やまとことばという日本語・「なる」というカタルシス

百年に一度の不況というが、大半の人が今なお安楽に暮らし、一部の人たちだけが困窮している。
百万円の給料が80万円になったって、べつにいいだろう。半分になっても、生きていけないわけでもあるまい。
給料や貯金は増えてゆくものと決めてかかっているなんて変だ。そういう暮らしのペースが維持できなくなったからといって、ひどく不安がってしまう人たちがいる。
ちゃんと人並みの収入があるというのに、貯金が増えていかないと不安だからという理由で、仕事帰りに居酒屋でアルバイトをしている人がいる。
都会には、変な人がいる。
トヨタは、21世紀になって車の売り上げが13兆円から26兆円に倍増したのだとか。そのあげくに、ことしからは売り上げが大幅に減るということで、去年の暮れあたりから、どんどん人を減らしていっている。
トヨタだけではない。下請けの多くの工場も、いっせいに人減らしをはじめている。
企業は利潤を追求するところだから、それは当然のことで、しかたのないことだ、という。トヨタ自身はもちろん、末端の工場の経営者だって、いっちょまえにそううそぶいている。
トヨタの売上が倍増したことによって、たくさんの人の心がすさんでいった。
トヨタの工場は、労働者を、分刻み秒刻みで徹底的に管理しロボットのようにしてしまうことによって、世界に冠たる生産性を実現していった。そんなふうに働かされれば、とうぜん人間的なイマジネーションは摩滅してゆく。それでもたくさん収入が得られればいい、彼らはもう、そう思うしかなかった。トヨタの工場で働くことは、人間を捨てることだった。こんなことなら、収入は少なくとも牛丼屋のアルバイトのほうがまだいい、といってやめていった人も少なくないのだとか。
田舎で地道に暮らしていた人たちをかき集めて、たくさんの収入がなければ暮らせない人間にしてしまい、そのあげくにぽいと捨てた。そうしてやつらは、企業が利潤を追求するのは、当然のことだ、という。
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生きていければそれでいいと誰もが思えるなら、若い人の働き場所はいくらでもあるだろう。男も女もそんなふうに思えるのなら、誰だって結婚できるだろう。いい暮らしをしなければならないという強迫観念があるから、仕事探しが難渋するし、「婚活」などというものをしなければならない。
生きていければそれでいいと思えないのは、イメージ貧困だからだ。われわれは、いい暮らしと引き換えに、イメージ貧困の人間にさせられてしまった。
もはや、生きていければそれでいいというだけで済ませられるような社会ではない。
生きていければそれでいい、と思える人間なんかほんのひとり握りだ。
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しかし、あのころは、誰もがそんな思いで生きていた。
終戦直後のころ。
あのころ人びとに必要なものは、「いい暮らし」などではなかった。
美味い食い物や、住み心地のいい部屋や、おしゃれな服や、そんなものよりも人々が切に望んだものは、心がいやされる「娯楽」だった。
あのころの都会には、「パンパン」という街娼がたくさんいた。セックスなんか、人間が生きてゆくための衣食住とは何の関係もない。無駄といえば、無駄なだけのものだ。誰もが飢えて住む家も着る服も満足になかったあの時代に、そんなセックスを売ることが商売として成立していたなんて、驚きだと思いませんか。
つまり、美味い食い物も住み心地のいい部屋もおしゃれな服もなかった古代(原始)人がいちばんに望んでいたのは、うまい食いものでも住み心地のいい部屋でもおしゃれな服でもなく、娯楽やセックスだった、ということです。
彼らはそういう「もの」ではなく、そういう「こと」を望んでいた。
古代人が食い物や家や着るものという生活必需品にあくせくして生きていたと決めつけるのはイメージ貧困もいいところだ、ということです。
人間が根源的に欲しているものは、娯楽やセックスなのだ。
人間は、娯楽として二本の足で立ち上がったのです。それは、外敵と戦うことにも食い物を得ることにも、まったく不向きな姿勢だったのです。それでもその姿勢には、娯楽というカタルシスがあったのです。
人類が地球の隅々まで拡散していったのは、衣食住を求めたからではなく、住みにくい土地に住み着けばそのぶんセックスによるカタルシスが深くなっていったからです。そのぶん人と人の関係が味わい深いものになっていったからです。
人間にいちばん必要なものは、娯楽というカタルシスであって、食い物や家や着るものではない。
「ことば」だって、食い物や家や着るものを得るための手段としてではなく、娯楽というカタルシスをもたらすものとして生まれてきたのだ。
人間がたくさん集まって一箇所に住み着いてゆけば、うっとうしくなって心はよどんでゆく。その「けがれ」がはらわれるカタルシスとともにことばが生まれてきたのだ。
人間にいちばん必要なものは、娯楽というカタルシスなのだ。その体験なしにことばが生まれてくる契機はない。
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中西進氏はこういいます。
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「なる」とは、自然が持つ力や働きを、人工的に歪めたり抑制したりしないで、むしろ自然になすがままにすることでその高い生産性を解放しようとする、古代日本人の知恵が生んだ日本語といえます。
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「高い生産性」だなんて、どうしてこんな卑しい物言いをするのだろう。高度経済成長に頭の中を汚染されている人間のいうせりふです。トヨタの経営者じゃあるまいし。
古代人はべつに「高い生産性」を追求して生きていたわけではないし、そのために「なる」ということばを生み出したわけでもないでしょう。
生き物が生きてゆくことは、自然を「歪めたり抑制」したりすることです。美味そうな柿がなっていれば、取って食ってしまうでしょう。畑の土を耕すことは、自然を歪め抑制することです。自然をほったらかしにしておいたら、作物なんか作れない。
生産性がどうのという前に、もっと広い意味で、なるべくしてなることを「なる」といったまででしょう。それだけのことさ。古代人の率直な心の動きに、何も現代人の薄汚い価値意識を付与するべきではない。
ことばは、「高い生産性」の追求という「もの」に対する執着から生まれてきたのではなく、「こと」を体験するカタルシスとともに生まれてきたのだ。
「ことば」すなわち「ことのは」の「は」は「端物(はもの)」のことで、「ことばのかけら」という意味である、と中西氏はいうが、そうじゃないでしょう。「ことのは」の「は」は、胸の中が空っぽになって心がすっきり洗われるカタルシスのこと。ことばを発することが持つそういう機能のことを、「は」といったのだ。
「高い生産性」がえらいなんて、僕はぜんぜん思わない。
春から夏になるのは、とうぜんのことでしょう。柿の木に柿の実が「なる」ことは、必然的なことです。そこから、断定の意味で「われは武士なり」というようないい方も生まれてきた。
自然のはたらきがなるべくしてなってゆくことを「なる」といった。「な」という音声には、「必然性」に対する感慨が含まれている。「なかよしこよし」の「な」、ほんらいは「愛着」の感慨からこぼれ出てくる音声だが、「必然性」だって原因と結果が愛し合っていることだから、とうぜん「な」という音声になる。
なるべくしてなってゆくことに気づいたとき、「なる」という音声がこぼれ出た。
「にある」が「なる」になった、といっている人がいる。「なる」の語源は、「にある」である、と。
つまり、「なる」の「な」には、「に」と「あ」というふたつの音声の感慨が含まれている、ということです。
「に」は、「煮る」の「に」。煮れば、ものがやわらかくなって食いやすくなる。心がやわらかくほぐれてゆく感慨から、「に」という音声がこぼれ出る。「にやり」と笑うことは、表情がやわらかくほぐれること。
「東京に行く」の「に」、「……になってゆく」の「に」。
「に」とは、なってゆくこと。
「あ」は、「あ」と気づくことの「あ」。「ああ」と深く納得し、「ああ」と抗しがたい現実を嘆く。「あ」は「確かさ」の語義。
「にある」とは、なるべくしてなっていった結果のこと。
また中西氏は、柿の実が「なる」ことは「努力が実を結んで成熟すること」であり、「営々とした生命活動の結果」を「なる」という、と説明してくれています。
しかしそんな意味は、それこそ「なる」ということばが使われていった「結果」として生まれてきたのであって、それが生まれてくる「契機」になった感慨ではない。
「努力」だとか、「営々とした」だとか、やめてくれよという話です。古代人は、そんなふうにあくせくして生きていたのではないはずです。
高度経済成長やら、近代合理主義の価値観やらに毒された頭では、やまとことばの語源には推参できない。ことばは、そんなスケベ根性から生まれてきたのではない。
人間を生かしているカタルシスは、そんなところにあるのではない。