やまとことばという日本語・「うつしみ」

「うつしみ」は、気になることばです。
ここにも、「しみ」ということばがついている。
もともとは「うつそみ」といったのだ、という説がある。
「現臣」と書いて「うつそみ」と読む。「うつす(し)おみ=うつそみ」、つまり文書を書き写すお役人(=臣)のこと。万葉集のころは、文字をきちんと書けることが、いちばんの出世の道であった。
「現臣(うつそみ)」は当時のエリートだった。「うつそみ」ということばにはクオリティがあった。だから、いつのまにか「うつしみ」のことも「うつそみ」というようになっていったのかもしれない。
「うつそみ」とは、「お上(権力)」あるいは「世間のしきたり」のこと。そこから「憂き世」というニュアンスになってゆき、やがて「空蝉(うつせみ)」という命のはかなさをあらわす言い方にもなっていった。
いずれにせよ、「うつそみ」が語源になることばであったとは考えられない。
「うつしみの」は、「常」とか「世」とか「命」にかかるまくらことばらしい。
だったらそれは、もっと昔の神に捧げる祝詞(のりと)のことばであった可能性がある。そして、「常」にかかるのなら、「はかない」という意味ではないはずだ。
神に対して「はかない」ということばを捧げることはない。
一般的には「現身(うつし・み)」と書かれるが、これでは神に捧げることばにはならない。人間自身のことをいっているにすぎない。
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おそらく、神に捧げることばだったのだ。
「うつ・しみ」だったのだろう。やまとことばには、動詞をふたつ並べた単語が無数にある。「泣き濡れる」とか「うち捨てる」とか「見捨てる」とか「かき鳴らす」とか「すすり泣く」とか「走り去る」とか「飛び散る」とか「持ち運ぶ」とか「聞きかじる」とか……もうきりがない。
「うつ」と「しむ」というふたつの動詞を重ねて「うつしむ」、その体言が「うつしみ」。
「うつ」は、「杭を打(う)つ」の「うつ」。「うつむく」の「うつ」
「う」と発声するとき、息がまっすぐ腹まで降りてゆくような心地がする。
「つ」は「津」。「港・船着場」のこと。「接続」「連続」の語義。「着(つ)く」「つなぐ」の「つ」。
「うつ」は、上から下に降りていって下に着く動きのこと。沈んでゆくこと。打ち下ろすこと。
「うつしみ」の「うつ」は、神あるいは神の気が天から降りてくること。
「しみ」の「し」は「静か」、「み」は「やわらかい」、静かにやわらかく「しみてくる」こと、あるいは「沈殿」すること。
「うつしみ」とは、神の気が地上に降りてしみわたること。あるいは、神のありがたさが心にしみこむこと。神を深く感じること。まあ、そんなようなことでしょう。もともとはそういう意味だったから、「常」とか「世」のまくらことばになったのだろう。
ただ、この場合の「常」は、「永遠」という意味ではない。日本列島の古代人には、「永遠」という概念はなかった。行き止まりの「はて」というイメージがあっただけだ。だから、「はて」のむこうである死後の黄泉(よみ)の国は何もないところだと思っていた。神は、この世界の「果て」に存在する、と思っていた。
古代人は、荒木氏のいうような「恒常不変の原理」などという概念は持っていなかった。それは、共同体(国家)の成立とともに、民衆のところに降りてきたのだ。
「もの」は、やまとことばのもっとも基本的なことばであり、したがってそれは、「恒常不変の原理」などという概念を持たない共同体の成立以前の時代に生まれてきたことばであるはずです。
「常」とは、「いつも」という意味。「いつも」は、今ここに対する感慨からこぼれ出ることばです。そこには、「恒常不変」などという未来に対するパースペクティブは含まれていない。
古代人は、日本列島にはいつも神の気がしみていると思っていた。それが「うつしみ」ということばのほんらいの語義。
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日本列島の古代人には、荒木博之氏が「もの」という言葉の本質として説くような「恒常不変の原理」などという概念はなかったのです。
このことは、われわれがどうしても言いたいことです。人は、しらずしらず共同体の制度の基盤であるそんな概念にしてやられて、精神を病んでゆくのだ。そんなものに取り込まれて、死が怖くなってゆくのだ。
万葉集は、そんな概念など持たない古代人が、ようやく成熟し始めた共同体から降りてくるそんな概念から解き放たれるカタルシスを歌っている。われわれが万葉集と出会う希望は、そこにこそある。
「もの」とは「恒常不変の原理」である、だなんて、愚劣すぎます。
ともあれ、31の文字で構成されている和歌は、たった一つのことばの解釈の違いで、全体の情趣が大きく変わってしまう。
「もの」とは「恒常不変の原理」である、などというグロテスクな解釈で万葉集を読んでいたら、すべての歌が下品になってしまう。
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「うつしみ」ということばのもともとのかたちは、天から降りてくる神の気を表している。それが、万葉集のころになってくると、共同体から強迫してくるものと神からの贈りものとの両方が意味されるようになり、そこに、万葉人の「嘆き」と「カタルシス」があった。
折口信夫は、万葉集にあらわれるそのことばを、「うつそみ」と訳している。彼は才能豊かな歌人でもあったが、研究者としてどこまで万葉歌人の心に推参できたかは、疑問が残る。
 うつそみの常のことばと思へども 続ぎてし聞けば心はなぎぬ
折口氏のこの訳に対して、一般的には次のように訳されている。
 現身の常の辞と思へども つぎてし聞けば心惑ひぬ
 (うつしみのつねのことばとおもへども つぎてしきけばこころまどひぬ)
「うつそみ」と「うつしみ」の違いはともかくとして、「なぎぬ」と「惑ひぬ」とでは、歌の情趣が正反対になってしまう。
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折口氏の訳をそのまま受けとめれば、次のような意味になる。
「お役人(お上)がよく言うせりふだと思っても、いつも聞かされていればそのうち気持ちが和んでくる」
なんだかよくわからない。庶民のそういう愚かさや無力さを嘆いているのだろうか。
百歩譲って「うつそみ」を「つらい(はかない)憂き世」という意味に解釈したとしても、いつも聞かされているうちにだんだん気持ちが和んでくることばとは、いったいどんなことばだろう。
僕にはわからない。僕は「座右の銘」ということばが、大嫌いです。どんなありがたいことばでも、いつも聞かされていれば、なんにも感じなくなってしまう。あるいはうんざりしてくる。
僕は「文盲」だから、「座右の銘」などというものはない。
ことばは、一回きりの「出会い」だと思っている。その「出会い」の体験として、われわれはときめいたり傷ついたりしているのだ。
忘れられないすてきなことばはある。しかし、いつも聞かされているうちにだんだん気持ちが和んでくることばって、いったい何なのですか。洗脳されることばのことですか。
「おはよう」ということばがすてきなのは、そのつど一回きりの感慨をともなっているからだ。「一回きり」の朝だから、すがすがしいのだ。一回きりの朝として「あなた」と出会うから、思わず「おはよう」ということばがこぼれ出るのだ。その感慨がなくて、ただの「恒常不変」のことだと思うのなら、朝なんかすがすがしくもなんともない。
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たとえば、
親孝行しなければならないとか、
まじめに働きなさいとか、
そんなもの、共同体から降りてくるただの「呪文」じゃないですか。いつも聞かされていたら、うんざりしてしまう。あるいは洗脳されて、心は麻痺してしまう。
もしかしたら折口氏は、上の歌に対して、こんな解釈をしたのかもしれない。
天皇は神である、ということはあまり科学的ではないが、いつもそのことばを聞かされていれば、天皇の尊さありがたさが胸にしみて心は安らかになってくる」
僕にはよくわからないが、そういう人もいるということです。
そういう「ことば」に対する率直な態度こそ万葉人の心なのだ、と折口氏はいいたいのかもしれない。
しかしそんなものは、率直でもなんでもない。いつも聞かされることばになじんでゆくなんて、「文字」を知った人間のふてぶてしい習性にすぎない。
文字を知らない人間は、言葉を一回きりの「出会い」として体験している。それこそが、古代人の率直な心の動きだったのだ。
そんな彼らが、ありふれたことばを何度も聞かされ続けたら、うんざりしてしまうに決まっている。
文字が使われるようになったために、世の中につまらない常識(=恒常不変の原理)がはびこるようになってきた。
文字が生まれ席巻し始める時代を生きた古代人の「嘆き」と「カタルシス」、それが万葉集に歌われている心の動きであり、おそらくそういう時代体験として上のような歌が生まれてきた。