内田樹という迷惑・出直しのために

「やめてください」とコメントしてくれた人には感謝しています。このひとことで僕はやめようと決心した。このブログの存在を認知してもらえた、ということですからね。いつも不安だらけで書いている身としては、何か決定的な瞬間だった。
ともあれこれは、自分にとっても大事な問題なので、ひとまず書いておきます。
人間がすすんで何かに「一生懸命」になるのは、人間という制度、すなわち「擬制」の問題であって、単純な「生命」などというものの問題ではないと思う。
われわれは、何かに夢中になっていないと生きていけないようにできている。
それは、金のために汗して働くことだろうと遊びにふけることだろうと、どこかで通底している。
人間の文化や文明は、そういうすすんで何かに熱中してゆくという余裕というか、心の隙間をつくってしまう。その隙間を埋めることが、すすんで「一生懸命」になるという行為だ。
そして、「人間という制度=擬制」は、それがあたかも生命のはたらきであるかのように、人びとの心に染み渡らせてしまう。
このことは、イカフライ氏への返信で何度も言ったつもりだが、そういう考え方もある、とは認めてもらえなかった。
僕は、生命のはたらきにとっての「一生懸命」は、そんな単純に賛美すればいいというだけの問題ではないと思っている。
生命のはたらきとは、息苦しくなることであると同時に、息をして息苦しいという生命のはたらきが消えてしまうことでもある。そうやって体がさっぱりなくなった心地で、われわれは生きてある状態をよろこぶことができる。生命のはたらきとは、生命のはたらきを消すことだ。一生懸命にならないですむ状態になるために、しょうがなく一生懸命になる。
だから生き物は、一生懸命になりたがらない。一生懸命にならないですむ状態こそ、いちばんいい状態なんだもの。
そして、人間以外の生き物は、一生懸命になりたがらないから、死を怖がらない。
すすんで一生懸命になりたがる人ほど、死を怖がる。「一生懸命」は、そういう問題でもあるのですよ。
一生懸命に口説く男ほどもてない、という場合も多い。
一生懸命の醜さ、という側面はたしかにある。
一生懸命着飾るより、こんなものただのユニフォームだという気分で着こなすのがほんとのおしゃれだろう。
一生懸命死を怖がって暴れまわることは、美しいことか。あなたは、このことに敬意を表するのか。
「生命」というものを考えるなら、ぼおっとして生きていきたいと願うことを否定できない。生き物はしょうがなく一生懸命になるが、人間は、みずから進んで一生懸命になる。それが、文明や文化からつくり出される「制度=擬制」である。
一生懸命になれないニートやホームレスは、つまり、だめなニートやホームレスほど、それだけ「生命の働き」に忠実というか敏感なのかもしれない。
僕は、一生懸命になれないことを否定しない。だから、子育てをしながら一生懸命研究した内田氏の態度に敬意も表さない。なんでそんなことがえらいのか。
他者に敬意を表するとは、他者と向き合う、ということだ。それだけのことさ。僕は、誰よりも真剣に内田氏と向き合っている、という思いがないわけではない。背中から闇討ちするような批判などたかがしれている。
ぼおっとして生きていたっていいじゃないか、と思う。
とはいえ、「すすんで一生懸命になることは生命観の問題だ」といわれると、怖い。そういわれてしまえば、僕はもう絶句するしかない。それが社会の正義だし、社会の底から浮かび上がろうとする人たちのよりどころでもある。社会でのさばっている傲慢な人間も、浮かび上がろうとする弱い立場の人たちも、そして無垢で清らかな人もそう信じている。
たぶん内田氏もそう思っていることでしょう。
そんなものはただの「制度=擬制」だなんて、僕のようにすねてひねこびた人間の考えることだ。
だから、この勝負、僕の負けです。
「一生懸命は生命観の問題」だといわれれば、そんなことあるものかと思うけれど、やっぱり僕はひるんでしまう。
けっきょくイカフライ氏も「あっちがわ」の人間だったみたいで、これでよかったのかな。
ひとりぼっちで出直しです。
「一生懸命じゃなくてもいいんだよ」という言葉が必要なときは、きっと誰にだってある。
まあ、皆さんで「一生懸命」を賛美してください。隅からそっと眺めさせていただきます。