鬱の時代17・四日市の女が大阪に行ったら……

大阪は幼児虐待が多い、大阪には魔物が棲んでいる、と誰かがいっていた。
べつに大阪の文化は幼児虐待の文化だというつもりはさらさらないが、もともと「たてまえ」を排した現実的なところがある文化だから、どうしてもそういう突出したかたちを生み出してしまう。大阪の文化そのものはそういうものではないとしても、その文化にうまくフィットできないところでは、そういう突出したかたちがあらわれてくる。
東京人のように気取ってお金の話題を避けるようなことはせず、人間なんか金欲しさで生きているのだと肯定して「もうかりまっか」とあいさつする。そのあたりの本音主義・現実主義を上手に按配して生きていける人はいいが、アウトサイダーの立場に置かれたものは、ときに、本音の現実主義だけが突出してしまう。
べつに大阪人がとくべつケチだとも、とくべつスケベだとも僕はぜんぜん思っていないが、彼らは人間なんか色と欲の生きものだと割り切っているところはあるのだろう。そういう猥雑さや割り切った現実主義の文化風土が、ときに人を狂わせたりもする。
育児放棄事件の彼女は、そういう大阪の文化をうまくのみ下せなかった。
彼女はホスト遊びにのめりこんでいて、そのお気に入りのホストは、子供たちを放り出してマンションを出てきた彼女が「子供はもう死んでいるかもしれない」といっても、何の関心も示さず、あくまで彼女から金を巻き上げることに徹していたのだとか。
それは、彼が極端な拝金主義者だったことを意味するとはかぎらない。情におぼれたりたてまえにこだわったりすることをせず、ただ、リアルに生きることに徹しようとしていただけかもしれない。
つまらないたてまえが通用しない社会では、人と人の直接的な親密さを生む反面、そういう非情や幼児虐待が起きてくる可能性もはらんでいる。
大阪は、人と人が親密な社会だからこそ、ときに度を越した非情やDVも生まれてくる。それはすなわち、人と人の直接的な親密さは、「状況」が変わればたちまち疎遠なものに反転する可能性を秘めている、ということだ。
「親の愛」などというたてまえなど当てにしなくても、人と人の直接的な親密さはつくれるじゃないかという文化。しかしその文化をうまく使いこなせないものは、親の愛なんかどうでもいい、という面だけを突出させて、ときに幼児虐待に走ったりしてしまう。
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大阪のそうした現実主義の気質は、中世から近世にかけて阿波徳島や尾張名古屋の人たちが移り住んできた影響だと司馬遼太郎はいっているらしいのだが、それはちょっと違うと思う。
「郷に入らば郷に従え」という。徳島の人が大阪に行けば大阪弁になるし、京都に行けば京都弁になる。
京都弁のルーツは徳島弁にある、というのも、なんだか変だ。
京都も大阪も縄文・弥生時代から人が住んでいたし、古代から文化の中心地になっていたのだから、そのときからつくられてきた歴史風土があるはずだ。
大阪に徳島や名古屋から人がやってくれば、大阪が徳島や名古屋から受ける影響よりも、その徳島や名古屋の人たちが大阪に染まってゆくことの方がはるかに多いだろう。
一万人の京都の町に十万人の徳島の人が移住した、というならそういうこともあるかもしれないが、近世の京都の町に一万か二万の徳島や名古屋の人が移住していって京都弁がつくられたなんてことがあるはずない。
京都弁の基礎は、縄文・弥生時代につくられた。
ことばは、そうかんたんに変わるものではない。
日本人なんか、一万年前からあいも変らず日本語をしゃべっているのだ。
よその土地のことばがその土地のことばの基礎になるということなどありえないのだ。その土地のことばにヴァリエーションをつくるということはあっても。
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大阪の文化の基礎は、古代にすでにつくられていたに決まっている。
中世や近世の徳島・名古屋なんか関係ない。
大阪は、古代からずっと日本列島の文化の中心地でありながら、首都ではなかった。
つねに首都である奈良・京都と隣接し、対峙して存在してきた。そういう地理的条件によってつくられてきた大阪文化というものがあるだろう。
大阪は、都(みやこ)の影響を受けつつ、しかも都の文化のカウンターカルチャーであり続けてきた。
都の文化の華やかさとうそくささをいちばんよく知っているのが大阪だ。もっとも密接に都と関係しつつ、カウンターカルチャーとして、つねに名よりも実をとる歴史を歩んできた。
大阪の民衆は、奈良や京都の民衆ほど支配者から縛られていなかった。
都の「秩序とたてまえの文化」になじめなくなった人たちが大阪に流れてきて大阪の文化をリードしていった、という側面はあるかもしれない。つまり、都の文化になじめなかった人たちは、大阪の土着の文化にとてもよくなじんでゆくことができた、ということだ。
大阪のことばは、一音一音にこだわるやまとことばの原則から逸脱した傾向を多くそなえていて、日本語のくせに、妙にリズミカルなところがある。そうやって彼らは、人と人の直接的な親密さを育ててきた。それは、ちょっと朝鮮語にも似ている。だから、朝鮮人が住みやすかった、ということもあるかもしれない。そして、朝鮮から大阪にやって来た二世三世は今、みな大阪弁を使っているのである。べつに大阪弁朝鮮語に変えてしまっているわけではない。
京都弁や大阪弁の基礎は古代以前にある。
阿波の三好だの尾張の信長だの秀吉だのと支配者が変わっても、古代以来続いてきた大阪の土着の文化はちゃんとあるのだ。たとえ支配者でも、大阪の「常民」としての心の動きまで変えてしまうことはできない。
大阪の文化は、つねに都の文化のバリエーションであり、カウンターカルチャーだった。
大阪人が東京人に対抗心を燃やすのは、古代以来奈良や京都に対抗してきた伝統なのだ。
大阪は、大和川と淀川によって他の周辺地域以上に密接に都とかかわってきた。それに、古代の河内平野は一大穀倉地帯であり、中世以降は日本中の物産の集積地だったわけで、われわれが都の人間を養っている、という誇りが大阪人にはあった。
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大阪人の誇り高さは一筋縄ではゆかない。その誇りの高さが、大阪のアウトサイダーを追いつめ、ときに育児放棄などのラディカルな事件を突出させてしまう。
司馬遼太郎は、大阪の常民であり、大阪の文化を体にしみこませている人であったのだろう。だからこそ、そういう人たちには、四日市の女が大阪に行っておかしくなってしまう気持ちは理解できないらしい。
四日市といえば、まあ尾張文化圏だろう。それに彼女は、大阪に行く前は、名古屋に住んでいた。
しかし四日市尾張の女が大阪に行って、四日市尾張の女のままでいることはできないのである。そういう大阪文化のプレッシャーは、大阪の人間にはわからないらしい。だから司馬遼太郎は、大阪弁や京都弁の基礎は徳島弁にある、などとのんきなことをいう。
徳島の人間が大阪に行って大阪弁を徳島弁に変えてしまうことができるような土地なら、彼女だってあそこまでラディカルな育児放棄をしないですんだかもしれない。
良くも悪くも、大阪に行けば、その現実主義のプレッシャーによって人間がラディカルになってしまうのだ。
大阪の文化は、そうかんたんに阿波や尾張の文化にしてやられるほどやわな文化ではない。
大阪に行けば、大阪の人間になるしかない。それくらい大阪文化の誇りは高く頑強で、それくらい長い歴史の中で堆積してきたものを持っている。昨日今日、阿波や尾張に影響されてできたものではない。
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大阪には、猥雑なものや凶悪なものを祭り上げてゆく文化がある。それは、都では暮らせないアウトサイダーたちを受け入れることのできる土地柄だったことを意味するのかもしれない。そういう猥雑なものや凶悪なものを祭り上げてゆくことによって、住民どうしの連携が盛り上がっていった。
大阪は、土地そのものが、先験的に都から落ちこぼれていたし、都の落ちこぼれが集まるところでもあった。そうして、落ちこぼれることそれ自体を祭り上げる文化を育てていった。
だからこそ古代の大阪は、都よりもずっとダイナミックな住民どうしの連携を持っていた。
古代の河内平野は、一面の湿原だった。そんなところを干拓して一大穀倉地帯にしていった住民どうしのダイナミックな連携こそ、おそらく大阪文化のルーツなのだ。それは、お祭り騒ぎにしてしまわなければできるはずもない困難な大事業だった。
そしてそこを干拓して住み着いていったのは、都では「奴婢」と呼ばれる奴隷のような立場に置かれていた人たちだった。
彼らは、人の心の中に魔物が棲んでいることを知っていた。「たてまえ」なんかどうでもいい、という魔物。「命の大切さ」なんかどうでもいい、という魔物。人は挫折したり病み衰えたりすれば、魔物と出会う。そういう魔物を祭り上げてゆくことによって都よりもダイナミックな住民どうしの連携を産み出していったのが、大阪の文化なのだ。
それは、ただ単純に「色と欲」とだけいって済ませられるものではない。人間の心の中の「鬼」、そういう人間の根源を肯定してゆく文化が大阪にはある。
大阪には魔物が棲んでいる。良きにつけ悪しきにつけ、そういう光と影を孕みながら、大阪にやってきたものたちは大阪の文化に染まってゆく。
育児放棄した彼女もまた、魔物を祭り上げる地で、魔物と出会ってしまった。