内田樹という迷惑・いろんな人がいるものだ

世の中にはいろんな人がいるものだ。
まともな反論もしないで、ただ他人をからかったり傷つけたりするだけのことを、芸だとか才能だとか知性だとか教養だと思っている人たちがいる。
しかし、それはたぶん、みんなすでに何かに傷ついてしまっているからだろう。
生きることそれ自体にか、何か具体的なはっきりした事柄があるのか、それはわからない。
僕だって、内田氏の著書を読んで、ものすごく傷ついた。読んだあと何日か落ち込んでしまった、と言った人がいたが、僕だってものすごく落ち込んだ。
内田氏に、世の中はそういうふうにできているんだぞ、といわれれば、そういうふうにできている世の中をおそろしいとも気味悪いとも思う。
そして、たとえ世の中がそういうふうにできていても、根源的な人間のかたちというのはそういうものじゃないだろう、と言いたくなってしまう。たとえ世の中はそうだとしても、僕の中で内田氏とは違う人間のかたちが浮かび上がってくる。
僕と内田氏とでは、根源的な人間のかたちのとらえ方が、まるで違う。そこのところを問いたかったし、はっきりさせたかった。
そりゃあこの文面を、内田氏とは関係なく、私はこのように考える、とだけいえば、なんだか「孤高の人」っぽくてもったいがつくし、なんだか深いことを言っているような体裁になったりもする。
しかし、べつに「孤高の人」のようにふるまおうとする趣味もないし、そういう人をえらいとも思わない。そのようにふるまって自分を正当化してゆくことは、なんだか嘘っぽい。
僕には、人間の根源的なかたちはこうなっている、というあらかじめ用意されたイメージなどない。人間のことなど、よくわからない。
でも、内田氏に対して「そんなことあるものか」と言ってしまえば、見えてくるかたちがある。そこのところを書きたかった。
まず違和感がおきて、「そんなことあるものか」と言ってしまうこと、それが、今の僕がものを考えることの手続きになっている。
僕は、内田氏から遠く離れたところに人間のかたちを見てしまう。内田氏とは関係なくあらかじめ何かを知っているのではない。「そんなことあるものか」と言ってしまえば、何かに気づく。だから、内田批判というスタンスをとってきた。
僕の場合は、たぶんいつもそうだ。あらかじめ知っている何かがあるのではない。「そんなことあるものか」と思って、初めて何かに気づかされる。
「直立二足歩行の起源」に関してなら、世界中の学者に対して、「そんなことあるものか」「おまえらみんなあほだ」と思ってしまう。
たぶん、いつだってそんなふうにして考えてきた。そんなふうにしか考えられない。
そんなふうにして僕は、内田氏と「対話(ダイアローグ)」をしているのかもしれない。
内田氏だけじゃない。コメントを寄せてくれる人がいれば、自分なりに返信する。「対話」をすれば、何かに気づかされる。
しかし、僕はあらかじめの自分を持っていないから、すぐにはうまく答えられない。ひとことでは答えられない。そこのところで、どういう態度をとればいいのか、いつもとまどってしまう。僕の言うことに反発する人やばかにする人を拒否するつもりはない。そういう人とも「対話」ができれば、と思っている。
人をけなすことはよくないことだ、といって人をけなす・・・・・・そんなのただの袋小路というか自己矛盾じゃないですか。だったらもう、けなすことそれ自体を肯定するしかない。そういうことを、内田氏は、「愛」の思想家を気取るばかりで何もわかっていない。
この世に、よくないことなど何もない。よくない、といいたがるくだらない思想があるだけだ。
けなすことにも、一片の真実はある。
たぶん、「対話」の中からしか何も生まれてこない。
内田氏をけなしている、といわれればそうかもしれない。しかし「そんなことあるものか」という「何か」も書いている。言いたいことは、その「何か」なのだ。
けなすだけで終わってしまっているとすれば、僕の負けだ。
僕は僕なりに、けんめいに内田氏と「対話」を続けている。あらかじめの知識も考えもないから、内田氏のように「独白(モノローグ)」を書きとばせるような芸はない。