鬱の時代16・彼女は育児放棄(ネグレクト)せずにいられなかった

袋小路に入り込んだみたいに、またこのことを書いてしまっている。
みなさん、さっさと前に進んでゆけばいい。
こちらはもう、単純に自分の問題として、喉に小骨が刺さって取れない。
この事件に対して、この国をどうすればいいかとか、地域の助け合いをどうすればいいかとか、どうするべきかとか、そんなふうな問題としてちょいと語って「ああ疲れた」とほざいているやつがいる。
つまり、「諸君がアメリカのために何をなすべきか(何ができるか)を問いたまえ」という問題。そういう問題に解答を差し出すのが誠意であり正義であり知性だと思っているやつが、うじゃうじゃいる。
アメリカだろうと日本だろうと、世界がどうなろうと僕の知ったこっちゃないのですよ。
僕の中に「何をなすべきか」という問題などないのだ。
僕が気になるのは、彼女はどうして育児放棄してしまったのだろう、ということだけだ。
四日市の若いバツイチ女が幼い子供二人を抱えて大阪に出てゆき、何かを見失ってしまった……そういうことに対して、身につまされて感じるところは誰にもあるだろう。
また、彼女の罪はさしあたってどうでもいい、二人の幼い子供が飢えて死んでいったことが悲しくてやりきれないという思いで、事件現場に花やら「コアラのマーチ」やらをそなえた人たちがいる。そのとき人びとは、その現場をひとつの「聖地」として祭り上げていった。秋葉原事件のときもそうだったし、それが、人間の文化だ。
飢えて死んでいった幼い二人の子供たちは、現代のキリストだ。
それに対してあなたたちは、「何をなすべきか」ということだけを考えていればそれですむのか、「finalvent」さん、あなたたちの人生はそんなにも安全で安泰なのか。自分は何をなすべきか、ということしか興味はないのか。そんなふうに思考停止しているから、おまえら、そのていどのことしか考えられないのだ。
「考えるべきこと」しかないのか、「考えてしまうこと」はないのか。
「袖すり合うも他生の縁」というが、この時代を生きる身として、彼女や幼い子供たちのことがわれわれの頭に入り込んできてしまった……まあ僕には、それ以上の考え方はようしない。
人間は、嘆く生きものであり、その嘆きの上にこの世界を祭り上げてしまう生きものだ。もしも地域の助け合いなるものがあるとすれば、それはそうやって「祭り上げる」ことの上に成り立っているのであって、「何をなすべきか」と考えるおまえらのしゃらくさい誠意や正義や知性の上にではない。
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「なすべきこと」など何もないのだ。
袋小路に迷い込んだら、もう途方に暮れるしかない。
「何ごともなるようにしかならん」と一休禅師がいったそうな。
僕はぐずぐずとこんなことばかり書いているし、彼女だって、そうやって育児放棄の袋小路に迷い込んでしまった。
人間の行為は「せずにいられないこと」の上に成り立っているのであって、「なすべきこと」の上に成り立っているのではない。
「なすべきこと」をまさぐってばかりいるおまえらのそのスケベ根性に、何が悲しくてわれわれがひれ伏さなければならないのか。
飯を食うことも息をすることも、「せずにいられないこと」だ。飯を食い息をしている生きものが、「せずにいられないこと」から逃れられるはずがない。
時代は、人々の「せずにいられない」ことの集合の上に成り立っているのであって、「なすべきこと」の上にではない。
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歩き方の癖、しぐさや表情の癖、心の動きの癖、それらは「せずにいられないこと」であり、人それぞれそういう「状況」を負っている。
そんなことの癖を「なすべきこと」としてコントロールしてゆけるはずもないし、しようとするぶんだけ、体の動きも心の動きもぎこちなくなってしまう。
「なすべきこと」として体を動かそうとするから、鈍くさい運動オンチになってしまう。
同様に、「なすべきこと」として心を動かそうとするからときめかなくなってしまう。
考えることだって同じだ。「考えるべきこと」として掘り進んでもたかがしれている。「考えずにいられないこと」に身を任せたとき、われわれの思考は、どきどきしながらどこまでも深く分け入ってゆく。何はともあれ彼女は、育児なんかどうでもいいという思考を、どこまでも深く分け入っていったのだ。
現代社会において、それは、けっしてかんたんなことではない。われわれは、あまりにもたくさんの「なすべきこと」を負わされてしまっている。
何しろアメリカの大統領が「諸君がアメリカのために何をなしうるかと問いたまえ」などとくだらないことを宣言し、人びとが大いに感心してしまう社会なのだから。
われわれは、「なすべきこと」をなそうとする自意識を持ちすぎてしまっている。
「なるようにしかならん」という体や心の動きのほうが、ずっとスムーズに体が動き、ずっと豊かにときめき、ずっと深く思考することができるというのに。
彼女は、何はともあれ、やむにやまれぬ思いで育児放棄していった。
それをあなたたちは、「人間にはなすべきことがある」というスローガンによって裁こうとしている。それによって鈍くさい運動オンチになり、ろくにときめくこともできず、大して深く考えることもできなくなっているというのに。
育児なんかどうでもいい、と思えるくらい深く考え深く絶望することができればたいしたものだ。えらそうに彼女を裁いているおまえらのほうがずっと脳みその薄っぺらな俗物じゃないか。
人間の「せずにいられない」行為はひとまず肯定するしかない。歴史は、そうやって流れてきたのであって、「なすべきこと」を止揚してゆくことによってではない。
その行為がどんなに罪深く、死んでいった子供たちがどんなにかわいそうでも、そうせずにいられなかった彼女の心の動きは、ひとまず肯定するしかないのだ。
「そうせずにいられない」という心の動きこそが、われわれのこの生を成り立たせているのだから。
われわれの希望は、その心の動きを肯定し祭り上げてゆくことの上にしかない。
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一部の噂によれば、育児放棄の彼女は、「子育て観音」になったのだとか。
「阿修羅」は、自分の子供を殺して食ってしまう鬼であったが、その後釈迦に帰依して菩薩になった、という。ようするに、そのパターンだ。そうやって、たとえネガティブな行為でもそうせずにいられなかったのならそれを祭り上げてゆこうとするのが、人間の文化なのだ。
原初の人類は、戦争による命のやり取りをせずにいられなかった。生きようと死のうとどちらでもいい、というところで生きていたかった。これが戦争の起源であり、これが死の概念を持ってしまった人間の性(さが)だ。だから人は、戦争を祭り上げてゆく。
彼女は、子育ての困難さに殉じた「阿修羅」であり、現代社会の生け贄の羊なのだ。
彼女のことを思いながら必死に踏ん張っている若い母親がいる。彼女らは、けっして「わたしならそうしない」というような冷ややかな目では見ていない。彼女らは、彼女に励まされている。
彼女は、育児放棄に走りがちな日本中の若い母親たちの罪を一身に背負って、あの事件の当事者になった。そういう思いの若い母親と子供が、あの事件現場に「コアラのマーチ」を置いてくる。
わたしだって、いつかそうしてしまうかもしれないという気持ちはないわけじゃない……そのつぶやきに耳を傾ければ、なんか、せつなくなるじゃないですか。
そうやってこの事件を祭り上げようとしている人びとの気持ちなんか、おまえらみたいにえらそげなことばかりほざている人間にはわかるまい。