鬱の時代19・あんたにはやらへん

誰かがこういっていた。
「(行方不明の老人のことばかりじゃなく)子供が親の行方を知らないという状況を少しなりとも想像してみたらいいのに」と。
しかし、そんなふうにいい人ぶって「子供がかわいそうだ」と思えばそれですむのか。それをいいうなら、「行方をくらました親の心の闇のことも少しは想像してみてもいいのでは」と僕はいいたい。「現在」という問題は、おそらくそこからはじまっている。
親の育児放棄のことは、自分の知識の範囲で適当に是非を裁いてわかったつもりになるというその思考態度も、なんだかなあ、と思う。
考えてみないとわからないことだってあるだろう。考えてみて、鬼が出るか蛇がでるか、それとも天使が現われるか、あるいは人間の根源に気づかされるか、考えてみないとわからない。
そこにたどり着くのは、知識によってではなく、ひとまず考えてみた結果であるのだろう。知識の範疇で片付けてしまうのなら、考えたことにはならない。
そして、「子供が親の行方を知らないという状況」が、とりあえず生きていられるのなら、不幸かどうかはわからない。何も、親が育てなければならない、という法律もない。
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僕が小学生だったころ、僕のおばさん(父親の異父妹)は、ある田舎町で中学教師をしていた。ご亭主も中学教師で、職場結婚だった。3歳の娘がいた。
ある日家に帰るとおばさんは、娘が抱いていた古い西洋人形を取り上げ「これは私が小さいときから大事してたもんや、あんたにはやらへん」といってその人形を抱いて家を出て、そのまま流れ者のトラックの運転手と大阪に駆け落ちしていった。
おばさんの母親(=僕の父の母親)も、幼い僕の父を捨てて満州に駆け落ちしていったのだから、まあそういう家系らしい。
僕の両親は、二人とも私生児で、幼いときに母親から捨てられた。
そんなこんなで僕は、母親が自分の子を捨てるということに対する違和感のようなものはない。そしてそのことがとくに罪深いことでもないように僕が思うのは、両親とも自分の母親に対する恨みがなかったからだろう。あれば、そういうことは子供の僕に伝わるものだ。
そして彼らに母親に対する恨みがなかったということは、自分のことをかわいそうだという思いもあまりなかったのだろう。父は、ハンサムで女にもてたし頭もよかったから、それなりにいろんな人にちやほやされて生きてきたらしく、人間に対するルサンチマンはなかったようだ。また母は、とにかく気が強かった。
で、おばさんがそんなことをしでかした当時、おばさんの父親は県会議員で町の名士だったし、亭主も人格者で通っていたから、まあ町中を騒がす噂になった。
もちろん、人々の感想は、なんと愚かで悪い女だ、という評価で一致していた。
しかし僕の父親は、「あの陰気な亭主なら、そういうこともされるわな」という感想を母に洩らしたのだとか。
ちょっと残酷だが、それが孤児の感想だった。兄と妹といっても、父は、おばさんの父親とはあかの他人だし、母親も苗字が違うよその家の人だった。
ただ、戦後ふるさとに帰ってからは、十歳以上年下のそのおばさんのことはよくかわいがっていたらしい。普通の愛らしい女の人だった。
父の家系はややこしく、父の兄弟は六、七人いるのだが、なぜか真ん中の父だけが私生児で、親戚づきあいもほとんどなかった。
まあ、そんなことはどうでもいい。とにかく母親が子供を捨てるということは、ただ「非常識」といってすむほど珍しいことだとは僕には思えない、ということだ。
僕にとっては、すべての女が、心の中に、われわれのうかがい知れない闇を抱えているのではないかと思える。
その闇のことを何も想像しようとしないで、「母親の行方がわからない子供」の心配さえすればいいというものでもないだろう。
金さえあれば女は育児放棄しない、ともかぎらないし、育児放棄しない女がえらいとも僕は思わない。現在の核家族で、母親に育児に専念されて追いつめられている子供だってたくさんいる。
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まあ趣味の問題といえばそれまでのことで、僕には、行政のことに口を挟む能力も趣味もない。
もちろん行政のことは大切な問題ではあるが、それだけの問題にして、かんたんに子供を捨てた女を裁くな、といいたい思いもある。
いくら博識強記であろうと、その範疇だけでは裁けないだろう。考えて想像してみないと見えてこないこともある。博識強記の人は、それにたよって、すぐ結論を出してしまう。それは、考えていないと同じことだ。
共同体の裁判制度なら、法律の知識に照らして公平に裁けばいいだろうが、そうした「制度」から離れて人間として語ろうというのなら、それではすむまい。考えて、想像して、彼女の心の闇に分け入っていかねばならない。
ある博識強記の人は、これは「母として」どう生きるかという問題だ、といっておられた。その自覚がもてれば彼女はこんなこと(育児放棄)はしないですんだ、といいたいのだろう。
しかし、「母の愛」とか「肉親の情」などというものが人間の根源に宿っているかのように語る、いわゆる「市民の論理」というやつが、僕はうんざりなのだ。そんなものは、ただの共同幻想なのだ。
追いつめられた人間は、いざとなったら「母の愛」も「肉親」の情もあっさりと捨ててしまう。なぜなら、そんなものはただの共同体の制度性であって、人間性の根源でもなんでもないからだ。共同体の制度性から逸脱してしまった人間は、もはやそんなものを持つことはできない。
この世に育児放棄する女がいるということは、育児をすることが人間性の根源ではないことの証明である。
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花を生けることは、花の命を奪うことだ。花の命を奪ってそこに「異世界」をつくり出す行為である。
「いける」の「いけ」の語源は、「異世界」という意味、「池」の「いけ」も同じ、妖怪変化の棲む「異世界」を意味している。
花を生けるという行為は、花の命を奪うという「魔」の行為である。たとえば茶室の花は、茶会が行われるその時間だけ花であることができる。あとははもう、存在することから抹殺される。まだ生きているから明日の茶会にも使おうとか、そんなことはけっしてしない。「いける」とは「生きる」という意味ではない。「異世界をつくる」という意味なのだ。明日は、明日の花でなければならない。それは、残酷なことだ。人間の心の中には、そういう「魔」が潜んでいる。そしてそれを、われわれは、「美意識」とか「快楽」とか「カタルシス(浄化作用)」と呼んでいる。
共同体の制度から逸脱したものは、「異世界」に立っている。
そこで彼女が「母の愛」とか「肉親の情」なんかどうでもいい、と育児放棄してしまうことは、ひとつの「浄化作用」である。「母の愛」とか「肉親の情」という制度性は、ひとつの「けがれ」である。彼女はそこで、「けがれ」をすすいでいる。育児放棄は、「けがれをすすぐ」という「浄化作用」なのだ。
「母」という制度性から離れて、ともにひとりの人間として子供と向き合ってしまったとき、「私が生きるか、おまえが生きるか」あるいは「おまえが死ぬか、私が死ぬか」というせっぱつまった気持ちが沸き起こってきたら、どういう態度をとるのだろう。
「その人形は私のものや、あんたにやらへん」だなんて、すごい言葉だと思う。戦場の兵士が命のやり取りをしている言葉だとおもう。
女はたぶん、いざとなったら、子供に対してそういう気分になってしまうのだ。子供は「自分の分身」だというのなら、なおのこと、「あんたが死ぬか、私が死ぬか」というせっぱつまった問いが沸き起こってくる。
女はみんな、心の底にそういうせっぱつまった問いを抱えて子育てをしている。そういう「日常の外」の「異世界」にいつ立たされるかもしれない状況の中で子育てをしているのだ。
人間は鬼を祭り上げる。そして女の中には鬼が棲んでいる。
あなたが、女は美しくやさしく清らかな存在であるという幻想を抱くのは、あなたが心やさしいからではない。あなたが自分勝手な人間だからだ。女は、あなたのイメージの範疇で生きているのではない。あなたは、あなたの勝手なイメージの中に女を閉じ込めようとしている。
僕が、女なんか鬼だ、といったら、女を貶めていることになるのだろうか。