手と刺し違えるか、「そうですか」といって黙って引き下がるかしかない。
自分が消えるか、相手が消えるか。そうやって、問題が決着する。
人間は、「消える」という発想をする。
「死」を知ってしまった人間は、存在そのものにおいてすでに追いつめられている。
追いつめられたものは、消えようとする。
蛇に睨まれた蛙は、消えようとして動けなくなる。生きものは、消えようとする衝動を持っている。生きるとは、消えようとすることだ。
消えようとする衝動は、誰の中にもある。
恐怖のあまり気絶するというのも、一種の自分(の身体)を消す行為である。
人に責められて言い訳をすることも、自分を消そうとする態度だ。秋葉原事件の犯人の若者がそうやって逆に自分を世間にアピールしようとしたことだって、ふだんの追いつめられている自分を消そうとする態度だったのだろうし、おまえらが消えるか俺が消えるか、というせっぱつまった気持ちになっていたからだろう。
責められて反撃することは、責められている自分を消すことだ。そうやって人は、「逆ギレ」する。
生きものの行為は、身体を消そうとするいとなみにほかならない。
体が動くことは、今ここから消えることだ。生きることは、今ここから消えることだ。
息苦しければ、息をして、息苦しい身体を消そうとする。空腹であれば、飯を食って、うっとうしいその身体を消しにかかる。どこかが痛ければ、さすって、痛い身体を消そうとする。
身体を消すこと、すなわち身体のことなど忘れているときにこそ、われわれは「生きた心地」を体験している。
生きることは、自分を消すいとなみである。自分をうまく消すことができなくなったとき、人は鬱におちいる。
不治の病を患って自殺する、というケースは多い。それは、身体を消す(=身体を忘れる)ことができなくなっている状態であり、死ぬことが一挙に解決してくれる。
身体を消すという意識のはたらきが不調になって意識が身体(あるいは自分)に張り付けば、世界や他者に対する関心や反応を喪失する。その状態がうっとうしくて、死んでしまいたくなる。
死のうと生きようと、とにかくわれわれは、身体のことを忘れている状態でいたいのだ。
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人間は、根源的に、私(の身体)は監視されている、という意識を持っている。
ほんらい四足歩行の猿である存在が二本の足で立ち上がれば、きわめて不安定である上に、胸・腹・性器等の急所をさらし、攻撃されたらひとたまりもない姿勢である。その不安から、「見られている」という自意識が生まれてくる。
そして、「見られている」ことから逃れるためにはもう、「消える」しかない。
衣装をまとうことは、身体を消すことだ。人間の衣装は、そういう実存的な不安から生まれたのであって、防傷防寒の道具として生まれてきたのではない。人は、衣装を見せることによって、みずからの身体を消している。そうやってアピールすることによって、自分を消している。つまり、そうやって「見られている」ことに耐える道具として衣装が生まれてきた。
人間は、根源的に「見られている」という不安を抱えている存在である。
だから「消えようとする衝動」も強い。
ところが、現代社会はたえず個人を監視している。そうして社会や人との関係に失敗して消えることができなくなったとき、幻聴が現われてくる。彼は、社会や人におびえている。そういう環境からの監視の圧力にさらされたまま、消えることに失敗している。
都会や学校や会社の監視の圧力が、そういう現象を引き起こす。そしてこの場合、あまり個人の資質のことをいうべきではない。神経過敏な人でも鬱にならない場合もあれば、それほど過敏でもないのに鬱になってしまう場合もある。それは、その人が置かれた「環境」がつくりだすのだ。
神経過敏であろうとあるまいと、人それぞれの勝手だ。とにかく、環境からの監視の圧力が限界を超えたとき、鬱に落ちてゆく。
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監視から逃れて自分(の身体)を消す、そういうことがうまくできていないと生きることができない。なにしろ人間は、根源的に「見られている(監視されている)」存在なのだ。
人間が一年中発情している生きものになったのは、おそらくセックスが、監視から逃れるもっとも有効な行為だったからだろう。
基本的に人間のセックスは、隠れてする行為である。つまり、社会の監視から逃れてする行為だ。そして抱き合えば、自分(の身体)が消えてゆく恍惚をもたらす。
人間が一年中発情していることはひとつの文化であり、人間は、追いつめられて(監視されて)あることそれ自体を生きようとしている。追いつめられてあるから、「消える」ことのカタルシスが体験される。
原初の人類は、四足歩行の姿勢を消去して、二本の足で立ち上がった。そのとき、天敵に襲われるとか食料が不足していたとか、そういう理由があったのではない。四足歩行の姿勢のままひしめき合って群れをつくっているという「状況」に追いつめられ、立ち上がっていったのだ。そうして彼らの生息域が地球の隅々まで拡散していったのも、生きにくい地域で追いつめられて暮らすその状況から「消える」ことのカタルシスを汲み上げていったからだろう。
人間の行動様式の底には、消えようとする衝動がはたらいている。消えることのカタルシスが人間の歴史をつくってきた、ともいえる。
これは、進化論の問題でもある。生きようとする衝動が生きものの「進化」をつくってきたのではない。
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貧乏人の子沢山というが、氷河期の極北の地で暮らしていたネアンデルタールの例のように、原初の歴史においては、住みにくい地域ほどセックスの衝動が豊かに起こり、人口密度が高くなっていた。
「消える」という感覚的なタッチを失うと、人は、鬱になりEDにもなってしまう。
「消える」ことが、この生の基本的なかたちなのだ。
人の心には、「今ここ」から消えようとする衝動が潜んでいる。
「消える」ことのカタルシスが汲み上げられるためには、追いつめられていなければならない。だから人は、追いつめられる状況を拒まない。なぜならそれこそが、生きるいとなみの契機になっているものだからだ。
「消える」というコンセプトが生きものを生かしている。
追いつめられない幸せに、生きてあることのカタルシスはあるか。
幸せを生きることができるのは、幸せの中にあるものだけだ。そんなことは、わかりきったことだろう。幸せでないものは、幸せを目指さねばならないのか。幸せでないものは生きられなくてもいいのか。
幸せでなくても生きられる道はないのか。
幸せに浸って生きてきてインポになっちまったやつが、えらそうなことをいうな。
「消える」という生きてあることのカタルシスは、幸せでない気分の中にある。追いつめられていることの「嘆き」から汲み上げられている。人間は、先験的に追いつめられて存在している。人間から「嘆き」を奪うことはできないし、ちんちんはそこでこそ勃起する。そこでこそ、人が人にときめいている。