やまとことばという日本語・ことばの起源

女は、ものごとをかいつまんで話すのが下手だ。
その代わり、どうでもいいような細部のことでも、じつによくおぼえている。そういう能力が邪魔して、かいつまんで話せないのだろう。
言い換えれば、男の記憶など、かいつまんだかたちでしか残らない、ということだ。
男は、過去を忘れる。そして女は、過去を捨てる。女の過去の記憶にはたくさんの細部が詰まっていて、ときどき整理して余分なものを捨てないと生きてゆけない。あるいは、たくさんの細部を引っ張り出して生きてゆける。
男は、過去を捨てることができない。それが男の未練だ。
女は、過去を忘れることができない。それが女の未練だ。
ともあれ、もう十分に生きた、もうこれでいい、と思えるのは、女のほうだ。
男にはそういうカタルシスがないから、いつまでたっても生きることに未練がましく執着している。
女は、一回のセックスで、もう死んでもいい、と思えるくらいの深いカタルシスを体験することができる。
男がそれと同じだけのカタルシスを得ようとすればもう、人殺しや戦争をするしかない。
欲求不満が、人を戦争や人殺しに走らせる。
人は、生きてあることのカタルシスを必要としている。
カタルシスが得られないところから、戦争や人殺しが起きてくる。
戦争や人殺しをすれば、男だって、もう死んでもいい、と思うことができる。
カタルシスが、人間を生かしている。
もう死んでもいいと思えるくらいのカタルシスがなければ、人は生きてゆけない。
カタルシスを汲み上げてゆくすべを失ったとき人は、戦争や人殺しなどという余計なことがしたくなる。鬱病になる。そうして、、自分を殺したくなってしまう。自分を殺すことは、この生からカタルシスを得るための最後の切り札である。
カタルシスを失うことは、「ことば」を失うことでもある。
ことばのいちばんの機能は、伝達することではなく、カタルシスを得ることにある。
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「あのねえ、こんなことがあったのよ」と女が話しはじめたら、いつ終わるか予想もつかない。
「今帰ったよ」といっても、どこから帰ったのか、そこで何があったのか、誰と出会ったのか、空は晴れていたか、山の柿の実は熟していたか……話したいことはいくらでもある。
「伝達する」という行為は、本質的に、ことばをたくさん必要とするし、ことばの扱い方もいろいろ工夫しなければならない。そして、おたがいが抱いていることばの意味が同じであらねばならない。でないと、ほめているのにけなしているように受け取られるとか、いろいろ誤解が生まれる。
「テーブルの上を片付けておきなさい」といわれても、今すぐなのか、明日までになのか、わからない。全部なのか、よけいなものだけなのか、何がよけいなものなのか、よくわからない。
ことばにおける「伝達する」という機能は、ことばの意味やニュアンスが定着してきてからはじめて成り立つのであって、原初のことばが生まれてくる現場においてはたらいていた機能ではない。
意味を伝達しようとすることは、ことばが生まれた結果とした膨らんできた欲望であって、ことばが生まれてくる「契機」としての衝動ではない。
それは、人間がことばをもったことによって生まれてきた欲望なのだ。
たとえば、「こんなおいしいものを食べたよ」ということを相手に伝えるのは、けっこうややこしいことばの操作を必要とする。
また、その説明を理解するのも、けっしてかんたんではない。
ことばを持たない原始人が、そんな衝動でことばを生み出していったのでしょうか。それは、ことばを持ったことによって生まれてくる欲望なのだ。
そんなややこしいことは、ことばが未熟な乳幼児にはできない。
しかし、その場で同じものを食べて「おいしいね」とうなずき合うことは、ことばが未熟でもできる。
「ああ」といって微笑み合えばいいだけだ。そんな体験が繰り返されていって、「おいしい」ということばが生まれてくる。それは、伝達することばではない。感慨を共有してゆくことばなのだ。
人間が生きてある現場で起きていることは、そういう感慨を共有する体験であって、どう生きればいいかという情報を伝え合うことではない。原始人は、そんなスケベったらしいことを語り合って生きていたのではない。
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カラスは、「ここに食い物がたくさんあるぞ」とか「敵がいるぞ」とかの情報を鳴き声で伝え合っている、といわれている。
カラスは、群れにならないで単独行動をする。だから、情報を伝え合う必要がある。
しかし人間や猿は、群れで行動しているから、その時点ですでに情報を共有しあっている。
情報を伝えることと、ことばを話す(語り合う)ことは違う。
カラスの鳴き声がもっとも原始的な情報伝達だとすれば、人間による高度な情報伝達は、太鼓を叩いたり、のろしを上げたり、文字に書いて知らせたりする。
情報は、どんなに高度になっても、あくまで「記号」にすぎない。
しかし、原初の語られることばは、情報を伝える「記号」ではなかった。それは、心のかたちの具体的な表現であり、語り合うことは、そうした感慨を共有する体験だった。
情報を伝える必要がある現場からことばが生まれてきたのではない、すでに情報が共有されている現場から生まれてきたのだ。
だから、ことばの本質として、地域によって違う。
人は、群れをつくり群れを運営するためにことばを生み出したのではない。群れは、すでにつくられ、運営されていたのであり、そこからことばが生まれてきた。
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ことばは、群れを運営するために生まれてきたのではなく、他者との関係をやりくりするための機能として生まれてきた。ことばをかわしあうことのカタルシスがあったからであって、群れを運営するための情報として生まれてきたのではない。
ことばは、共同体によって生まれてきたのではない。そのときすでにことばは存在していたのであり、共同体によってことばに情報伝達の機能が付与され、ことばがが変質してきた。
共同体が生まれる前に、すでにことばは存在していたのです。共同体を持たない縄文時代が八千年も続いたのは、おそらく共同体を必要としないことばのかたちがすでに完成してしまっていたからです。
縄文人の文化が大陸の文化より遅れていたからではない。縄文時代がはじまった一万年前、彼らは、世界でもっともも進んだ石器や土器の文化をもっていたのです。
稲や漆はもともと日本列島には自生していなかったが、海洋技術がまだ未熟で大陸人がやってくるはずのないころに、すでにその栽培法や製法を知っていた。研究者はそれを、どうしても大陸から伝えられたことにしたいらしいのだが、たぶんそうじゃない。その種子が海流に乗って流れ着いて自生していったのでしょう。それを、縄文人が独自に工夫して栽培し、製法を覚えていった。
大陸の人びとがその技術を長い歴史の果てに身につけていったのに対して、縄文人はあっという間に覚えてしまった。
彼らはすでに、完成されたことばの文化をもっていた。
無限に地続きである大陸ではいろんなところから人が集まってきて不可避的に共同体をいとなんでゆくほかない状況がつくられていったが、海に囲まれて孤立した日本列島では、そうした「人が集まってくる」という状況がなかった。「すでに人が集まっている」という状況があっただけだ。だから、ことばに伝達の機能を持たせてゆく必要が生まれてこなかった。
縄文時代において、ことばは、共同体によって伝達の機能を付与され変質させられることのないまま育っていった。
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ふたりで花を見ていて、「あ、咲いた」といったとき、話し手も聞き手も、その事態は見ているのだから、いまさらそのことを説明する必要などない。
それでも「咲いた」といわずにいられなかったのは、咲いたことに対する深い感慨があったからであり、その感慨を聞き手と共有したかったからだ。
そのとき聞き手は、咲いたことの意味を受け取ったのではなく、咲いたことの感慨を追体験し、「うん」とうなずく。そのとき聞き手は、「咲いた」ということばから、そのことに対する「感慨」を追体験させられるのだ。「意味」を受け取るのではない。
やまとことばの「咲(さ)く」は、そういう事態に対する感慨を追体験できるような構造(ひびき)を持っている。「さ」という音声は、世界が鮮やかに変化することに対する心の動き(=カタルシス)からこぼれて出てくる。鮮やかに変化する、すなわち「裂(さ)ける」の「さ」。
つぼみが裂けて花びらが開いてゆくことに対する感慨(カタルシス)から、「さく」という言葉がこぼれ出た。
花を見て、「あ、咲いた」という感慨を抱くこと、そこからことばが生まれてきたのであり、その感慨が共有されてゆく機能としてことばが育っていった。
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ことばは、人と人が同じ場所にたって同じものを食って同じ花を見て同じ空を見上げている、その現場から生まれてきたのであって、別の場所に住むものが情報を伝えるための機能として生まれてきたのではない。
「あなた」と同じものを食って同じ花を見て同じ空を見上げているカタルシスって、あるでしょう。それがあるから、友達にもなるし、恋もするし、結婚もするのではないでしょうか。それがあるから、人と人は仲良くできるのでしょう。それがあるから、人は生きてゆけるのでしょう。
自分が生きてゆくのに都合のいい相手であるかないかとか、そんな「情報」などどうでもいいのだ。
「いい天気だなあ」
「ほんと、いいお天気」
これは、小津安二郎の映画の中の名せりふです。これほどみごとに生きてあることのカタルシスを表現している会話もないし、この会話の中にこそ、ことばの起源がある。
「あなた」と世界に対する感慨を共有してゆくこと、そのよろこび(カタルシス)とともに言葉が育ってきたのであり、人はそういうカタルシスがないと生きていられないようにできているのではないだろうか。
「伝達」の機能などなくても人間は生きてゆける。しかし、世界に対する感慨を他者と共有してゆくよろこびがなければ生きていられない。
ことばは、どう生きればいいのかという情報を伝えるために生まれてきたのではない。どう生きればいいのかということなど、どうでもいいのだ。
「あなた」と世界に対する感慨を共有したいだけだ。古代(原始)人はそういう願いで生きていたのであって、どう生きればいいのかということを追求して生きていたのではない。
人間は、生きものとしての限度を超えて密集した群れをつくっている。そのややこしさによって、人と人の関係はもつれ、自分の心はよどんでゆく。
人間社会が存在するかぎり、われわれは、人や社会に対するうっとうしさと背中合わせで生きている。
人間社会に住むわれわれは、すでに「けがれ」を負った存在なのだ。
ことばは、その「けがれ」をすすぐ機能として生まれてきた。
「あなた」といっしょにこの世界で生きているいうこと、そのことを祝福してゆく機能としてことばが生まれてきた。生きてゆくための道具としてことばが生まれてきたのではない。「すでに生きている」という事態をなだめ祝福してゆく機能として、ことばが生まれてきたのだ。
それさえできれば、われわれは生きてゆける。生きてゆくのがうまくなくてもいい。そんな方法を知るためにことばがあるのでもない。そんなことなど、知らなくてもいいのだ。そんなことを知ろうとすることが、人間の人間たる証しでもない。
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杉山巡氏に贈る歌
欲望とかけひき交わすダイエット 命の水と別れる日まで
朝寒(あささむ)の水をのみほす いまここの 命のかたちたしかめるように
人間のあやまちを隠すように 地球に雲がかかっている