鬱の時代18・魔物のことだま

あの育児放棄事件に対して、大阪の一部の人には、「自分たちの町がこういうことをさせてしまった」という思いがあるらしい。
そういう思いで事件現場に花や「コアラのマーチ」を置いてきた若い母親もいれば、ラーメン屋の店主に百万円の札束を渡し「これで子供たちにラーメンを食べさせてやってくれ」といって立ち去った客もいる。店主もそれを受けて、すぐに「子供はただ」のキャンペーンセールを始めた。
いまや幼児虐待事件はあちこちで起きているが、彼女の場合は、直接手を下したというより、徹底的にほったらかしにして知らん振りしてしまった。そのことが、われわれの中の何かを揺さぶってくる。彼女は、そういうところに追いつめられ、世界との関係を失っていった。
いったい、何が彼女をそこまで追いつめたのか。
大阪とは何の関係もないではすまない、と思っている人たちがいる。
多くの人たちが「町」というものを考えた。
それは、大阪という町の歴史の問題でもあるし、戦後日本の町の問題でもある。
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彼女は、大阪に来て「鬼=魔物」と出会ってしまった。
「何もかもどうでもいい」という「鬼=魔物」のことだま、ということだろうか。
そしてそういう気分は、多かれ少なかれ、誰もがどこかしらに抱えているはずだ。
生きていようと死んでしまおうとどうでもいい、という気分。そういう気分がなければ生きていられるものじゃない。われわれは、必ず死ぬ。それは、明日かもしれない。息をしなければ死んでしまうのだ。「どうでもいい」という「鬼=魔物」のことだまと和解することによって、はじめてこの生が成り立つのだ。
「命の大切さ」といっても、それはつまり、自分がやがて死ぬという事実とうまく和解できていないからそんなことをいいたがるのだろう。
明日死ぬ、といわれたら、われわれは、慌てふためいてしまう。
生きものであるかぎりわれわれは、つねに今ここで死んでしまうかもしれない可能性の中に置かれている。
今20代だからといって、あと50年生きるといったい誰が保証してくれるというのか。生きているということは、次の瞬間に死んでしまうかもしれない可能性の中にあるということだ。生きものは必ず死んでゆく、ということだ。
であれば、いま死んでしまってもかまわない、という気持ちにならなければ、死と和解しているとはいえない。つまり、生きていることなんかどうでもいいことだ、と思えなければ、死と和解しているとはいえない。
では、そういう境地になるためにはどうすればいいか。
殺し合いをすればいい。
生きていることなんかどうでもいいと思えなければ、殺し合いなんかできない。殺し合いをすれば、そういう境地になれる。
原初の戦争は、そうやってはじまった。「死」という概念と出会ってしまった人類は、「死」と和解し、生きていることなんかどうでもいいと思える瞬間を体験するために戦争をはじめた。
育児放棄をした彼女だって、「生きていることなんかどうでもいい」という「鬼=魔物」のことだまに魅入られてしまった。掃除とか洗濯とか仕事とか、生きるためのいとなみが、面倒くさくてならなくなった。
セックスは別だ。セックスは、死んでゆく体験だ。オルガスムスは、そのようにしてやってくる。彼女はたぶん、大阪にやってきて、何もかもどうでもいいと思ってゆくことと引き換えに、かつてないほどの深いオルガスムスを体験した。
彼女にとってセックスすることは、命のやり取りをすることだった。
命のやりとりをせよ、とけしかけてくる「鬼=魔物」が彼女の中に棲みついた。
そして、人間なら誰もがどこかしらに、そういう「鬼=魔物」のことだまを抱えている。
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人間は、悪魔的な行為としての戦争を祭り上げてゆくことをけっしてやめない。
人類が戦争をはじめて約一万年、つねに戦争は祭り上げられてきた。
善か悪かで裁けば、それは悪に決まっている。しかし人間の快楽(恍惚)は、生きるも死ぬもどうでもいいという地平に立つことにある。
殺すことに快感があるのではない。中にはそういう異常者もいるだろうが、人間が戦争を祭り上げるのは、「死」という概念の重荷から解放されることにある。殺すために戦争をするのではなく、「死」という概念を無化するためにするのだ。いったん殺し合いがはじまれば、自分の命すらどうでもよくなってしまう。そこに、「快楽(恍惚)」がある。「死」という概念から強迫されて生きている人間は、そこにおいて「カタルシス」を見出す。
つまり、国が戦争をはじめれば祭り上げてしまうのが、人間の本性なのだ。それは、この一万年の人類の歴史が証明している。
人間は、避けがたく戦争を祭り上げてしまうのだ。だから、戦時中の日本人がこぞってその気になっていったことも、人間の歴史の運命としてしょうがないことで、戦争がはじまってしまえば、避けがたく祭り上げてしまうのだ。
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子を産むことだって同じだ。
命の尊厳に気づいたから産むのではない。どうせ死んでしまう命なのに、どうして人は子を産むのか。命の尊厳なんか信じていたら、子は生めない。死んでしまってもかまわない、と思うから産むのだろう。
「子孫を残すため」というのなら、それによって自分は死んでしまってもかまわないというところに立てるからだろう。
女だって、自分は死んでしまってもかまわないというところに立って、妊娠出産をしている。
人間は、「死んでしまってもかまわない」という状況を祭り上げる。戦争も妊娠出産も、そのようにして祭り上げられている。
われわれの心のどこかに、「死んでしまってもかまわない」という意識が潜んでいる。人間は、たとえ今ここであろうと、「死んでしまってもかまわない」存在なのだ。だから、戦争をする、妊娠出産ができる。
女にとって子を産むことは、自分の人生を清算してしまうようなことなのだろう。それくらい女は、自分の人生や身体に悪意を持っている。女はすでに存在そのものにおいてそういう境地になれる条件を持っているから、戦争をしようとしない。戦争なんかしなくても、すでに「死んでしまってもかまわない」という境地を持っているのだ。
女は、身体やその人生の中に、死の恐怖を呑み込んでしまう魔物を抱えている。
女は、命を大切にするのではない。「死んでしまってもかまわない」という魔物のことだまを大切にしている。女は、自分の命や人生に対して残酷な生きものだ。だからこそときに、自分の愛するものの命や人生に対しても残酷になる。その愛は、ある日突然、育児放棄へと反転する。
育児とは、子供の人生や人格を蹂躙する行為である。僕は、あなたたちのような上等な女房を持っていないから、そうとしか思えない。「死んでしまってもかまわない」命をけんめいに生きさせようとするのである。それは、子供の人生や人格を蹂躙していることではないのか。生まれてすぐに死んでゆくことが不幸だと、いったい誰がいえるのか。
誰だって、生きていれば、生きていてよかったと思うこともあれば、生まれてすぐに死んでいたほうがずっとさっぱりしている、と思うこともある。
われわれの人生は、最後の最後で死の恐怖に縮み上がらないといけないのである。そのときにはきっと、生まれてすぐに死んでいたほうがずっとさっぱりした人生だ、と思うにちがいない。
人間は、長く生きれば生きるほど死の恐怖が強くなる。財布に残った金が少なくなればなるほど惜しくなるのと同じだ。それなのに、なぜ生きてゆかねばならないのか。
人間を生きさせるなんて、残酷なことだ。
それでも生きてあるためにはもう、「死んでしまえ」という悪魔のことだまを受け入れ、「死んでしまってもかまわない」と深く納得してゆくしかない。というか、われわれのこの生の醍醐味は、そういうところで成り立っている。
われわれの胸の底には、「死んでしまえ」という悪魔の声が響いている。
追いつめられたら、どうしてもそういう声を聞いてしまう。
だったら、人が追いつめられない社会を実現すればいいのか。たぶん、そうではない。追いつめられた者たちが生きられる社会であらねばならない。どうせ誰もが、最後の最後で追いつめられるのだから。