内田樹という迷惑・なんだかなあ、という話

イカフライ氏が、僕の最後の返信を読んでくれたのかどうか不安だから、あえてここにものせておきます。
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僕は、人間が「情熱を傾ける」ことを、どうでもいいことだと思っている。
それでも人は、何かに情熱を傾けてしまう。どうでもいいことなのに、情熱を傾けてしまう。人間は、ほかの動物と違って、生きることに余裕がありますからね。そういうことのできる文明と文化を持っている。
じゃあ、一生病院のベッドでただ息を吸っているだけで人生が終わってしまうひとは、軽い存在なのですか。
何の義理があって、僕が「情熱を傾けること」に敬意を払わなければならないのですか。なんにもしないでぼおっと生きたっていいじゃないですか。
「情熱を傾けること」が人間なのではない。「人間であること」が人間であることさ。
僕は、目が曇っていますよ。というより、この世界のことなんかなんにもわかっていないですよ。
「余裕」なんかないですよ。生きるのに精一杯だ。
「余裕」を持って眺めたら、世界のことがわかるのですか。僕は、そんな態度で世界を眺めている人から「世界」のことを聞こうとも思わない。地の底にはいつくばって僕よりももっと「余裕」のない人から聞きたい。
人間は、何かに情熱を傾けてしまうようにできている。別に内田氏だけの専売特許じゃない。
病院のベッドで寝たきりの人は、息をすることに情熱を傾けている。
子供は、道端の蟻の行列を眺めることに情熱を傾けている。
スケコマシは、必死で彼女のおまんこを舐めまくっているさ。
みんな情熱を傾けているさ。
どうでもいいことなのにさ。
みんな何かに情熱をかけないと生きていけないような生かされ方をしているのじゃないですか。
それは、切ないことだけど、重要なことだとは思っていない。
どうでもいいことさ。
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なんだか知らないけど、僕がたくさんの本を読んでいるように思っている人たちがいるみたいだから、ここで断っておきます。
僕よりもイカフライ氏のほうが、ずっとたくさんの本を読んでいる。しかし、たくさん読んでいればえらいというものでも、よくわかっているというものでもないでしょう。
僕は、このみすぼらしい自分の人生と人格だけをカードにして書いている、と断ったはずです。
それでも、内田氏の言うことなんか、くだらないと思う。そうじゃないだろう、こうだろう、ということがいっぱい浮かんでくる。それだけのことです。
レヴィナスの本なんか、一冊も読んでいない。それでも、あちこちで出会う引用文を読めば、ああだいたいこんなものかというイメージは抱く。そしてたくさん読み漁った人が僕よりもわかっているなんて、ぜんぜん思わない。もちろん自分のほうがわかっているとも思わないが。
まあ、とりあえずそのつど出会う引用文に反応して書いているだけです。
僕は、折口信夫の「まれびと論」に対する反論を、このブログで600枚くらい書いたが、折口信夫の著書をあれこれ読み漁ったのではない。読んだのは、「国文学の発生―まれびとの意義」という百数十枚の論稿だけです。
そして、僕の「やまとことば」に対する知識は、このブログのコメント欄で「山姥」さんから教えてもらったものだけです。やまとことばに関する本なんか、なあんも読んでいない。山姥さんに対する信頼だけで掘り進んでいっただけです。
それでも僕の「まれびと」というやまとことばに対する解釈が、折口信夫よりも劣っているとは思わないし、ましてや中沢新一氏とか小松和彦氏のちゃちな言説よりラディカル(本質的)ではないともさらさら思っていない。文句があるなら、誰でもかかってこいよ、と思っている。
僕は、知識でこのブログを書いているんじゃない。
あれこれ本を読み漁ったことが、何ほどのことか。
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今となっては、このブログでのイカフライ氏と杉山巡氏の応酬なんかどうでもいいことだと思うのだけれだ、いちおう断っておきます。
どうでもいいことだから、態度表明もくそもないのだけれど、どうでもいいことだと思っていない人もおられるようだから、いちおう断っておきます。
杉山巡氏は、「愚樵空論」の樵さんとは、たぶん別の人物です。横浜市でガードマンをやっておられる方で、樵さんよりももっとやくざな一匹狼です。彼のブログにおける、季節の移ろいを感じながらみずからの孤独と和解してゆこうとする態度を、僕は尊敬していました。
でも、あのあと、ブログで論争をして勝った、というようなことを言っておられた。
そんなふうになってしまうのかねえ、と、そこのところはちょっと忸怩たるものがあります。あんなもの、論争といえるほどの応酬ではなかったし、第三者から見れば、杉山氏の言うことがイカフライ氏を凌駕したという内容など何もない。
また、イカフライが自爆した、とよろこんでいる人もいるみたいで、それもくだらない。
ただ、杉山氏の「やくざな傲慢さ」と、イカフライ氏の「ひたむきな純潔」が浮かび上がっただけです。
それだけのことさ。
僕は、杉山氏の「やくざな傲慢さ」を尊敬していた。すべては「無」だ、という態度の人かな、と思っていた。そういう意味の「やくざな傲慢さ」です。
でも、自分が「勝った」だの「論争した」だのと言い出したら、それはただの強がりか鈍感さになってしまう。そういう意味の「やくざな傲慢さ」だったら、くだらない。
そこのところがね、ちょっとやりきれない。イカフライ氏が妙な「もろさ」をさらけ出してしまったとしたら、杉山さん、あなただって妙な「自意識過剰」をさらけ出してしまったのですよ。
あのあと、マルティン・ブーバーに教えられたとか、そんなことを書いて自分の教養をひけらかし、自分の謙虚さを見せようなんて、読まされるほうはなんだかしらけてしまう。それで、内田樹批判なんかもうつまらない、ですか。そんな、冬から夏がいっぺんに来たようなことを、季節のうつろいを大切にするあなたが言っていいのですか。
僕は、マルクスだろうとニーチェだろうとレヴィナスだろうと、考える材料にはなると思っているが、そしてすごい人たちだとは思っているが、べつに教えられるというほどではない。自分のすでに知っていることを確認させられるだけのことだ。
誰も、知っている以上のことを知ることはできない。どんなえらい哲学者の言うことも、人間なら誰もがすでに知っていることにすぎない。
その「すでに知っていること」を言葉として取り出すことが、むずかしい。誰にでもできることじゃない。それだけのことさ。
たくさん本を読めば、言葉は増えるが、人間として上等になるわけではない。レヴィ=ストロースだろうと内田樹だろうと、われわれより上等なわけではない。われわれと同じただの人間さ。
マルティン・ブーバーを知っていることが、近くのコンビニのケイコちゃんを知っていること以上の知識だとは、僕はぜんぜん思わない。マルティン・ブーバーの知っていることなど、ケイコちゃんだって知っているのだ。言葉にできないだけで。
言い換えれば、マルティン・ブーバーレヴィナスを読んで「はじめて知った」ということじたいが、その人の無知を晒してしまっている。「はじめて知る」などということが、この世にあるものか。
すくなくとも「人間とは何か」ということに関して、われわれは、知らないものを知ることなんかできないのだ。「すでに知っている」ことに気づくことができるだけだ。
そして内田さん、われわれがすでに知っている「人間性の基礎」は、あなたのいうようなことではない。あなたが知識をこねくってでっち上げてくるそんないやらしい事柄ではない。
まったく、どうして内田氏の研究者としての知識ごときに敬意を払わなければならないのか、僕にはさっぱりわからない。
僕は、マルティン・ブーバーレヴィナスを研究することより、「ケイコちゃん」の研究がしたい。
杉山さん、「論争に勝った」だなんて、そりゃああんまりだ。そんなちゃちなせりふは聞きたくなかった。どうしてもそれを言いたいのなら、もっとたくさんの言葉と時間を費やして、イカフライ氏と何度も応酬して見せてくれるべきだ。それではじめて、決着がつくのだ。子供が「おまえのかあちゃん、でべそ」と言っているのとはわけが違うでしょう。
あなたのブログはすてきだし、尊敬もしているからこそ、そういいたいのです。
僕が空しく内田氏に反論しつづけている行為を、あなたはコケにしてくれた。そんな一回きりの瞬間的な応酬で「論争」だの「勝った」だのという結果をあなたが得たというのなら、ぼくのこの行為はいったいなんなのですか。無力でレベルの低い者の、ただの空騒ぎですか。いや、たしかにそうなのだけれど、それでもやっぱりやりきれなさは募ります。