内田樹という迷惑・空の向こう

秋になると、空を見上げることが多くなる。
秋は、空に対する感慨がいちばん深くなる季節であるのかもしれない。
晴れた空、うろこ雲、うれしいにつけ悲しいにつけ、空を見上げる。
秋らしい風の気配を感じると、空を見上げたくなる。
空の向こうに神がいる。ほんとうに神がいるのかどうかということなどよくわからないが、この胸のどこかで神を感じている。
秋は、神と出会う季節だ。
答えは、空の向こうにある。
晴れた空を見上げて子供のころの運動会のことを思い出したり、いわし雲を眺めて失恋したことや旅をしたことを思い出したり、恋をしたいとか旅をしたいとか思ったりすること、それ自体がもう神と出会っている感慨にほかならない。
心が、いまここの暮らしの「外」に気づかされている。それが、「神と出会っている」状態なのだ。
いまここの暮らしの「外」に気づかされることが、いまここの暮らしになっている。
秋になると人は、いまここの暮らしの「外」に気づきながら、神とともに生きていることを思う。
折口信夫は、春は一年のはじまりとして神と出会う季節だ、と言ったが、一年の終わりの秋こそ神と出会う季節なのだ。
われわれが、秋風にしいんとした気配を感じるのは、灼熱の夏という一年のクライマックスが終わってゆくことに対する感慨でもある。秋は、「おわり」の感慨の季節なのだ。
折口氏は、「春は一年の労働がはじまる季節で、秋はその労働の成果を収穫するよろこびの季節である」というような言い方をしている。まったく、あの折口信夫ですら、あの神戸女学院のおえらい教授先生と同じように、「下部構造決定論」や「近代合理主義」にしばられた思考をしてしまっている。
季節のうつろいは、そんな「労働」がはじまる前から、日本列島の住民とともにあったのだ。
折口氏も内田氏も、「労働」によって人間の根源とか人間性の基礎を語ろうなんて、くだらないんだよ。すくなくとも「根源」という部分においては、そんなことはどうでもいいんだよ。
「労働」なんか、関係ない。純粋に季節のうつろいそのものの中に、日本列島の住民の神に対する感慨が息づいているのだ。
日本列島の住民は、「はじまり」において神と出会うのではなく、「おわり」のカタルシスとして神と出会う。「しいんとする」とは、「カタルシス=浄化作用」なのだ。そういう心の動きなのではないだろうか。
秋は、空の向こうの神がやってくる季節である。空を見上げると、やってきそうな気配を感じる。秋の風を感じて、そのしいんとせつなくなる感慨は、神がやってきそうな気配に対する感慨でもある。
そうして、冬において、「おわり」から「はじまり」へのうつろいがあらわれる。
おわったらすぐはじまる、というものではない。おわりからはじまりへの「うつろい」がある。それがたぶん、日本列島の住民の世界観なのだ。
一年のうちでいちばん大きな祭りの行事が「正月」にあるとすれば、それは、「はじまり」ではなく、「おわり」から「はじまり」にいたる「うつろい」を祝福する行事なのだ。
「はじまり」を祝福するのではなく、「おわりの季節がおわろうとしている気配」とともに「はじまりの気配」を祝福する行事なのだ。
折口氏は「正月は春のはじまりを寿(ことほ)ぐ行事である」といっているが、正月は、冬の真っ最中なのですよ。「はじまり」なんかであるものか。「はじまりの気配」なのだ。
日本列島の住民は、「気配」を祝福する。「神の気配」が、神の存在証明なのだ。神と出会った者など、一人もいない。しかし、誰もが「神の気配」を感じている。
秋は、「神の気配」を感じる季節である。
空の向こうに、神がいる。