やまとことばという日本語・耳(みみ)

耳のことを、やまとことばでなぜ「みみ」というのか。
中西進氏の説明は、こうです。
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 視覚、聴覚、触覚など、生き物の感覚機能はたくさんあるが、その第一は視覚です。視覚から得る情報は、感覚器官全体の過半数に達するといいます。私たちは、まず目で見ることからものを認識します。つまり、目で見ることはもっとも基本の動作であり、最後に耳で受容することによって、認識のプロセスが完結するのです。
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「まず目で見ることからものを認識する」から、「目(め)」は植物の最初の段階である「芽(め)」でもあり、「最後に耳で受容する」から、植物の最終段階である「実(み)」と同じ音声になり、耳はふたつあるから「みみ」という、のだそうです。
だったら、目も二つあるから「めめ」というべきです。もっとも、子供に向かって「おめめ」といったりするが、まさかそれが語源のかたちだったわけでもないでしょう。
われわれは、必ずしも目でみることから世界の認識をはじめているわけではない。
目は、見ている対象しか見ることはできない。後ろなんか振り向かなければ見えない。その点耳は、全方向の音を聞き取ることができる。後ろからの音をまず耳で聞いて、それから振り向く、というのはよくあることです。このばあいの認識過程は、中西氏のいうのとは逆で、耳が最初で、目が最後です。
なんだかうさん臭いこじつけです。
認識がどうとかこうとか、そんな頭でっかちの観念遊戯から「め」とか「みみ」という言葉が生まれてきたはずがない。
それに、「み」という音声に「最終段階」という意味があるなら、最初の認識であるはずの「見る」行為が、なぜ最終段階を意味する「み」という音声になっているのですか。この矛盾をどう説明するのだろうか。
この人は、こんな安直でもってまわった語源の解釈で万葉集を読んでいるのだろうか。
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われわれの暮らしの一日の始まりは、眠りから覚めてまず目が開いたところから始まる。だから「目=芽」になるのでしょう。
そして「みみ」の耳たぶは、触るとなんともいえぬやわらかさをしているじゃないですか。それはもう、「みみ」というしかない玄妙な感触だ。だから「みみ」というのでしょう。
「み」という音声には、「やわらかさ」に対する感慨がこめられている。
熟した「実(み)」はやわらかい。だから「み」という。べつに植物の成長の最終段階だからとか、そういうことじゃない。
体の肉も、やわらかいものだ。だから「身(み)」という。
ではなぜ、「見(み)る」ことに「み=やわらかい」という感慨がともなうのかというと、このあたりの心の動きにはちょいとデリケートな問題があるように思えます。
見ることは、物性を認識することではない。たんなる画像としてとらえることです。まずそういうやわらかさの感覚がある。それに、自分と対象とのあいだには、何もない「空間」がある。対象を見るとき、われわれは、この空間も同時に見ている。「見(み)る」ことは、非物性の「やわらかさ」と出会うことです。だから、「みる」という。
見るという行為に「やわらかさ」を感じる率直さは、観念的で頭でっかちの現代人にはない。
耳たぶは、触ればとても気持ちいい柔らかさをしているから、「みみ」という。それだけのことさ。そういう率直な感慨を体験できない観念的な人間が、認識がどうとかこうとかというようなもってまわった思考で納得しようとする。
そういう問題じゃない。語源を問うことは、古代人の生活感覚に推参することだ。
耳たぶがやわらかいから「みみ」というなんて、なんだかみもふたもない心の動きのようだが、それはそれで率直でキュートなセンスだと思いませんか。