まれびと論・42 別れの身振り
日本列島では、きちんと終わらなければ、何も始まらない。その代わり「終わりよければすべて良し」などとも言う。つまらないスピーチでも、最後にひとこと名せりふを吐けば、拍手喝采される。
「打ち上げ」は、終わったあとの祝賀会のこと。正確には、「拍ち上げ」と書くのだそうです。終わったことをみんなで拍手すること。それは、神社で「拍(かしわ)手」を拍って拝むことから始まっている。拍手することは、日本古来の伝統です。拍手は、終わったことを「ねぐ=ねぎらう」行為です。
つまり、神社で「拍(かしわ)手」を拍つことは、「神を迎える」ためではなく、「すでに神と出会っている」ことを感謝する行為だ、ということです。すべては、「終わる」ことによって始まるのだ。古代人は「終わる」ことのカタルシスをよく知っていて、それが、彼らの祭りや行事の主たるコンセプトだった。
日本列島における祭りや祝いの行事は、すべて、終わったことのカタルシスとともに催されている。
われわれは、「神を迎える」のではない、「すでに出会っている」のだ。すでに出会っていることを視覚化するために、人が神に扮する。
盂蘭盆の精霊流しは、神を迎えているわけではないし、神がどこにいるかと特定されているのでもない。その燈篭舟がどこにたどり着くわけでもないことは、誰もが承知している。ただもうそれを水に浮かべて流すということ、その行為じたいで神に届くと信じられていたのだ。
古代人の暮らしは神によって規定されていたのではない、彼らの暮らしにそって神がイメージされていただけだ。彼らは、生きてきたことの穢れをすべて洗い流し、すっきりと生まれ変わった気分で生きていたかった。そのために祭りを催した。それだけのことなのに、折口氏の「まれびと論」はもちろんのこと、小松和彦氏の「異人論」や赤坂憲雄氏の「異人論序説」を読んでも、古代人が現代人のようなわけのわからない共同体意識をいっぱい抱えて生きていたような書き方がしてあって、読みながら僕はもうだんだん憂鬱になってくる。
古代人には古代人らしい「命のいとなみ」があったはずです。彼らは、そこのところを本気で問おうとしていない。たぶん、問う能力もない。すくなくとも小林秀雄の「本居宣長」は、そういう問題意識で書かれてある。
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縄文時代の人びとは、山野をさすらう男たちが女だけの小さな集落を訪ね歩くという暮らしをしていたらしい。
そのとき女たちは、男たちと約束をしていたわけではない。見知らぬ男たちが不意にやってくるばかりだった。どこからやってきたかということなどわからない。たしかなことは、「今ここ」で出会っているということ、それだけだった。
これが、日本列島の住民における「神=他者」との出会いの原型です。
その出会いにおいて、前の男のことはすっきりと忘れていなければ、新鮮なときめきを体験できない。彼女らはきっと、いっぱい涙を流して別れたのだろう。そのつどすっきりとこの生を終わらせること、それが、日本列島の暮らしや信仰の流儀になっていた。
生まれたばかりの赤ん坊にとっては、お母さんも見知らぬ「異人」です。それでも彼らは、けんめいにお母さんになついてゆく。
生まれたばかりの赤ん坊のような気持にならなければ、縄文の女たちだって見知らぬ男の「ツマドイ」は受けられなかったにちがいない。そして現代のフーゾク嬢もまた、そういう気持で客を迎え入れている。人類は、そうやって生まれたばかりの赤ん坊のような気持になるという身振りを、太古の昔から繰り返してきたのです。
この生をすっきりと終わらせること、終わったことのカタルシス、そこから「祭り」が生まれてくる。
それは、「今ここ」における「過去の不在」を確かめる、という身振りです。
秋の収穫のよろこびは、1年間のつらい労働から解放されるカタルシスにある。だから農村では、秋の祭りがいちばん盛り上がるのだ。
人は、未来に対する期待で生きているのではない。生きようとする本能、などというものはない。
生きてあることの根源的ないとなみは、この生にけりをつけようとすることにある。
腹が減れば、腹が減ったことにけりをつけようとしてものを食う。息苦しくなれば、息を吸ってそれにけりをつける。そういうけりをつけようとする衝動がこの生を支えている。
「神の聖(きよ)さ」の根源は、オルガスムスや射精感覚のように、身体が消失してゆくカタルシスにある。そのような身体を抱えたこの生のいとなみの上に、古代人の信仰のかたちがつくられている。
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大きな船が港から出てゆくとき、船の乗客から無数の紙テープが岸壁に向かって投げられ、見送る人たちとの間に色とりどりのスロープがかけられて波のように揺れている。これほど大げさな別れのセレモニーにもないにちがいない。
実際、海の別れは、とても人の心を揺すぶるのです。
駅や空港での別れの比ではない。どんなに無感動な人でも、船の乗客になって岸壁を去ってゆくときには、つい胸が締め付けられる思いになってしまうものらしい。
それは、海に対する畏怖を、誰もが根源的な部分で抱えているからです。海の上に浮かんでいるというそのことが、人の心を細く感じやすいかたちにしてしまう。
「別れ」が、ひとしお胸にしみる。そこにおいて、別れることは、ひとつの「死」として体験されている。
演歌は、民衆が船の別れを体験しなくなったこととともに衰退していった。
「別れ」こそ、演歌の最大のテーマだった。
現代社会には、「別れ」の体験がない。いや、ないわけではないのだけれど、人びとは、別れ方がどんどん下手になっていっている。それで、生まれなくてもいい殺人事件が起きたり、ならなくてもすむはずの鬱病や認知症になってしまったりしている。
他人と別れることも昨日の自分と別れることも。別れることに変わりはない。
「まれびと」が存在しない社会では、出会いのときめきも別れのせつなさもない。
大人の「まれびと」がいなくなったから、演歌も衰退した。
そして、演歌の好きな大人だけが残った。「別れ」を体験してもいないくせに、しているつもりの大人たちが、カラオケで演歌を熱唱している。
べつに体験しなくてもいいのだけれど、してきたつもりでいるからやっかいなのだ。
していないことを自覚した方が、まだ「別れ」の何たるかをよく知っている。
「別れる」とは、別れた相手のことなどすっきりと忘れてしまうことだ。
とはいえ、嫌いになったり興味がなくなって別れることは、別れたことにはならない。
「別れる」とは、せつなくておいおい泣くことだ。途方に暮れて胸が締め付けられることだ。離れてゆく岸壁を眺めながら、デッキの上に立ちつくすことだ。
そうして、すっきりと忘れてしまうくらい泣き切ったときに、はじめて「別れ」を体験したといえる。
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「さようなら」という言葉に、そういう体験をさぐってみたいと思います。
日本列島の歴史で、人びとがもっともダイナミックに「別れ」と「出会い」を体験していたのは、縄文時代だろうと思います。
「さようなら」という言葉が縄文時代にあったかといえば、おそらくなかった。
しかし、縄文時代から繰り返されてきた「別れ」の身振りの伝統が、「さようなら」という言葉を生み出したのだろうとも思えます。
「さようなら」とは、「さようであるならこれでおいとまします」、というような言い方の後半部分を省略した言葉でしょう。
ただ、ここで変なのは、別れの表現は、じつは後半部分にあるということです。肝腎の本文を省略して、たいして意味もないまくらことばを別れの挨拶にした。
このへんが、意味を表現している「グッド・バイ」や「再見(サイチェン)」と違うところです。
「不在」の文化です。「さようなら」とは、さようならといわない言葉です。「じゃあ」、という言い方にも同じようなニュアンスがある。英語では、「バイ」とかんたんにいうときでも、ちゃんと「別れ」の意図を表現している。
では、それをいわないのだから「別れ」を体験していないのかといえば、そうではない。一緒にいること、すなわち出会っているということじたいがすでに別れていることだから、言いようがないだけです。
一緒にいても、おたがいのあいだには「間(ま)」が存在しているのだから、すでに別れているのと同じなのだ。彼らは、わかり合うということをしていない。別れながら、出会っている。
縄文時代、山野をさすらう男たちは、女だけの小集落を訪ね歩く暮らしをしていた。そのとき女たちにとって、そうやって「ツマドイ」をしてくる男たちは、つねに初対面の相手だった。そして朝になれば、出てゆく。わかり合うことなど出来ないし、その必要もない。はじめから終わりまで、別れているも同じだった。
しかし、たしかに、出会っている。
そうして別れの挨拶などしようのない別れ方をしながら、もう二度と会えないかもしれないという思いで胸をいっぱいにしながら別れを惜しむ。
「それでは・・・・・・」としか言いようがないじゃないですか。
たくさんのことが言いたいのに、何も言えない。たくさんのことが言いたいのに、どれだけ言っても充分ではない。そんな気持で、「さようなら・・・・・・」という。
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男と女は、存在そのものにおいて、すでに別れて存在している。すでに別れてあるがゆえに、別れが存在しない、それが縄文社会だった。
縄文時代の男たちはたえずさすらっていたし、彼らの寿命そのものが30数年ととても短かったから、別れることは、もう一生会えないだろうと悟ることだった。そうやって彼らは、「今ここ」でこの生を燃焼し尽くす身振りを身につけていった。
女たちは、相手に余韻を与えてまたやって来させようとするようなさもしい了見は起こさなかった。そんなことをしなくても、すぐまた別の男たちがやってくるし、そういうことが実現するほど長生きできる人たちではなかった。大人たちの誰もが、明日も生きてあるかどうかわからない、という思いを抱えて暮らしていた。だから、ただもう「今ここ」においてこの生を完結してしまおうとした。
「さようなら・・・・・・」と言って「別れ」を言わないのは、「今ここ」でこの生を終えようとする身振りです。
死んでゆく者に必要なのは、この生を了解することではなく、死を了解することだ。だから、この生における「別れ」の何たるかなど言わない。そこで死を了解することは、この生における「別れ」の何たるかなどどうでもいい、と悟ることだ。
そうやって彼らは、ひとつの「終わり」を祝福しあっている。泣きながら、祝福しあっている。
彼らは、結論を相手のもとに届けるということをしない。結論は、たがいの「間(ま)」に投げ入れられ、埋葬される。
死んでゆくことは、この生の結論を断念すること。
そういう感慨で、「さようなら・・・・・・」とだけ言う。