内田樹という迷惑・雑感

なんだかちょっと腹が立ってきました。
僕は、今でも杉山巡氏を敬愛している。
それが、ごみにたかるハエだというのなら、ハエでけっこう。
僕なんか、しょせんそのていどの存在ですよ。
誰もがおまえはたくさん本を読んでいると評価しておきながら、いいえなんにも読んでいませんといったとたん、上から人を見下ろすような態度でいってきたり、悲しい開き直りだといってきたりする。
だから言ったじゃないか、本を読んでいることがそんなにえらいことなのか、と。
本を読むという格闘をしていない、だって?
本を読むくらいのことが格闘なのか。
本を読んで、そこからそれらしいレポートを書くことなんか簡単なことさ。ばかでもできる。他人のアイデアを拝借するだけのことじゃないか。
読まないで書こうとするなら、自分のアイデアだけがたよりになる。そのために僕が、どれだけ身をもむような思考と想像力を自分に課しているか、あなたたちにわかってたまるものか。
僕のレポートは、本を読んで他人のアイデアを拝借して書いているのではない。身をもんで自分のアイデアをしぼり出した結果だ。
開き直ってなんかいない。
腹の底から、本を読んでいることなんかどうということもないと思っている。
世の中に、たくさん本を読んでいる人間なんかいくらでもいる。
でも、僕のアイデアは、僕の頭の中にしかない。それをしぼり出したいのだ。本を読んだら、邪魔になる。その代わり、身をもむことくらいは支払う。それだけのことさ。
僕が、「親族の構造とは三角関係のアラベスクである」といったとき、そこには僕のこのみすぼらしい人生と人格がいっぱい詰まっている。ただ漫然とひらめいたわけじゃない。
僕が折口信夫のまれびと論批判を600枚書いたとき、ほんとうに、山姥さんから聞きかじったことと自分のアイデアだけがたよりだった。その代わり、山姥さんを信じるということだけは、まったく迷いがなかった。迷ったら、書けなかった。そして、中沢新一氏や小松和彦氏にはない僕だけのアイデアをこめていった。客観的に判断して、僕だけのアイデアがつまっているかどうかはわからない。しかし、こめた、という自信はある。山姥さんの評価だけが、気がかりだった。そして彼女は、折口信夫を「好敵手」として書いている、といってくれた。それで、じゅうぶんだった。
僕が「本なんか読んでいない」といったのは、自分の怠惰や無知に開き直るためなんかじゃない。僕よりももっと読んでいなくても、表現せずにいられないことがあるなら誰だって書ける、と言いたかったからだ。
読んだから書けるというような、そんなお気らくなことは書いていないつもりだ。
いや、もしかしたら僕は、けっこうたくさん読んでいて、読んでいないふりをしているだけかもしれませんよ。
それは誰にもわからないことだし、どうでもいいことだ。
何が「本を読むことの格闘」だ。そんな知識オタクは、世間に掃いて捨てるほどいる。
もう、誰も読んでくれなくてもいい。すくなくとも、本を読んでいないというだけで人を見下すような俗物に読んでもらいたいとは思わない。
イカフライさんは、どうしてそんなにも自分のえらさを吹聴したいのか。その俗っぽさにはかなわない。
イカフライさん、僕は、「おまえに教えてやるぞ」という態度は一度もとらなかったぞ。「親鸞坊主」じゃないからね。
僕なんか、ただの「ごみにたかるハエ」さ。
僕は、ただの無用の人間だ。無用の人間として、これからも発信してゆく。どこかに微笑んでくれる人がいることを信じて。
開き直っているのではない。無用になることが大切だと思っているからだ。