やまとことばという日本語・「もの」

中国のある村で、葬式のBGMに日本のコミックソングが使われていた、という話があります。
日本人がただ何気なく口ずさんでいるだけの明るく軽快なメロディでも、彼らには「嘆き」のひびきを帯びているように聞こえてしまうらしい。
逆にいえば、日本人の「嘆き」には明るく軽快なひびきがある、ということでしょうか。
彼らの「嘆き」には救いがない。救いがないことを嘆く。
しかし日本列島の住民の「嘆き」には、あるカタルシスがともなっている。だから、明るく軽快な響きを持っている。われわれにっとっての「嘆き」は、明るく透明なものだ。
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スピッツ」というロックグループの曲は、ほとんどが明るく軽快なテンポのものだが、そのメロディは、つねに「嘆き」のひびきを帯びている。歌詞にも、そういう傾向がある。彼らは、生きてあることを嘆いている。嘆きつつ、生きてあることを肯定し、祝福してゆく。彼らは、救いのない失恋の歌なんか歌わない。生きてあることを嘆きつつ、ひたすら「あなた」と出会ったことのよろこびを歌う。そのようにしてメロディーは、いつも嘆いている。明るく透明に嘆いている。
グループのソングライターである草野正宗という人は、日本列島の住民がどうしても愛着してしまうようなことばやメロディのタッチを知っているらしい。一度聞いたら忘れないというのではなく、何度か聞いているうちにじわじわ胸に染みてくる。
また、リードギタリストがつくり出す音のひびきが、ソングライターのそういうセンスを絶妙に掬い上げている。
リードギターが奏でるフレーズがあってこそのスピッツだともいえる。リードギタリストの音に対するセンスが「ロビンソン」を大ヒット曲にしたのかもしれない、とも思う。どんな名曲でもキャッチーな音のフレーズがないとヒット曲にならない、ということはよくあることで、アレンジを変えたとたんにヒットしたりする。彼もまた、マサムネ君と同様、「嘆き」からカタルシスを掬い上げてゆく音に対するセンスを持っている。
日本列島の住民が奏でる音は、どんなに明るくても「嘆き」のひびきを帯びている。
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「嘆き」は、日本列島の古代人の暮らしの基調音だった。
そういう嘆きから「もの」ということばが生まれてきた。
身体に対するうっとうしさ、「もの」ということばは、そこから生まれてきた。
痛いとか痒いとか、暑いとか寒いとか、腹が減ったとか息苦しいとか、そういう身体の「物性」を感じることのうっとうしさから、「もの」ということばが生まれてきた。
「もの」という音声には、重苦しいひびきがある。だから、「ものものしい」という。
「も」と発声するとき、胸がざわざわする。
「藻(も)」は、水の中でざわざわと揺らめいているもの。カオス。
重いものを「持(も)つ」、という。
「盛(も)る」ことも、ひとつのカオスをつくり出すことだ。
林の中を、風が吹き抜けてゆく。しかし木々がこんもり繁った「森(もり)」の中では、空気はどんよりとこもっていて、「もののけ」が棲んでいそうな気配が立ち込めている。
われわれにとって身体もまた、ひとつのカオスだ。体の中は、なにやらざわざわしている。
そして「の」は、「押さえつける」こと。「乗(の)る」こと、「伸(の)す」こと。
「野(の)」は、山の「斜面」のこと。物が転がり落ちてゆくことは、押さえつける動きでもある。大きな岩や丸太が転がり落ち滑り落ちてゆけば、そのあとの草はなぎ倒されて平べったくなってしまっている。それは、しわくちゃの紙を手で抑えて平らに伸ばしてゆく動きに似ている。
水を飲むことは、食道という斜面を水が滑り落ちてゆくこと。「喉(のど)」は、その斜面の入り口の「戸(と)」のこと。
「糊(のり)」は、「乗る」という動詞からきている。海藻の「海苔(のり)」も、岩にくっついているからだ。
「の」という発声には、息が逆戻りして胸にまとわりついてくるような心地がともなう。
「もの」ということばは、何かがまとわりついてきて胸の中がざわざわするような心地から生まれてきた。
それは、身体のことだ。身体は、心に重苦しくまとわりついている。その感慨から、「もの」ということばが生まれてきた。
そういう身体を抱えて生きてあることの「嘆き」こそ、古代人の暮らしの基調音だった。彼らは、その「嘆き」を、ことばとともにカタルシスに変えていった。そういう機能として、やまとことばが育っていった。
やまとことばが身体的であるということは、そういうことなのだ。
われわれは、この世界の「物性」を嘆きつつ存在している。その嘆きから「もの」という音声がこぼれ出る。
生きてあることの根源的な嘆きは、この世界の物性に対する嘆きとしてある。この嘆きからは、誰も逃れられない。幸せだからといっても、逃れられない。世界のなぞが解けたからといっても、逃れられない。
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「もの」は、とても身体的なことばなのです。
なのに『やまとことばの人類学』を書いた荒木博之氏は、「もの」とはこの世界の「恒常不変の原理」をさすことばである、という。
お願いだから、語源を語るのにそういう持って回った観念的な言い方をするのやめてくれよ、という話です。
「恒常不変の原理」などという概念は、近代合理主義が科学というものを止揚してゆくところから発想されているのであって、古代人にはそんな世界観はなかった。彼らは、「いまここ」に対する反応としてことばを紡いでいったのであって、世界はつねに変転してゆく、世界は今ここにおいて生起し消えてゆく、という感慨があっただけです。
「恒常不変の原理」を押し付けてくるのは、共同体です。そういうことに逆らえない気持ちから「定(さだ)め」ということばが生まれ、「もの」ということばが生まれてきた、と荒木氏は言っているわけです。つまり、未開の古代人は共同体に飼い馴らされていた、という発想ですね。文化人類学者のお決まりの思考パターンです。
やまとことばは、共同体との関係から育ってきたのではない。やまとことばが身体的であるということは、そういうことを意味しているのだ。
古代人は「恒常不変の原理」という概念を持っていなかった。だから、共同体を持たない縄文時代が8千年も続いた。彼らは「恒常不変の原理」という概念を持っていなかったが、たぶんすでに「もの」ということばを持っていた。
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日本人は、この世界(自然)の「恒常不変の原理」に従順だから、共同体の制度にも従順なのだ、と荒木氏はいう。
そうじゃないのですよね。われわれはただ、共同体を運営するという面倒なことはもう「お上」にお任せしているだけであり、それは、共同体の運営に対する関心や意欲が薄い、ということを意味する。
だから、日本人には「公共心」がない、といわれてしまう。
鎖国時代の長崎の人に、あるオランダ人が聞いた。もしもオランダ以外の見知らぬ国の船がこの港に入ってきたら、あなたたちはどうする?と。
長崎の人は、さあ?と首をかしげた。
そこでオランダ人は、あなたたちはそういうことを考えたことがないのか?とたたみかけた。
すると長崎の人は、そんなことはお上の考えることで、われわれの心配することではない、と答えた。
こののうてんきさが、われわれの「共同体=恒常不変の原理」に対する正直な心の動きなのだ。
日本人は、共同体の運営に対する関心や意欲が薄いから、「お上」にお任せしないと共同体が成り立ってゆかない。そして共同体の運営に対する関心や意欲が薄いということは、「恒常不変の原理」に対する関心も薄いということを意味する。したがって、そんなところから「もの」ということばが生まれてくるはずがない。
だったら「もののけ」は、「恒常不変の原理」が化けてかたちになったものなのか。そうじゃない。「うっとうしくまとわりついてくる」化け物だから「もののけ」というのでしょう。
「ものぐるい」とは、「恒常不変の原理」を見失って狂うことか。そんな解釈は、ただのこじつけだ。うっとうしい気持ちがまとわりついて頭がおかしくなることを「ものぐるい」というのでしょう。生理中の女は、よく「ものぐるい」になる。
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身体の「物性」に対するうっとうしさから「もの」ということばが生まれてきた。
「ものになる」とか「大物になる」という。このときの「もの」は、「存在感=物性」の強さのことをいう。「大物」といっても、えらい人だけじゃなく、大泥棒でも、大物は大物です。
「ものがなしい」とは、世界の思うようにならない「恒常不変の原理」に気づいてかなしくなることか。そうじゃない。ただなんとなくかなしみが身にしみてくる(まとわりついてくる)ことをいうのだ。
まとわりついてくるもの、まとわりついてゆくことを、「もの」という。
「だって、女だもの」といえば、女であることが彼女にまとわりついている与件だからだ。べつに女であることを「恒常不変の原理」として納得しているからではない。そんなことをいっていると、「そういうデリケートなニュアンスは、あなたなんぞにはわからない」、と彼女にいわれてしまう。
「だって、さびしかったんだもの」というときの「もの」に、いったいどんな「恒常不変の原理」があるというのか。「さびしさがまとわりついてはなれなかったから」、といっているだけでしょう。
「でがけに急な来客があったものですから」と遅れた言い訳をするときの「もの」を、荒木氏は、「日本人は、そういう客にもちゃんと対応しなければならない、という<不文律=恒常不変の原理>を持っているから」という。すごいこじつけです。ただ「まとわりつかれた」というニュアンスがこめられているだけでしょう。そういう「気分」を表現しているところに、このときの「もの」といういい方の味わいがあるのだ。
「物申す」といえば、異議をとなえてまとわりついてゆくこと。荒木氏のいう「恒常不変の原理を主張する」というような狭い意味ではない。人間は、あなたのようにいつも「恒常不変の原理」を背負って生きているのではない。「物申す」ということばがそういう意味なら、われわれはもう「物申す」ことなんかできなくなってしまう。
ましてや古代人にとっては、「恒常不変の原理」なんかどうでもよかった。彼らにとって世界は、つねに変転してゆくものだった。「恒常普遍の原理」に気づいてゆくところからやまと言葉が生まれてきたのではない。変転してゆくさまに気づいてゆく、そういう心の動きからやまとことばは生まれてきたのだ。
「ものわかりがいい」とは、他人の不平不満に寛容であるということであり、この場合の「もの」は、不平不満のことをいう。「恒常不変の原理」を知っている、ということではない。まあ、無理やりこじつければ、そういう解釈も成り立つのかもしれないが。
「ものをいう」とは、相手を押さえつけるのに有効だ、という意味。べつに「恒常不変の原理」だから有効だといっているのではない。有効であるなら、嘘八百でもいいのだ。押さえつけるとは「重苦しくまとわりつく」こと、だから「もの」という。
何もいわないことを、「ものもいわない」という。「ものをいわない」ではない。「ものをいわない」というと、「有効ではない」という意味になってしまう。なぜわざわざ「ものも」というかというと、このばあいの「もの」は、「(お世辞はおろか)嫌味すらも」というような意味だからだ。それくらい何もいわないことを「ものもいわない」という。
「恒常不変の原理」のことを「もの」というのではない。少なくともそれが語源だということはありえない。「恒常不変の原理」もふくめて「重苦しくまとわりつくもの」を「もの」という。そういううっとうしさから、「もの」ということばが生まれてきたのだ。
やまとことばは、「感慨」の表象なのだ。共同体の制度に汚染された現代人や学者たちのへりくつで説明できることばではない。