やまとことばの「まつり」・「漂泊論B」1

     1・第二章の前書き
縄文時代から古代にかけての歴史を通して、日本的な心性の源流を考えてみたい。
日本人論はすでに語り尽くされている観があるが、それでもまだわれわれはその答えを探しあぐねている。
日本人とは、日本人とは何かと問い続ける民族であるのだろうか。
もしかしたら、世界でもっともみずからのアイデンティティを問い続けている民族であるのかもしれない。
われわれは、問い続けながら、けっして結論にたどり着かない。そこでまた新たな問いが生まれてくるだけである。
わからないで問い続けることの心地よさがある。そうやって嘆くことそれ自体がわれわれの生きた心地(カタルシス)になっている。
世界的に見ればかなり特異な文化の伝統を持っているはずだが、それでもそのかたちをうまく自覚できないで、かんたんに外来の文化にたらしこまれてしまう。
そうして外国人から「日本人はこうだ」といわれると、「ああそうか」と思う。
戦後の日本人がこんなにもかんたんにアメリカ的近代合理主義に踊らされてきたのも、そうやってアイデンティティを持たないことがアイデンティティの民族であるからかもしれない。
しかし考えて見れば、原初の人類は猿としてのアイデンティティを捨てて二本の足で立ち上がったわけで、アイデンティティ喪失の不安を生きることが人間の普遍的な生きる流儀であるのかもしれない。
われわれはそういう人間の「普遍性=自然」に素直すぎるのかもしれない。
僕は、日本文化とは直立二足歩行の起源のかたちをそのまま洗練させて成り立っているものだと、じつはひそかに思っている。


     2・それは、「神」に対する言葉か
折口信夫は、「<祭り>という言葉は神に対する儀式の呼称として生まれてきた」といっている。
「神に捧げたてまつる」の「まつる」というようなことだ。
つまり、神に対する敬虔な思いの表出として生まれてきた、といいたいらしい。
まあ、天皇という神が絶対だった戦前の人なら、折口信夫でなくてもそういう発想をするのかもしれない。
しかしそれはたぶん違う。
「まつり」という言葉は、そんな厳粛な気持ちをあらわしているだろうか。
それは、もっと気軽な日常的な言葉として使われていたはずだ。
「さようでございまする」というときの「まする」は、おそらく「まつる」から派生したのだろう。それは「最終的な感慨」の表出で、今でもわれわれは普通に「生きます」とか「思います」と、「ます=まする=まつる」という言い方をしている。
べつに敬語が神に対する言葉遣いから生まれてきたものだとは、僕は思わない。戦前の人はそういう解釈で安直に納得してしまうが、そういうものではないはずだ。
それは、人にむやみになれなれしくするまいという日本的なはにかみであり、あなたに敵意を持っているものではありません、という立場の表明でもある。
だからわれわれは、目下のものに対してでも、そういうものいいをよくする。もともと神に対するものとして生まれてきた言葉遣いではないから、そういう言い方をするのだ。
つまりそれは、他者の身体とのあいだに「空間=すきま」をつくる言葉遣いなのだ。
猿が二本の足で立っている姿勢は、不安定で胸・腹・性器等の急所を相手の前にさらしているとても危険な姿勢である。だから猿は、少し前かがみになってその姿勢を取るし、その姿勢で正面から向き合うというようなことは、戦う以外のときはしない。
しかし人間は、背筋を伸ばしてまっすぐに立つ。これでは、攻撃されたらひとたまりもない。それでもあえてたがいにその姿勢で向き合いながら、言葉などの文化を育ててきた。
そうやって弱みを見せ合いながらたがいに攻撃の意思がないことを示し、たがいの身体のあいだに緩衝地帯としての「空間=すきま」を確保し合ってゆくのが人と人の関係の根源のかたちである。
弱みを見せ合うのが、二本の足で立って向き合っている人と人の関係の作法である。
敬語は、ただ目上の人や神を敬うというだけでなく、「弱みを見せる」という人間の原初的根源的な関係の作法でもある。
というわけで僕は、何でもかんでも「神に対する作法である」という論理で説明しようとする折口信夫のものいいが、ものすごく癇にさわるのだ。
もちろん、日本列島の「かみ」という言葉がどのように生まれてきたかということはとても大きな問題だと思っているのだが。


     3・「祭り」とは、この生の完結のこと
「まつり」の動詞は「まつろふ」。
折口信夫によれば、この「まつ」は「待つ」で、「期待する心」の表出だという。そして「まつり」の「まつ」は、この「期待する心」がもっと強くなって「神を敬い畏れる心」をあらわしているのだとか。
ほんとうに「まつ」という言葉は、「期待する心」というニュアンスがあるのだろうか。
「ま」は「まったり」の「ま」で、「充足」の語義。
「つ」は「着く・突く・付く・搗く・点く」の「つ」で、いずれも「到達」とか「接着」というニュアンスがある。
「まつ」とは、「充足にたどり着こうとする心」、ということになる。
では、このときの「充足」とは、どんなことだろうか。
願いがかなうことは「足る」という。
「まつ」の「ま」は、物事が完結することの充足をあらわしている。
われわれは、人と待ち合わせて待っているとき、相手が来ることを期待しているだろうか。普通は、期待するまでもなく来るに決まっていると思っている。期待なんかしていない。
「待つ」ことは、「期待する」ことではないのである。相手が来るまでの時間をやり過ごしているだけのこと。
で、相手があらわれて、待っている時間が「完結」する。
「充足」というよりは「完結」というニュアンスの「ま」。
「待つ」とは、物事の「完結に向かう」ことであり、これは「期待する心」というのとはちょっと違う。
だから、最終的な感慨の表出として、「生きます」とか「思います」といって「ます=待つ」を付け加える。
着物の裾をを縫うことを「まつる」という。
「あとのまつり」は、「まつりのあと」ではない。これは、祭りのあとの空しさをいっているのではなく、終わってしまっていることをなぞっている空しさのことで、今さらやっても無駄、ということ。
「あとのまつり」の「まつり」は、「祭り」のことではなく、着物の裾を縫うことの「まつり」と同じ意味なのだ。
「まつり」とは、「完結に向かう」、あるいは「完結してゆく」こと。
「祭り」が神の行事になってきたのは後世のことで、「まつり=まつろふ」という言葉の語源は、ただ物事が完結することを祝う気持ちをあらわしていただけではないだろうか。
正月のことを「初春」という。それは、一年が完結したことを祝う祭りだった。
ひとまず死んで気持ちがさっぱりと新しく生まれ変わる、そういうことに向かう行事として「祭り」があった。
もし本当に折口信夫がいうように神に対する敬虔な気持ちをあらわす言葉として生まれてきたのなら「着物の裾をまつる」というようないい方はしないだろう。人々はもっと気軽な日常語としてその言葉を使っていた。
それに「祭り」という行事の根源的な性格も、彼のいうようなことではないはずである。
神に対する敬虔な気持ちを持つこととして、「まつろふ」といったのではない。
物事が完結に向かうことのめでたさを「まつろふ」といった。そしてそういう行事として「祭り」が生まれてきた。
人間は、どこからともなく人が集まってきてそれが「祭り」として盛り上がってゆくという生態を歴史のはじめから持っていた。
原初の人類が二本の足で立ちあがって猿から分かたれたということ自体が、ひとつの「祭り」だったのだ。
原始時代に「祭り=まつり」という言葉があったかどうかはわからないが、「祭り」をするという生態は、二本の足で立ちあがったときからすでにはじまっていた。
氷河期の極北の地を生きたネアンデルタールが洞窟の中に集まって焚き火を囲みながらみんなで語り合う、ということだって、ひとつの「祭り」だった。そこで彼らが「神」に言葉や心を捧げて祈っていたかということはわからないし、そんなことはひとまず問題ではない。みんなが集まって語り合いながら一日が「完結」してゆくこと、さらにはこの生が「完結」している感慨に浸ってゆくことこそ、「まつろふ」という言葉の語源のかたちなのだ。
すなわち、「もう死んでもいい」と思えるほどにこの生が完結してゆく感慨から「まつり」という言葉が生まれてきた。これが、おそらく語源のかたちだ。人間は、そういう体験をする生態を持っており、そういう体験がなければ生きられない。


     4・祭りの起源
原初、集落を離れてふらりと小さな旅に出たものどうしが出会う場があった。
最初は、二人だけだったかもしれない。そうして食い物を交換するとかしてひとまず別れ、それぞれもとの集落に戻ったかもしれない。
しかしそんなことを繰り返していれば、やがて噂が噂を呼んで、いくつかの近在の集落から10人20人と集まってくるようになったりする。
そんなことをするのは、だいたい思春期の若者たちだ。現在の若者たちだって、どこからともなくストリートに集まってきて、暴走族になったり、スケートボードをしたり、ストリートダンスをしたりしている。
原始時代もまあ、そうやってお祭り広場が発生する現象が起きていた。
で、海の集落からやってきたものの貝殻のネックレスと山の集落からやってきたものの鹿の角のペンダントが交換されたりしたかもしれない。「市(いち)=バザール」の発生である。
古代や原始時代の「市」は、そのままお祭り広場でもあった。
歌ったり踊ったり語り合ったりセックスしたり、まあみんなでワイガヤガヤやっていたのだ。集落の安定した秩序から逃れてきたものたちは、そうやって混沌の中に身を浸してゆくことによって、この生が完結しているような心地になっていった。「もう死んでもいい」という気持ちになっていった。
その新しく生まれた集団が100人くらいの規模になってゆけば、もう誰もがもとの集落に戻るということもしなくなって、そこでそのまま新しい集落が形成されていったりもしたのだろう。
そうやって人類は、地球の隅々まで拡散していった。
古代の奈良盆地だって、どこからともなくたくさんの人が集まってきた結果として、あんなに大きな都市国家になっていったのだ。
たおやかな山並みに囲まれていた奈良盆地には、古代人が「もうここで死んでもいい」と思える景観があった。「もうここで死んでもいい」という気持ちで人と人がときめき合いながら大きな集落になっていったのだ。
何はともあれ人間は、「秩序」をつくろうとする意識を持っているから大きな集団を形成できるようになったのではない。「混沌」に身を浸す快楽こそが、大きな集団を生む原動力になった。そうやって、人類の歴史とともに「祭り」が育ってきた。
「祭り=まつり」という言葉は、神に対する感慨として生まれてきたのではない。
「祭り」という言葉がない時代だって、すでに「祭り」はあったわけで、神という概念のない時代だって、人々はすでに「祭り」とともに生きていたのだ。
そこでは、誰もが疲れ果て途方に暮れていた。そういう心を持ち寄ってときめき合ってゆくのが「祭り」のダイナミズムである。
古代や中世の人々が寄り集まる「市」における「祭り」の主役は、旅の僧や旅芸人や旅の乞食や非人たちであった。それは、彼らが疲れ果て途方に暮れているものたちだったからだ。そこから能や歌舞伎などの芸能が生まれてきた。
疲れ果て途方にくれながら「いまここ」に消えてゆくことによって、この生が完結する。「祭り」とは、そういう「みそぎ」の体験がなされる場である。
それは、この生が完結してゆく感慨をあらわす言葉だった。
ゆえにわれわれは、折口信夫が説く「祭り=まつり」という言葉の語源解釈を信じない。
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