鬱の時代20・育児放棄の鬱と鬼

どんな母親でも、自分の分身である子供に対して、ふと「おまえが死ぬか、私が死ぬか」と無言のうちに問うてしまう瞬間はあるのだろう。問われた子供は、そのときは何のことかはもちろんわからないのだが、その体験がどこかに「トラウマ」となって残る。現代社会で行方不明の老人が多いということは、そういうこともあるかもしれない。子供だって、年老いた親に対して「おまえが死ぬか、私が死ぬか」と問うてしまう瞬間はあるのだ。
おそらく、育児放棄した彼女も、そのような生きるか死ぬかのぎりぎりの場に立ってしまったのだろう。
幼い子供二人の母親として、「あんたたちが死ぬか、私が死ぬか」という争いになったら、彼女が勝つに決まっている。しかし彼女だって、勝ったからといって、この社会で人間として生きる道は閉ざされてしまう。そういう展開ぐらいは、かんたんに想像がつく。子供たちが死ぬことは、彼女自身も死ぬことを意味した。どう転んでも、もう普通の女として生きる道はない。
こんなことしたら警察に捕まる、というくらいの想像はつくけど、もう何もかもどうでもいい、という気分でその日その日をやり過ごしていった。
彼女自身も、じわじわと死んでいっている気分だったのかもしれない。
だからといってそんなことが許されるはずもないじゃないか、というなら、そのとおりだ。許されるはずがない。
しかし彼女は、存在そのものにおいて、すでに許されていない人間だ、という自覚があった。若い美空で幼い子供二人を抱えて生きていかないといけないなんて、それ自体すでに許されていない証拠だ。それは、刑罰以外の何ものでもない。
彼女が許された人間になることはもう、絶望的だった。
「そんなことが許されるはずもない」という裁きなど、すでに無意味だった。どう転んでももう、許された人間にはなれない。
僕が彼女ほどの地獄に落ちたことがあるわけではないが、その気持ちはなんとなくわかるような気がする。
自分が社会的に許された人間になれるなんて、そんな希望は持てない。
「自分はここにいてはいけない」という気持ちから逃れられる自信は、僕にだってない。
「そんなことが許されるはずもない」なんて、許されている人たちのいうせりふだ。
幼い子供二人を抱えて生きてゆくこと自体許されていない証拠なんだもの、生きていったからといって許された人間になれるわけではない。
子供を育てても、育てなくても、もはや彼女は、許されていない人間であることから逃れられない。そのダブルバインドの中で、母として生きよ、なんて、あなたたちはよくいえるものだ。
彼女にとって、未来は、絶望的に遠い道のりだった。
二十代のはじめの人間にとって、未来がすでに決定されていることがどんなに重苦しく絶望的なことか、しかもそれは「許されない」人間として刑罰を背負ってゆく未来だ。その重苦しく絶望的な気分は、社会にフィットして「許されている」人たちにはわかるまい。
しかし、若い恋人たちが別れることだって、自分の未来が「刑罰」に感じられるからである。彼女は、それより百倍も重い刑罰を負わされたのだ。
幼い子供二人を抱えてじわじわ死んでゆかねばならないという刑罰、彼女はそれを、ありありと感じてしまった。
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現代社会においては、いきなり死んでしまうことはあまりない。
先端医療に守られながら、みんな、じわじわ死んでゆく。
だから、「今ここの死」に対するイマジネーションが希薄になってしまう。
今すぐには死なないつもりで生きている。
しかし、生きているということは、まだ死んでいないということだ。すべての生きものは、次の瞬間死んでしまう可能性の上に生きている。息をするのをやめたら、たちまち死んでしまう。われわれは「今ここの死」の上に生きている。
なのに、それをうまく実感できない。
的(まと)に向かって放たれた矢は、的と射手のあいだの「2分の1」の地点を通過し、さらにそのまた「2分の1」の地点を通過し、無限に「そのまた2分の1」の地点を通過してゆく。したがって矢は、永久に的にたどり着かない、という詭弁。
これと同じように現代人の意識は、無限に死にゆく過程をイメージしつつ、永久に死にたどり着けない。
観念的にはあれこれ死を語っても、実感しているわけではない。
病気になっても、近代医療によって治ることを前提にしているから、まだ死が見えてこない。死が、身近なものに感じられない。
で、そのあげくに、無意識のところで死の恐怖が際限なく肥大化してしまっている。
まあその原因はいろいろあるだろうが、現代の高度な医療も、高度であるがゆえにそのお先棒を担いでしまっている。
「人間という制度」の歴史は、死という概念に対する恐怖や戸惑いを無意識のところで持ってしまったところから始まっている。そしてその歴史は、戦争の歴史と軌を一にしている。戦争をして命のやり取りをすれば、死が身近なものになり、「生きるも死ぬもどうでもいい」という地平に立つことができる。それが、人間の快楽でありカタルシス(浄化作用)だ。
だから、人類は、その起源からのこの1万年、つねに戦争を祭り上げる歴史を歩んできた。
なのに現在のこの国は、太平洋戦争の敗戦によって、戦争を祭り上げることを禁じられた歴史を歩んでいる。
これもまた、現在のこの国で鬱病が多発し、年間3万人以上の自殺者が出るという現実の、ひとつの原因になっている。
われわれはいま、そういう幻想空間の中で生きている。
たとえ平和な世の中でも、どこかで「命のやり取り」をするような体験を祭り上げていかなければ、死の恐怖は克服できない。
だから、冒険者やスポーツ選手が祭り上げられる。
それは、鬼のことだまに耳を傾け、死の恐怖を飲み下す行為である。われわれのほんのささいな快楽や生きてあることのカタルシスだって、じつはそういう行為として体験されているのだ。
ものを食う行為だって、それが動物の肉であれ果物や野菜であれ、根源的には相手と「命のやりとりをする」行為なのだ。われわれのものを食うという行為は、「命なんかどうでもいい」という鬼のメンタリティを祭り上げてゆく行為である。牛や豚を殺してその肉を食って「美味い」といっているなんて、鬼になる行為だ。鬼にならなければ、そんなことはできない。
彼女は、死という的を射当ててしまった。
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人類の歴史において、鬼を祭り上げてゆく文化は、原始時代からあった。
二万年前のヨーロッパのクロマニヨン人は、頭部がライオンで体は人間、という神像を作っていた。
彼らは、人を殺して食ってしまうライオンという「鬼」を祭り上げていたわけで、自分たちもそういう魔性を持ちたいと願っていた。ライオンの強さを祭り上げていたのではない、人間を殺して食ってしまうくらいの「命なんかどうでもいい」という魔性を祭り上げていたのだ。それが、「頭部だけがライオン」というかたちが意味するところである。ライオンの強さにあこがれたのなら、むしろ体の部分をライオンにするだろう。
そのとき人類は、「死」を深く意識しはじめていた。
もしかしたら、戦争だってそのときすでにはじまっていたかもしれない。
いや、「埋葬」するという行為を覚えた十万年か二十万年前に、すでにそんなまねごとがはじまっていたのかもしれない。
「人間という制度」の歴史は、死の恐怖との戦いの歴史であるのかもしれない。
パンドラの箱を開ける」とは、死という概念を見出し、死の恐怖を持ってしまった、ということだ。
十数万年前の氷河期のネアンデルタールは、生んだ赤ん坊が次々に寒さで死んでゆくという状況の中で、その数を超える赤ん坊を産み続けていった。それは、死に対する悲しみや恐怖を深くする体験であると同時に、「死=命」なんかどうでもいい、という「鬼」になる行為でもあった。
女の出産は、根源的には、命を止揚してゆく行為であると同時に、「命なんかどうでもいい」という鬼になる決断の上に成り立っている。自分の命なんかどうでもいいと思わなければそんな苦行の中には入ってゆけないし、「生まれた命は必ず死んでゆく」という事実もひとまず忘れて鬼になっている。
人間の快楽=カタルシスは、「鬼になる」ことにある。人間は、鬼を祭り上げてゆく文化を持っている。それが、人類十万年の歴史なのだ。いや、その文化は、ここでは多くを語ることは差し控えるが、おそらく直立二足歩行それ自体の根源的なコンセプトなのだ。
育児放棄した彼女を「鬼母」といって「鬼になる」ことを否定するのは、人間としての精神の貧しさである。おまえら、そうやっていい人ぶっていろ。ただの「制度の犬」くせしてさ。
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生きることのカタルシスは、生きるか死ぬかのせっぱつまった状況に立ってはじめて体験される。女の出産もオルガスムスも、おそらくそういうせっぱつまった実存感覚なのだろう、と僕は思っている。
男たちの、「あと何十年生きられる」というようないじましい皮算用の上では、けっして体験されることはない。
病気になって死が身近に感じられれば、世界はいつにもまして美しく輝いている。まあ、そんなようなことだ。
人間は、死に対する意識を持ちたいのではない。それを超越したいのであり、そこから解放されたがっているのだ。
人は、みずからの生きようとする欲望から解放されたがっている。解放されなければ、死んでゆくことができない。
しかしそれは、「死にたい」ということではない。それもまた、ひとつの命に対する執着にほかならない。「生きるも死ぬもどうでもいい」というところに立って、はじめてカタルシスがやってくる。
だから人は、生きようとする欲望を打ち砕く「鬼」を祭り上げる。鬼は、われわれのうっとうしい生きようとする欲望から解放させてくれる。
彼女は、二人の幼い子を見殺しにした。われわれは、彼女を「鬼」として祭り上げてゆく。
それは、悲しい事件であり、人々に深い嘆きをもたらした。しかし同時に、「生きることなんかどうでもいい」という鬼の境地を垣間見るきっかけも与えてくれた。鬼の境地を獲得しなければ、人は死んでゆけないし、生きてあることのカタルシスもない。
生きることなんかどうでもいい……われわれは、そういうことを彼女から教えてもらったし、そう思い知ることでしか、すでに死んでしまった幼い二人の子供を弔うこともできない。
生まれてすぐに死のうと百年生きようとどちらが幸せということもないのであり、それは、「どうでもいい」ことなのだ。
人間は、「鬼」を祭り上げる。