やまとことばという日本語・万葉集の「もの」

「もの」が、心に重くまとわりついいてくるような身体の「物性」から生まれてきたことばだとすれば、「こと」は、身体が何もない「空間」になってしまったようなすっきりとした感慨から生まれてきたことばです。
それが、「もの」と「こと」の語源にある感慨なのだ、と思う。
われわれは、身体をうっとうしい「もの」だと感じつつ、うっとうしいからこそ、身体が空っぽの「空間」になってゆく「こと」のカタルシスをくみ上げてゆくことができる。
女ほど身体のうっとうしさを知っている生きものもいないし、知っているがゆえに、その身体が消えてゆく「オルガスムス」という深いカタルシスを体験することができる。「もの」と「こと」ということばの根源的な感慨のかたちは、おそらくそこにある。
「まあ、きれいだこと」、といえば、このときの「こと」は、きれいだと感じるカタルシスを指示表出している。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
『やまとことばの人類学』を書いた荒木博之氏は、「もの」が「恒常不変の原理」を表すことばであるのに対して、「こと」は「一回きりの認識体験」から生まれてくる、といっている。
何言ってるんだか。ただのこじつけです。「もの」と「こと」の対比の本質を問いつめることはやまとことば研究のもっとも大きな課題のひとつらしいが、このていどの観念遊戯で「解き明かしてみせたぞ」と大見得切ってもらっては困ります。
やまとことばは、あくまで身体的な、「感慨」を表すところに、その語源の体験がある。
「ものの道理」という。「道理」とは、「恒常不変の原理」という意味です。荒木氏の分析を敷衍すれば、このことばの意味は、「恒常不変の原理の恒常不変の原理」という、なにやらとんちんかんな「もの」になってしまう。「もの=恒常不変の原理」であるのなら、「ものの道理」などという言い方はしない。そうであるのなら、このときの「道理」ということばは、ただの蛇足です。
「恒常不変の原理ということ」というじゃないですか。「恒常不変の原理というもの」というじゃないですか。荒木先生、あなたはこの違いを説明できますか。
前者は「恒常不変の原理があるということ」とか「恒常不変の原理を知るということ」というような、「現象・行為=こと」を含んでいる。それに対して後者の言い方では、「恒常不変の原理そのもの」を指している。
「身体そのもの」のうっとうしさと、身体で起きる「こと」のカタルシス、そういう違いなのだ。
「うっとうしいもの」といい、「うっとうしいこと」という。うっとうしいものそのものにはうんざりだが、うっとうしさを体験することは、それはそれで人生の味わい(カタルシス)のひとつでもある。そういう違いを、やまとことばの国の住民であるわれわれは、無意識のうちに正確に使い分けている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
万葉集の中の大伴旅人の歌です。
 賢しみと もの言ふよりは 酒飲みて 酔泣(ゑひなき)するし まさりたるらし
荒木氏はこれを「賢ぶってものを言うよりは、酒を飲んで酔って泣くことのほうがまさっているようだ」と訳しています。
そしてこう解説してくれています。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(九州の)太宰師であった大伴旅人は、都を遠く離れた地にあって、ただでさえやるせない日々に突然妻を失った、その悲しみを酒に惑溺することによって忘れようとしていたのである。そういった彼にとって、わけしりぶりの人の道、世の常識を説く人間はまことにうとましいものであったに違いない。こうして彼が「賢しみともの言ふ」としてしりぞけた「もの」というものがどのようなものであるか、もはや喋々するまでもないだろう。したがってこの「もの言ふ」を単に sei something といった意にかたづけてしまったのでは、この歌の心にとうてい近づけるものではない。たいていの解釈は、「賢ぶってものを言う」として「もの言ふ」には一顧だにせず通り過ぎてしまっている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
このばあいの「もの」は「人の道・世の常識=恒常不変の原理」であると、なんだか自信まんまんの言いざまだが、われわれは、荒木氏がこの歌を正しく咀嚼しているとは思わない。
荒木氏は、前の句を「賢ぶってものをいう」一般の人に対する批判であるとし、後半で自分のことを歌っている、としている。
そうだろうか。
じつは、最初から最後まで自分の感慨だけを歌っているのではないだろうか。
この歌は、「賢ぶってえらそうなことをいっているやつらより私のほうがずっと率直で心やさしい人間である」と自慢しているのだろうか。古代の万葉人は、そんな自意識過剰のいやらしい人間だったのだろうか。荒木氏は、そうだ、といっているのですよ。こういう解釈をしたがるところに、この人の思考の卑しさが露呈している、と思う。
荒木氏の解釈する通りだったら、万葉集なんかくだらない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
まず「賢(かしこ)」ということばは、安直に今ふうの「かしこい」に解釈してしまっていいのだろうか。
僕の貧しい古文体験では、古代人の使う「賢(かしこ)」が現代の「かしこい」と同じ意味に読めたことは一度もない。
「賢明」とは、何でもよく知っているという意味ではない。最終的な正解を知っている、という意味でしょう。つまり「かしこ」とは、「最後」とか「果て」という意味だったはずです。
だから、手紙の最後に「かしこ」と書く。それは、「どうです、私は賢いでしょう」と自慢しているのではもちろんなく、ただ「これで筆を置きます」という意味のはずです。
「かしこまる」とは、「緊張したあげくに固まってしまう」という「最後」のかたちをあらわしている。
神に対して「かしこみたてまつる」というのは、べつに「私の賢さを捧げます」という意味でも「あなたの賢さをいたただきます」という意味でもない。「たてまつる」ということばに「拝領する」というような意味はない。「捧げる」という意味があるだけです。「立(た)って祭(まつ)る」すなわち「ここに立ってあなたに対するわれわれの最終的な感慨をこめつつお祭り申し上げます」というような気分でしょう。
「かしこ」には「究極」という意味もあったのでしょう。しかし、現代人の使う「かしこい」とはちょっと違う。もっと深い。
「かしこ」の「か」は、「かっとなる」の「か」。すなわち「気づく」こと。「たどり着く」こと。「か」という音韻自体に「最終的な」という感慨が含まれている。
「なんと……であることか」の「か」は、最終的な感慨をあらわしている。
「し」は、「静寂」孤立」の語義。つまり、「遠い」という感慨。
「こ」は、「これ」「ここ」の「こ」。
「かしこ」とは、遠い最終的なところにたどり着くこと。だから、手紙の最後にそういう感慨をこめて「かしこ」と書く。
大和朝廷のある奈良盆地から天皇の祖先を祭る伊勢神宮を目指して歩いてゆくと、最終的にはその果ての「賢島(かしこじま)」という英虞湾に面した土地に着く。この地名は、古代からあったはずです。そして「しま」といっても、海に浮かんだ島ではない。聖地と海の「ま=間」にある、さいはてのひっそりとした場所だったからだ。
このあたりの「志摩(しま)」という呼び名も、「聖地と海の間(ま)にあるさいはての里」というような意味あいから生まれてきたのだろう。「島」だったからではない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
古代人は、「かしこ」ということばを「聡明」という意味には使っていなかった。それは「最終的な」という意味だった。
とすれば、この歌の「賢(かしこ)」ということばは、次のように解釈することができます。
妻をなくした私の最終的な感慨、と。
そして「しみ」という言葉は、かならずしも「……ぶって」という意味に固定されているのではない。もしかしたら現代の学者が勝手にそう解釈しているだけで、古代人は「しみ」という言葉をそんなふうには使っていなかったかもしれない。
「しみる」の「しみ」。「しむ」の体言。
「し」は、もちろん「孤独」「静寂」の語義。
「む」は、息が詰まるような発声です。「終結」「停滞」の語義。
「しむ」は、「しみる」こと、あるいは「沈殿」してゆくこと。そこから、「深く感じ入る」という意味に使われることが多かった。
「かなしむ」とか「いつくしむ」とか「たのしむ」とか「したしむ」とか、すべて、ある感慨が心にしみてくることです。
それに対して「賢ぶって」という態度は、「深く感じ入ること」を捨てて、別の自分になってしまうことです。そういうことをいいたいのなら「賢げに」とか「さかしらに」とか、ほかにいくらでも言い方はあったはずです。荒木氏のいう通りならただの他人批判のことばなのだから、わざわざ字余りになってまで「しみ」という必要もないでしょう。
「かしこしみと」……これは六文字だから、字余りです。それでも大伴旅人は、「しみ」といいたかった。
そして「しみ」のあとに「と」といっているのだから、「かしこしみ」でひとつの完結した状態(あるいは感慨)の表現になっているはずです。「賢ぶって」という意味なら、「と」はいらない。「賢しみもの言ふ」といえばいいだけです。
やまとことばの解釈に「てにをは」は大切だよ、と本居宣長もいっている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「かしこしみ」とは、最終的な結論を悟ること。
つまりこの歌は、死んだ妻のことはもう忘れたと強がりをいっているよりは、酒を飲んで妻をしのびながら思い切り泣いてしまったほうがまだ気持ちはいやされるようだ……と告白しているのではないでしょうか。
したがってこの場合の「もの言ふ」は、「強がりをいう」、ということになります。
妻のことはもう忘れた、あるいは人生はそういうものだと悟る、そういう「人の道・世の常識=恒常不変の原理」を「もの」というのではない。この場合の「もの」は、そういう「人の道・世の常識=恒常不変の原理」に執着してしまうこと、まとわりつかれてしまうことであり、その、「執着し、まとわりつかれている心の状態」を「もの」というのだ。そういう状態で何かをいうことのむなしさよりは、酔って思いきり泣いてしまったほうがいい……。
このとき大伴旅人は、そういう「人の道・世の常識」をうっとうしがっているのではのではない。そういう「人の道・世の常識」にまとわりついてしまう(あるいはまとわりつかれてしまう)自分の心の動きを持て余しているのであって、「人の道・世の常識」という世間の「他人」を批判しているのではない。
万葉集の味わい深いところは、「恒常不変の原理」などというものを意識しないで生きていた人たちの歌だ、というところにある。意識しない人たちが、共同体の成熟とともにしだいに意識させられるようになってゆく、そういう若い時代の「嘆き」と「カタルシス」が歌われていることにあるのだ。
彼らは「自然をのびやかに歌った」などとよく言われるが、その「のびやかさ」の水源は、そういう時代の「嘆き」にあるのだということを忘れるべきではない、と思う。ただ無邪気だったのではない。
文字とは、まさに「恒常不変の原理」です。文字を知らなかった人々がしだいに文字に縛られてゆくようになる。そんな時代を生きる「嘆き」は、いい気になって文字と戯れているわれわれ現代人の嘆きよりずっと深く切ないものがあったに違いない。そこのところを読めないのなら、荒木先生、あなたの解釈だってたいしたことはない。