まれびと論・43 畏怖することのカタルシス

畏怖することは、この国の伝統文化です。
畏怖することは、断念することです。
水平線の向こうは何もないのだと断念することによって、「今ここ」が確かになる。
あの山の向こうは何もないのだと断念することによって、「今ここ」が確かになる。
すべてを断念して「今ここ」で消えてゆく。縄文人は、その消失感覚に生きてあることのカタルシスを見出した。
この世界が凶悪だから畏怖するのではない。「わからない」からだ。
古事記は、なんでもありの物語です。そこに登場する神たちは「わけのわからない」ことばかりしている。「わけのわからない」ことが神の神たる由縁である、といっているかのようです。
柳田国男の「遠野物語」では、山人にさらわれて夫婦になった女が、「夫は、私の産んだ子をぜんぶ食べてしまう」と告白する。でも、そんな夫から逃げようとはしない。それは、山人が凶悪な存在だといっているのではなく「わけのわからない」存在だといっているだけのようにも受け取れます。「遠野物語」に出てくる山人はみな、凶悪というより「わけのわからない」存在として村人の前にあらわれる。
秋田の「なまはげ」は、凶悪というより「わけのわからない」存在として村人に畏怖を与えている。まあ、凶悪ということも、ひとつの「わからなさ」ではある。
縄文時代に、夫婦という関係などなかった。男も女も、たがいに不特定多数の相手とセックスしていた。それは「わからない」相手に畏怖を抱くことがカタルシスだったからでしょう。そして、「わからない」という体験は、出会いの場にしかない。一緒に暮らせば、その畏怖は、どんどん薄れてゆく。
「まれびと」の「まれ」は、「わからない」ということ。「まれびと」とは、「わからない」という体験をカタルシスとして与えてくれる他者のこと。「あれ」と「これ」の「間(ま)」に、「まれ」がある。
「怖いもの見たさ」ではないが、畏怖するからこそ、意識が相手の身体に憑依してしまう。そうして、みずからの身体に対する意識が消えてゆく。
「わからない」と畏怖すること。「わからない」といえば、この世の森羅万象のすべてがわからない。出会いの場の、一瞬の痴呆状態と畏れ。それが、縄文人の神体験だったのではないだろうか。
夜が明けてゆくとき、空が白み始める直前の闇の状態を「あかつき」という。これは、「ツマドイ」の男女が、戸をはさんで顔も見ないまま向き合っている状態に似ている。このとき彼らは、「まれびと」という「神」と出会っている。「あかつき」とは、太陽が戸の前に立っている時間のこと。
太陽が「不在」であるその時間にこそ、人はもっともたしかに太陽と出会っている。そのとき、太陽に対する思いで、胸がはちきれそうになっている。
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この国の古代人の信仰のかたちは、世界を畏怖することにあった。
世界を「わからない」と畏怖しているときの身体の消失感覚、そのカタルシスが「神」という体験だった。
かつて奈良盆地は、湿地帯であった。その水が引いて地面が現れてくることのカタルシス。「まほろば」とは、見晴るかす広い土地のこと。それはまさしく、湿地帯の水が引いていったことのカタルシスを表しているのではないだろうか。
弥生時代から古墳時代にかけて奈良盆地に人が集まってきたことのダイナミズムは、干拓のダイナミズムでもあった。
そのころの奈良盆地から河内平野のかけての地域は、干拓することによってしか、人が暮らしてゆける土地を確保することが出来なかった。しかし、そう大きな川もなかったから、干拓が容易な地域でもあった。
水が引いて、新しい清浄な土地があらわれてくるよろこび。それはまさしく、肉体としての身体が消失して身体の輪郭ばかりが浮かび上がるという、「今ここ」の実存感覚をよびさます体験だったのではないだろうか。水をかぶって体を清めるという習俗も、もしかしたらこの体験からきているのかもしれない。水をかぶれば、骨や筋肉や内臓としての肉体が消失して、皮膚感覚ばかりが身体を覆ってしまう。それは、水の下の土地と「出会う」という体験なのではないか。
水に対する「畏怖」が、身体を清める。
日本列島の住民は、意識を「外」に向かって拡張してゆくということをしない。「外」を「わからない」ものと畏怖して、「内」に向かって収縮してゆく。「今ここ」において消えてゆこうとする。なぜならそれが、もっともたしかに「今ここ」において存在することだからだ。
日本列島の「外」、この村の「外」、そして、身体の「外」の他者もまた「わからない」存在あると畏怖して向き合う。「外」を畏怖して「今ここ」のたしかさを実感することのカタルシス。これが、古代の信仰のかたちだったのではないだろうか。
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スサノオは、南紀熊野の荒ぶる海の神だった。そういう畏怖が、古代人の海に対する心の動きだったのだ。折口氏のいう「常世信仰」が「ちぎれちぎれ」になってしまうのはとうぜんでしょう。
折口氏は、古代人の信仰のかたちがどういうものであったのかということに対する考察が短絡的すぎます。古代人の信仰のかたちが「富と不死」を願うものであったなんて、よくそんなステレオタイプなことを言って平然としていられるものだ。思考停止もいいとこじゃないですか。
「富と不死」は、近代人の願いなのだ。人が守るべきものをたくさん持ち、延命治療が進み、明日のスケジュールに追われるようになってから、不死を願うようになってきたのだ。
古代においても、一部の権力者たちはすでにそうした暮らしの環境を持ち始めていたのかもしれないが、それはけっして大多数の民衆の暮らしではなかった。
古代の民衆には、おそらく「富」とか「不死」という概念はなかった。人間は、可能なことしか願わない生き物です。彼らにとってそれは、願うことのできる対象ではなかった。
「みんなで貧乏しよう」、というのが、日本列島の村の伝統的なスローガンです。つまりそれは、収縮したできるだけ小さな世界を生きようとする身振りであり、ようするに中世の隠遁者の方丈の思想や茶室文化と同じです。また村人の、そうやって小さな限定された世界を生きようとする身振りが、「泣く子と地頭には勝てない」という権力者の理不尽な支配を可能にしていた。
日本列島に、「不死」というかたちで世界を拡張してゆこうとする伝統はなかった。限定された「今ここ」において死に対する「畏怖」と和解してゆくことのカタルシスが大切にはぐくまれてきただけです。
昔の人が現代人ほど死を怖れなかったのは、「常世」だとか「極楽浄土」を無邪気に信じていたからではない。そういうカタルシスを、日常生活の身振りのなかに持っていたからだ。
しかし、ニートを初めとする現代の若者たちもまた、「富」や「幸福」という概念を信じなくなってきている。彼らがいま模索しはじめているのは、たぶん「出会いのときめき」にある。他者を「祝福する」という身振りは、現代の大人たちより彼らのほうがずっと豊かに身につけている。

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まれびと論・44 春のおとづれ

春のおとづれ、といえば、三月ころの気分です。
草木がようやく芽吹き始めるころです。
正月のことを「初春」というが、まだ冬の真っ盛りです。旧暦では二月のはじめだが、それでも一年でいちばん寒いころだし、北国では雪解けまでにまだふた月くらいある。
冬は冬です。
折口氏の持論では、常世の国の神は春に一回だけやってくることになっています。
その春が、旧暦の「正月」だというわけです。
しかし三月・四月にならならなければ、本当の意味で「春をことほぐ」気分は生まれてこない。そのとき、死んだようなモノクロームの世界から、鮮やかに彩色された命の輝きの世界へと、劇的に変化する。
なぜ、真冬の正月に「初春のことほぎ」というのか。
折口氏はそれを、「春のことほぎ」がだんだん前倒しになってきたのだ、という。
とにかく、正月より大きな祭りはないし、それは、どちらかというと冬の祭りであって、春の祭りではない。
なぜ日本列島の住民は、こんなにも正月に気分が昂揚するのか。なぜ、正月が一年でいちばん大きな祭りになったのか。この国では、ほんとうの春より、真冬の正月の方が祭りの気分は盛り上がるのです。ただ春が「前倒しになっただけだ」ですむ問題じゃない。前倒しになって予行演習をしているだけなら、ほんとうの春になったときには、さらに盛り上がるはずです。
「木の芽どき」というくらいで、春は、気持が不安定になって、神のことを忘れてしまいやすい季節です。春こそ、神の来訪にいちばんふさわしくない季節かもしれない。
正月から節分にかけての、めくるめく神や鬼との出会いの日々。その反動として、うつろで不安定な春がやってくる。
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冬は、一年のサイクルの「間(ま)」にある季節です。
草木は枯れ、人間も活動を停止する。ここで一年が締めくくられる。
特に雪国では、人は家の中に閉じこもり、景色は死に果て、横への広がりがいっさい断たれる。
しかしその限定された「場=とこ」において、「天と地」という「たて」の関係の世界が生まれる。
そうして、「神」と出会う。
「神」は「天」にいる。「天と地」の関係は、「今ここ」において成立している。
「神」は、どこからもやってこない。「今ここ」ですでに出会っている。これが、日本列島の住民の「信仰のかたち」であろうと思えます。
折口氏の言うような「春になれば常世の国から神がやって来る」などという「横」のパースペクティブで世界をとらえていたわけではないのだ。
「あかつき」といいます。空が白み始める直前の夜の闇です。つまり、朝と夜の「間(ま)」にある時間です。お寺の勤行は、この時間になされる。まさに「夜」が完結しようとしていることのカタルシス。そこにおいて、われわれは「神」と出会う。
秋が夕暮れで春が夜明けだとすれば、冬の終わりごろの旧暦の正月から節分のころは、まさしく「あかつき」の時間帯だといえます。
一年のうちで、もっとも非日常的で厳粛な気分に浸されるのが、このころなのではないでしょうか。心が、この生と死との「間(ま)」に置かれる季節。
まあ、そういう気分にばかり浸っていると春から始まる農作業の準備がなかなか進まないから、「なまはげ」がやって来てカツを入れてくれる。つまり、きちんと冬を終わらせてくれる。
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「初春」は、冬と春の「間(ま)」の時間。春ではない。しかし、冬が終わろうとしている時間だから、もはや冬だともいえなくなっている。
「初(はつ)」の「は」は、概念的には「空虚」とか「仮の」というニュアンスの表象です。息がぜんぶ出てしまって、口の中が空っぽになってしまうような発声。「はかない」の「は」。「はる」の「る」は、「する」とか「見る」とか「なる」とか、「行為」および「結果」の
表象。「はる」とは、虚ろで不安定な気分になること。
「つ」は、口を締め切って発声するが、明確な音になりにくい心もとない発声です。ゆえに、不安定な「完了」「納得」「到達」を表象する。「行きつ戻りつ」の「つ」は、不安定な到達。港のことを「津(つ)」というのは、係留されている船はぷかぷか浮いているだけで、綱が切れたら沖に流れていってしまうからでしょう。「つなぐ」は、不安定なものを止めておくこと。「つつむ」は、もっと不安定なものを閉じ込めてしまうこと。「く」および「む」は、「つ」よりももっと確かな「完了」の表象です。
「はつ」とは、空虚で不安定なこと、すなわち絶対的な「決定不能性」を意味している。そういう「間=裂け目」を古代人は「感慨」として持っていたのです。それは、物事の終わりの空虚なさま。おわりのはじまり。これから始まろうとしているのであって、まだ始まっているわけではない状態、すなわち幕が上がる前の状態です。
「初がつお」は、かつおの季節の始まりを知らせているのではなく、かつおの季節が始まる前に取れたかつおのことです。だから、貴重なのです。気落ちすることを、「しゅんとなる」、というように、「旬(しゅん)」とは、季節の幕開けの直前に到来するつかの間の「空白」の時間、あるいは「裂け目」のこと。その裂け目に立って、人びとは、「初がつお」という「まれびと」と出会う。
「初春」とは、春の初めではなく、春の初めが来る前の冬と春の「間(ま)」の時間のこと。冬の終わりに、春と出会う。春と出会っているのであって、春になったのではない。それが「初春」です。
「初(はつ)」と、「果てる」の「果(は)つ」は同じです。同じだから、同じ呼び方をしたのでしょう。別の概念なら、別の呼び方になってゆくはずです。どちらも「終わり」という意味です。古代人は、そういう感慨で「はつ」といっていたのであって、「はじめ」という意味ではなかった。「はじめ」の前の「終わりの始まり」、「終わりでも始まりでもある」と同時に「終わりでも始まりでもない」、そういう「空白」の状態のことのです。
「冬が果てる」ことを「はつはる」という。そして「初春が果てる」ことによって「はる」がくる。「はる」の語源は「はつる」かもしれない。そこでやっと狂おしく充実していた冬が「終わる」のです。
「はつ」が終わることを「はつる」という。「はつ」は、まだ終わっていない、まだ始まっていない、という状態のこと。
「新しい」を意味する「にひ」という言葉の「に」は「出現」を表象し、「ひ」は「秘匿=隠れる」を表す。「日」は、音韻だけから解釈すれば、「夜の底に隠れているもの」という意味になります。それが、山の端から現れる太陽を表している。いったいどっちなんだ、という話です。
新嘗祭の「にひ」は、まだ食べたことのない新米のことです。そういう意味で、それはまだ「隠れている」対象です。「にひ」とは、「隠れる」ことと「現れること」の「間」に存在するさま。
やまとことばの「にひ」も「はつ」も、絶対的な「決定不能性」の上に成り立った言葉です。
「初日の出」とは、去年の一年間にたまった穢れをすべて拭い去ったまっさらな日の出のこと。旧暦の正月は、始まりであって、始まりではない。すべてが終わってゆくことのカタルシスは、新しく生まれ変わりつつあるすがすがしさでもある。そうやって心も体も浄化されることが、「はつ」という感慨です。カタルシスとは、「終わりの始まり」のことだ。
正月は、冬の終わりを実感しながら春と出会っている時間であって、春ではない。そういう冬と春の「裂け目=間」の中で、われわれは正月を祝っている。
この国の祭りは、終わることのカタルシスから生まれる。横に広がる時間と空間が完了して、「たて」の世界(=裂け目)が生まれる。そこで「神」と出会う。
たんなる「はじめ」ではない。「終わり=はつ」を自覚しなければ、カタルシスにならない。「祭り」は、そこからしか生まれてこない。
「はじめ」だけでは、カタルシスは生まれてこない。不安と戸惑いがあるだけです。だから「春のはじめ」が「木の芽どき」という不安定な季節になる。
カタルシスは、「はじめ」の直前の「終わり=はつ」にある。

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まれびと論・45 「市」の起源

折口氏が「春の祭り」がいちばん最初にあったと考える根拠は、おそらく彼が説く「市」の起源と関係しているのだろう、と思います。
原初の市は、祭りの場だった。
「全集ノート編・第二巻」で、次のように説明しています。
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山姥が里にやってくるのは、冬の市がたつときである。ところによると山姥でなくて、山人が出てくる。元来この冬の市は、鎮魂の祭りである。すなわち、里の鎮魂の祭りに山姥が出てきて舞を舞うのである。山人すなわち山の神人と、里の人が出会うのが市で、これが日本の「市」の起源である。それゆえ、市はたいてい山の裾にあって、ただの平地にはない。そこで山のものと里のものを交換するのである。
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ここでの「冬」は、冬が終わろうとしている「初春」のころです。
では、交換の品としての「山のもの」とは何か。たぶん山人は、舞を舞っただけなのだろうと思います。山は、そろそろ食料が乏しくなってくるころです。そして里は、何もしない冬の暮らしに飽きてくるころです。だから、山人の来訪は、おおいに歓迎したでしょう。踊ってもらう代わりに、食料を与えてもてなした。
これは、「キャンプ」体験です。
里では、野宿をするということをほとんどしない。しかし山をさすらって狩りをしている人々は、いつも野宿をしている。そうして寒さをしのぐために焚き火をし、酒を飲んで歌ったり踊ったりしている。そうやって身についた歌や踊りを披露しにやって来る。
たぶんこういうことは、縄文時代からやっているはずです。ただそれが、折口氏がいうように冬の一回だけになっていったのは、時代とともに農耕栽培する里の暮らしが忙しくなっていったり、里だけの祭りが充実していったからでしょう。
それでも、冬の終わりごろになると、何かこの生を離れたところに立っているような心地が起きてくる。何かこの世ならぬものと出会っているような心地がしてくる。
そういう「出会い」の気分を視覚化するかたちで山人の来訪が習慣化されていったのでしょう。その体験によって里の者たちは、この一年間の生きるいとなみの穢れがすっかり洗い流されてゆくようなカタルシスを体験した。
すなわち、折口氏の「まれびと論」がいうような「常世信仰」だの「神や貴人に対するもてなし」だのを持ち出してくるまでもなく、日本列島ではすでに大昔からそうした「まれびとの文化」を持っていた、ということです。
「まれびとの文化」は「神や貴人」をもてなしたところから始まっているのではない。そうやって「山人」をもてなすというところからでも、すでに始まっている。また「まれびとの文化」である日本列島における「市」の起源は、「交換」ではなく「もてなす」という行為にあったらしい。
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そして折口氏によれば、もうひとつの「市」の起源として、山人が山から下りてきて村はずれに「春のおとづれ」をことほぐ木の苗を置き、村びとがそれと引き換えに食い物を渡すということもあったのだとか。
たしかに、日本列島の信仰に、「木」は重要な役割をしています。天皇家の「右近の橘・左近の桜」とか、民衆が門口に門松を立てるとか、木はめでたいものであるという習俗がある。
木は、「たて」に伸びてゆく。そういうこととも関係があるのかもしれない。また、家の「柱」に対する信仰もある。それは、「男根信仰」であると同時に、この世界を「天と地」の関係で了解しようとする信仰でもある。
しかし、「市」の歴史は、おそらく折口氏が考えるよりももっと古い。
縄文人だって、交易をしていた。富山県で取れるヒスイの玉が秋田県の遺跡から出てくるとか、天竜川の上流で取れる黒曜石が伊豆の神津島で発見されたりしています。
いやそんなことよりも、もっとも原始的な交易を考えた場合、ただたんに与えて受け取るだけの「異人=他者」を「もてなす=祝福する」という関係があっただけのはずです。この関係から、古代における村どうしや村と山人との「交換」という行為に発展していったのでしょう。日本列島の大昔には、男たちが女たちの小集落を訪ねてゆくという時代があった。おそらく「市」の起源はそこにある。
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縄文時代のいちばん大きな男女の出会いの体験は、秋の終わりにあります。そこで彼らは、雪に閉じ込められるひと冬を一緒に過ごすパートナーを求めあった。
また秋は、男たちにとっては、狩に熱中する季節でもあります。彼らは、猪や鹿などは、脂が乗って肉のうまい秋から冬にかけての季節にしか狩りをしなかった。そういう獲物を手土産にして、女たちの集落を訪ねてゆく。そして女たちは、精一杯のもてなしでこれを迎えた。
つまりそこで、狩の獲物と篤いもてなしが「交換」された。厳密にいえば、「交換」したのではない。どちらも「与える=もらう」という行為をしただけです。
そのとき女たちの集落は、まさしく「市」だった。集落の広場に男たちが持ってきた狩の獲物が並べられ、女たちがそれを料理して祝宴を催す。「市」とは、もともと祝祭の場だったのだ。
「祭り」も「市」も、神に対する信仰から始まったのではない。人と人が「祝福」し合う感慨から生まれてきた。それだけのことだ。
市の起源を説明するとき、折口氏だけでなく研究者はみな、共同体(村)の内と外の境界において発生した、と言いたがるのだが、その起源においては、村そのものが市だった。つまり、市は、共同体の論理が生み出したのではなく、人と人の出会おうとする行動性というか「出会いのときめき」から生まれてきたのだ。共同体が市を生み出したのではなく、はじめに市があった。
あるところで男と女がであってセックスをした・・・・・・それじたいがもう、いろんな意味で「交換」という契機をはらむ行為であったはずです。おたがいの足りないものを与えあい、受け取りあったわけだから。
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「いち」の「い」は、声が外に出ていかないで体とぴったりひとつになってゆくような発声です。だから「一(いち)」というし、「いのいちばん」というときの「なにをさておいても」という気分の表象にもなる。
「ち」は、息がとても細く小さくなって出てゆく発声です。だから、「ちぎれる」とか「ちいさい」という。「小さい」「細い」「切断」「集中」などの概念を表す。
語源として考えるなら、「市(いち)」とは、日常から切り離されて「今ここ」で世界もこの生も完結している、という感慨が生まれる祝祭(神=他者との出会い)の場、ということになります。そういうカタルシスを体験する場として、「市」が始まった。もともとは、祝福しもてなそうとする出会いの場であっただけで、たぶん「交換」という意識はなかった。「交換」しようとして市が始まったのではない、市が習慣化していった結果として、「交換」という行為が生まれてきたのだ。
古代や中世にそこが治外法権の場になっていたのは、もともと祝福しもてなす場であったという歴史があったからでしょう。
「善意」の場だった、というのではないですよ。そこで世界が完結しているという、そういう何もかもが終わってしまうカタルシスが生まれる気配を、その場所が漂わせていたからでしょう。そのようにして誰もがその場所を神聖視していた時代があった。
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折口氏は、「市」の発生も「常世の神の来訪」も「春のおとづれ」をことほぐ行事だったといっているのだが、そうじゃないのです。
日本列島の祭りや信仰は、世界がここで終わる、という感慨から生まれてきた。人びとはそういう感慨で他者=異人をもてなしたのであり、それが「まれびとの文化」なのだ。
縄文人にとっては、秋の終わりの出会いのときめきと冬の終わりの名残惜しさこそ、もっとも大きく心が動く季節だった。とにかく彼らは、そういう暮らしを一万年近く続けてきたのであり、であればその余韻はとうぜんその後の時代にも受け継がれていったはずです。
この「終わり」のカタルシスにこそ、日本列島の住民のもっともたしかに他者と出会い神と出会う体験があった。そこから信仰=祭りのかたちがつくられていったのだ。
人びとは、一年の終わりを「冬」にした。それは、「春」が待ち焦がれる季節ではなかったことを意味する。冬の終わりに、人生(=命)が終わってしまったような気分になったからだ。古代人は、終わって生まれ変わってゆく気分を、秋の終わりと冬の終わりに体験していた。秋の終わりから冬にかけての季節こそ、彼らの心がもっとも昂揚する季節だった。
春になって苗床作りから田植えと続いてきた一連の農作業が、六月に入って雨が降るようになると、米作りがひとまず軌道に乗ったことのカタルシスをおぼえる。そこで人々は「神今食(しんこんじき)」という新嘗祭に似た祭りをする。これを折口氏は、はるか昔に沖縄から移住してきた村びとによる二期作の習慣の名残を示す「二度の秋祭り」だという。なんだかわざとらしいこじつけです。古代や中世に沖縄から村ごと移住してきたということなどあるはずがないし、そんな証拠もいっさいない。そんな先祖の記憶だけで意味もなく祭りが続けられてゆくことなどあるはずがない。祭りは、「今ここ」の暮らしを癒すために繰り返されてゆくのだ。
米作りの農民にとって六月の雨がどんなにほっとする「恵み=おとづれ」であることか。
日本列島の住民の季節感は、「春のおとづれ」だけがとくべつだというような、そんな単純なものじゃない。
祭りは、終わりのカタルシスとともにある。ここでこの生が完結するという昂揚感とカタルシスが祭りを盛り上げる。研究者たちは、祭りを共同体のシステムとして語ることばかりしている。しかし、それが命のいとなみであるという側面についても考えた方がいいように思えます。