閑話休題・この国の教育水準

内田樹先生によれば、嘆かわしいことに、この国の住民の知性はどんどん劣化しており、教育水準も落ちる一方になっているのだとか。
だから、経済的豊かさのレベルでも、教育に力を入れて国づくりをしてきたフィンランドシンガポールから追い抜かれようとしている、という。
僕は教育者でもないからそういうことにあまり関心もないのだけれど、自分だけ賢いような顔をして国民の知性の劣化を嘆き、自分の子供時代こそ子供のあるべきかたちだったといわんばかりに教育水準の後退を嘆くというその態度は、なんか胡散臭いなあと思ってしまう。
べつにいいじゃないの、と思う。
それがこの国の歴史の運命なら仕方ないことだし、この国が経済的に豊かではなくなることがいけないのかどうかも、誰にもわからない。あのバブル経済の時代によって失ったものもあるだろう。この国の経済が縮小しているのなら、縮小しているなりの工夫をしていけばいいだけだろう。
もしかしたらそれは、バブル経済を体験した国のたどるべき道なのかもしれない。産業革命発祥の地で一時は世界に君臨した大英帝国も、20世紀後半には長い冬の時代を体験した。
まあ、どっちでもいいんだけどさ。
どんな国家や教育がいいかということなど、僕にはわからない。
バカな庶民だったらいけないのか。
おまえらみたいなただの知識オタクになることが、そんなすばらしいことか。それだけが知性というものでもあるまい。大学教授の知性というのがあるのなら、職人の知性も百姓の知性も詐欺師や泥棒の知性だってあるだろう。
知性の使い道が変わってきただけで、知性が劣化しているかどうかなんてわからない。
誰だってものを考えたり感じたりして生きているさ。人間なら誰だって知性的だろう。人間とは、そういう生きものだ。
知性の差、などというものない、と僕は思っている。人それぞれ知性の色合いに違いがあるだけだろう。人間は、誰もが知的な生きものだ。
知性が劣化してきた、だなんて、ものすごい差別意識だ。自分は庶民よりもすぐれた知性をそなえている、といううぬぼれがあるから、そういう言い方になる。
僕が彼ら知識人に対して「おまえら脳みそなんか薄っぺらなだけじゃないか」というのは、彼らのそういううぬぼれの部分がめざわりで削り取ってしまいたいからだ。
基本的には、人間なら誰だって知性的な存在だと思っている。
僕は内田先生よりも人間について深く遠くまで考えているという自信があるが、それは、僕のほうが知性的だからではなく、それなりにそういう部分で支払ってきたものがあるからだ。
たとえば、「われながらぶさいくな生きものだなあ」という思いとか、少なくともそういう部分では、内田先生のようにお茶を濁して自尊感情にしがみつく、ということはしてこなかった。そのようにしてつくってきた僕の知性だって、そりゃああるさ。いったん自尊感情を捨てて、あらためて「人間とは何か」と問うてみる、ということはしてきた。
職人には職人の支払ってきたものがあるし、僕にだって僕の支払ってきたものがある。
職人には職人の知性的な問いがあるし、そのあいだに僕は「人間とは何か」、「ネアンデルタールとはどんな人たちだったのか」と問うて生きてきた。
まあ、内田先生のように、目くらましみたいなへ理屈をでっち上げて人をたぶらかすというような知性は、僕にはない。
日本人の知性が劣化している、だって?。インテリは労働者よりすぐれた人間だというような、旧態依然のそのえげつない差別意識はなんなのだ。
人間は誰だって知性的な存在だし、誰だってどうしようもなく愚かで凶悪な部分も持っている。そのことをちゃんと自覚するなら、「日本人の知性が劣化している」なんてえらそげなことはいえないはずだ。口先だけでは「自分にもそんな部分はある」とかなんとかいっても、腹の中ではしっかり「自分は大衆よりも知的な存在である」といううぬぼれをため込んでいやがる。
教育水準が上がってGDPが上がれば、いい国家なのか。われわれが国家という単位を持っていることはわれわれの歴史の運命であって、それが存在するべきものかどうかなんて、誰にもいえない。どんな国家がいい国家かどうかなんて、誰にもいえない。そんなことをいうのなら、国家がどのように生まれてきて人間の根源とどのようにかかわっているのか、はっきり説明してみろ。何がいい国家かどうかなんて、おまえに決める能力があるのか。
教育水準が上がらないこともGDPが上がらないことも、ひとまずわれわれの歴史の運命であって、知性が劣化したことの証しなんかではない。
子供や若者が学校のお勉強に精を出さなくなったのは、おまえら知識人があこがれるに足るような姿をしていない、ということだってある。内田先生や養老先生のような教育水準の高い人間にあこがれる若者より、あんなやつらなんかつまらないと思う若者がどんどん増えている世の中だから、教育水準が上がらないのかもしれない。
何はともあれ、現在の日本人は、生活のうえでの情報収集の環境と能力は世界で最もめぐまれているのだから、学校のお勉強はたいしてがんばらなくてもいい、という傾向が出てくるのは仕方ない。それは、「知性の劣化」とは、ちょっと違う。いまどきの若者は、「頭は、情報収集ではなく、考えることに使いたい」という思いが芽生えてきているのかもしれない。情報収集のお勉強なんてコンピューターにまかせとくさ、というか、漢字なんか知らなくても、コンピューターさえあれば漢字は使いこなせる。
そのうち、物理学の大発見をする無知な若者が出てこないともかぎらない。
なんだかもたもたしている脳生理学の進歩だって、既成概念を出ない茂木先生の知識やセンチな思い込みではなく、無謀な直観力と想像力によるあっと驚く発見が待たれているのだろう。
若者が、知識オタクの大人たちに対して「あんなやつらなんかつまらない」と思うのも、ひとつの知性だ。
教える技術がどうのという問題ではない。子供や若者は、知識をため込むことやGDPの高い社会を目指すことにうんざりしている。
彼らの知性は、もっと別のことに使われている。それだけのことさ。
「それだけ」のところを考えてみたくて『なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか』という本を僕は書いてみたわけで、誰かの知性に届いたらいいのに、と今祈っている。
僕は、「日本人の知性が劣化した」なんて思っていない。