やまとことばという日本語・ことばが生まれてくる契機

「おれたち頭悪いから」とか、「人間関係へただから」とかいうような「嘆き」の中に、ことばが生まれてくる契機がひそんでいる。
舌先三寸で上手におべっかを使ったり、難癖をつけたり、たらしこんでしまったりできるのなら、ことばは「すでにある」のだから、ことばが生まれてくる契機はもはやない。
そんなことばかりに躍起になっているやつらがいる。
こうして人がたくさん集まっている社会の中で暮らしているのであれば、いちばん気になるのは、人と人の関係だ。それで泣いたり怒ったりもすれば、よろこんだりもして人は生きている。
人間社会にことばがあるということは、そういうことだ。そうした感慨から、ことばが生まれてくる。
人が、この世界やこの生を肯定できるか否かは、なんのかのといっても、けっきょく人と人の関係によって決まってくる。
この生において、誰と出会って、誰と仲良くなって、誰と仲良くなれなかったか。生きていればいろんなことがあるし、誰からも好かれるというわけにも、誰もかれも好きになるというわけにもいかない。
誰からも好きになってもらえない自分を守る方法は、誰も好きにならないことだ。自分を好きになってくれない相手を憎んで抹殺することだ。
人間関係がゆがめば、心もゆがむ。
誰からも好きになってもらえない人生なんてさびしいし、内田樹氏のように気の合うものどうしで固まろうとすることだって、やっぱりどこかみすぼらしい。そういう習性にも、思うように好きになってもらえなかった者のうらみがましさがひそんでいる。そうやって気の合うものどうし固まることによって、思うように好きになってもらえない人生を生きてきた自分の身を守っている。
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人気者になってみんなにちやほやされたら、そのルサンチマンは解消されるか。
そうはいかない。それは、ルサンチマンを温存してるだけのことだ。自分を好きになってくれない相手を憎んで抹殺しようとする衝動は、いぜんとして温存されている。
自分をちやほやしてくれる相手は、自分の心を(ちやほやされている)自分に向けてくれる。そのとき、相手が自分をちやほやしていることに興味があるだけであって、相手そのものに対する興味ではない。そうしてそれが、自分をちやほやしてくれない相手を抹殺してしまおうとすることの免罪符になっている。
人が人をちやほやすることがさかんな社会では、同時に、人を憎んで抹殺しようとする衝動も強く起きてくる。そういう人間が、たくさんあらわれてくる。
アメリカ社会を見れば、よくわかる。いや、アメリカだけのことではないのかもしれない。現代社会には、人をちやほやするダイナミズムと、人に難癖をつけて抹殺しようとする衝動が渦巻いている。
この国の「2チャンネル」の隆盛も、まあそういうことかもしれない。
そこには、自分の思うように人に好きなってもらえなかったものたちのルサンチマンが渦巻いている。
遠い存在を賛美して、目の前の相手を抹殺しようだなんて、どこか変だ。
直接関わることのできない遠い存在が気になるのは、わずらわしいことだ。だからサラリーマンは、仕事帰りの飲み屋で上司や政治家の悪口をいう。
そして一緒に飲んでいる目の前の相手に対しては、つい抹殺しようとすることばを飲み込んでしまう。
平気で目の前の相手に難癖をつけることができるなんて、最低だ。そうやって自分の優位性をつくって自分の身を守ろうなんて、下品すぎる。
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相手を抹殺しようとする衝動は、自分の身を守ろうとする衝動でもある。
アメリカは、アメリカの身を守ろうとして、イラクを攻撃する。
イスラエルイスラエルの身を守ろうとして、パレスチナを攻撃する。
みんな良識ぶってイスラエルを非難するが、あれだけ迫害されてきた歴史を持っている人たちが、あんなにも思うように人に好きになってもらえない人格を抱えてしまった人たちが、自分の身を守ろうとして目の前の相手を抹殺しにかかるのは、それはたぶん、当然なのだ。抹殺しても許されるような情況が生まれれば、そりゃあ抹殺しにかかるさ。
それを許し、それの手助けをしてきたアメリカに責任はないのか。
自分だって、自分の身を守ろうとして他人に難癖をつけたり抹殺しようとしたりして生きているくせに、イスラエルを非難して良識人ぶるなんて、とんだお笑いぐさだ。
ディベートだかなんだか知らないが、他人を非難して抹殺しようとする技を高度に持っていることが、そんなにえらいのか。
ユダヤ人は、あんなにも優秀な頭脳を持ちながら、自分たちの思うほど人から好かれていない。そういう人たちは、人気者になろうとする衝動や、他人を非難して抹殺しようとする衝動がとても強い。そういう衝動の表現として、「ディベート」という制度的擬制が機能している。
そしてその制度的擬制が、ユダヤ人にリードされながら、現代社会に蔓延しようとしている。「いじめ」だってだってまあそんなようなことだし、そういう擬制に対する反抗として、若者が「引きこもる」のだ。また、「おれたち頭悪いから」というのだ。
われわれはもう、ことばを豊かにすることは望まない。ことばが生まれてくる契機を生きたいと願っているだけだ。
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やまとことばは、ことばが生まれてくる契機を生きることばなのです。伝達のための言葉でも、ディベートのためのことばでもない。
やまとことばを育てていった古代人には、思うように人に好かれなかったというようなルサンチマンはない。なぜならそれは、自分を守るためでも自分を伝えるためでもなく、「けがれ」の自覚から解放されるカタルシスを他者と共有しようとすることばであり、そこにこそことばが生まれてくる契機があるのだ。
彼らには、人に好いてもらえなかったことの恨みなんかない。なぜなら自分が好いてもらうに値する存在だとは思っていなかったからだ。ひたすら「けがれ」を帯びてしまったわが身がうっとうしかったのであり、ことばは、その「嘆き」から生まれたきた。
住み着くことは、うっとうしいこととです。この身がけがれてゆくことです。
人類のことばは、まずそこから生まれてきたのだ。共同体を運営してゆくためではない。
大陸のことばは、共同体が生まれて大きく変質していったが、やまとことばは、共同体のない歴史を長く歩んだために、共同体が生まれる前にすでに完成されてしまっていた。
この島国に生まれて、もうどこにもいけない、ここにとどまるしかない、という「けがれ」の自覚から生まれてきたのだ。
『やまとことばの人類学』を書いた荒木博之という人は、比較人類学の研究者で、西洋の共同体と日本列島の共同体の違いからやまとことばの語源を解き明かそうとしているが、そういうことじゃないのですよね。やまとことばは共同体が生まれる以前に完成されていったことばであり、やまとことばの語源を問うことは、人類のことばの発生を問うことなのです。
ことばは、人間が「住み着く」ということをおぼえたことによって発達してきた。それが、たんなる唸り声のような「原始言語」からちゃんとした文節を持った「ことば」になってゆく契機になった。
やまとことばは、きわめて洗練した「唸り声」です。原始言語としての唸り声の痕跡をもっていることばです。それは、共同体を持たないまま洗練していったことばだからです。
われわれは、やまとことばから、人類のことばの発生に遡行できるはずです。
ことばは、他人に難癖をつけて自分の身を守ろうとして生まれてきたと思いますか。
そうじゃないでしょう。住み着くことによってわが身の「けがれ」を自覚したところから生まれてきたのだ。ひとまず結論から先にいってしまえば、そういうことになります。
古代(原始)人は、人に好かれたいというような、そんなさもしいスケベ根性を持っていなかった。わが身の「けがれ」を自覚し、それを嘆く心の動きからことばがこぼれ出たとき、あるカタルシスをおぼえた。そしてそのカタルシスが共有されてゆくことによって、その音声が「ことば」として洗練されていった。
他人に難癖をつけて優位に立とうというよな、そんな「自我」に目覚めていったからことばが生まれてきたのではない。したがって、ことばをそんなふうに扱っている人間には、ことばの起源はわからない。
起源としてのことばは、自分を忘れてこの世界を祝福してゆくための機能だった。
人に好かれたいとか、人に難癖をつけて優位に立ちたいとか、そんなさもしいスケベ根性から生まれてきたのではない。
人を祝福できる人間が、人に好かれる。しかしそれは、人をほめたりおべっかを使ったりすることをいうのではない。人とともにあることをひたすら無邪気によろこんでゆける人間が好かれるのだ。
人とともにあることをひたすら無邪気によろこんでゆくこと、その表現ができるなら、あなたは好かれる。
ほめるテクニックなんかどうでもいい。そんな自意識など、くさいだけだ。
ひたすらよろこんでゆくことができるかどうか、そこにおいてあなたは試されている。