「さねさし」・起源としての枕詞 11


この枕詞論は、こんなにも書き続けるつもりはなかった。
最初は、ちょっとした気分転換として、「あおによし」はいままでいわれているような姿の枕詞ではないのだということ、それだけをいうつもりだった。
しかし、調べてみると、世の研究者はほんとにいいかげんなことばかりいっているということに気づいていった。
こんな「枕詞論」ばかりではどうしようもないじゃないかと思うばかりだ。
まあ、みなさん、「言語の起源」というころですでにつまずいている。
言葉は、何か具体的な事物の名称として生まれてきたのではないのですよ。
最初は、「おーい」とか「やあ」とか「へえー?」というような音声の交歓としてはじまり、そして「やれやれ」とか「まあまあ」とかと感慨のあやの表出が複雑になってゆき、しだいに言葉のかたちになっていった。
たとえば原始人が、リンゴを前にして、「これはリンゴという名前にしよう」、「うんそうしよう」というような会話していったか。
するはずがないし、できるはずがない。そんなことは、何百万年もあとの文明社会になってからさかんになってきた言葉の作法にすぎない。
それが食べればおいしいまるくて赤い実だということは、誰でも知っていた。
知っている上で何を語り合うかといえば、「おいしそうだなあ」とか「きれいだなあ」とか「かわいいなあ」とか、そういう「感慨」がそれぞれ音声として発せられ、その感慨がやがてひとつの音声のかたちに共有されていった果てに、「りんご」という名称が生まれてきたし、誰もが知っているものであるなら、わざわざそれに名称など与える必要もない。
人間が具体的な事物の名称を持つまでには、とても長い言語の歴史が横たわっている。
また、原始人や古代人にとっては、その事物の名称を発することなどよろこびでもなんでもなかった。それがよろこびになるのは、他人を説得し支配することが価値の現代社会においてであり、そうやって誰もが知識をひけらかし合っている。
原始人や古代人の自然な衝動は、その事物の名称を発することではなく、あくまでその事物に対する「感慨」を発することにあった。そしてそれこそが人類の言語の歴史の正統的な作法だった。
何はともあれ胸に込み上げてくる思いがあれば、それを音声とともに発しようとするのが人間の自然な衝動であり、それが枕詞の発生だった。
言語の根源的な機能は「感慨の表出」にある。それはもう、いまでもそうなのだ。言語は、根源においてそういう機能を持っているから、人間は言語と親しくかかわっているのだ。
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■枕詞は、人が胸に満ちてくる感慨を言葉=音声として発し、そのよろこびを持つためのよりどころとして生まれ育ってきた。
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枕詞とは何かというのならまあそういうことになるわけで、そしてそれが原初以来の言語の根源的な機能なのだ。
いいたかないが、こんなことくらい僕は最初からわかっていた。調べてわかったことじゃない。逆に、枕詞をあれこれ調べまくっている研究者は、このことにまるで気づいていない。だから、「あをによし」が「望郷」の「感慨」をまとった音声だという、こんな簡単なことすらわからない。誰もわかっていない。
僕がかつて尊敬していた吉本隆明氏には『初期歌謡論』という有名な著作があり、そこで彼は「枕詞はあとにかかる言葉と同じ意味を持った重層表現である」というようなことをいっている。
しかしこんなことくらい、賀茂真淵折口信夫もいっているわけで、なんのオリジナリティもない。彼らはもう、枕詞とあとにかかる言葉は同じ意味を持っているという前提に、決定的に縛られている。
しかし、そうじゃないのだ。
枕詞のあとには一定の言葉が置かれるのがお約束になっているとしても、枕詞の機能はそのあとの言葉を修飾することにあるのではない。
枕詞は歌全体の通奏低音として発せられたのだということを、僕はここで何度もいってきた。
「あをによし」は奈良を賛美するための言葉ではない。胸に満ちてくる望郷の念を表出する言葉である。そしてそれだけではどこが故郷であるかわからないから「奈良」という言葉が続く必要があっただけのこと。奈良を意味しているのではない。
古代人は「あをによし奈良」とセットにして歌っていたのではない。「あをによし」は、「奈良を言い換えた言葉であるのではない。なのに賀茂真淵以来の研究者はみな、「そうやって同じ意味の言葉を二つ並べることによって奈良の都の雅びを表現している」とか「それが歌の雅びである」などという。そろいもそろってそういうくだらないことをいっている。
もちろん同じ意味の重層表現だという吉本隆明氏だって、なんのオリジナリティもない同じ穴のムジナにすぎない。
そんな作為的なただの言い回しが「雅び」か。賀茂真淵もくだらないことをいってくれる。枕詞の雅びは、その音声の奥にはちきれそうな思いを隠し持っているところにある。その隠す作法の洗練と切実さこそが枕詞の「みやび」である。
そのとき古代人は、「あをによし〜」と詠いあげていったん切っていたのである。「あをによし奈良〜」と続けて詠み上げていたのではない。
枕詞は感慨の表出の言葉である。そしてそれは、言葉の起源以来現代まで続いている言葉の根源的な機能なのだ。



いったい彼らは、いつまでこんな愚かでありきたりの思考を繰り返すつもりだろうか。
日本列島の歌には枕詞があったということ。古代および古代以前の人々はどうして枕詞を使うことに親しんでいたのか。枕詞は歌の構造にどのような機能を果たしているのか……彼らは、そういうことに対する直感をはたらかせようとしないで、既成の論理をそのまま踏襲している。
一度知ってしまったことをいったん忘れるということは難しいのかもしれない。もうその知ってしまったことを足がかりにして考えてゆくしかないのか。しかし彼らは、その知ってゆく過程で、「ほんとにそうだろうか?」という疑問を持たなかった。いったん生まれたばかりの子供のような状態になってありったけの直観力をはたらかせてみる、ということはしなかった。
お勉強ができるとか記憶力がいいというのも、良しあしである。彼らはもう、いったん頭の中にインプットしてしまった既成の通説から抜け出られない。
「あをによし=奈良」という図式に縛られていたら、万葉集の「あをによし」の歌を読解したり味わったりすることはできない。
高校の授業で数学の得意な生徒がいた。その生徒はいつも、教科書のというか一般的な方法とは違う方法で答えを導き出して教師を驚かせていた。なぜそんなことができるのかといえば、問題の構造なり本質をとらえる直観力がすぐれていたからだ。それさえ間違わなければ、解き方の決まりなどない。足し算にしようと引き算にしようと勝手である。その生徒が既成の方法論を知っていたのかどうかは知らない。しかしとにかくそういう方法論はいったん忘れて問題と向き合っていたのだ。その生徒にとっては、解き方を見つけることよりも、問題の本質なり構造について考えることの方が興味のあることだった。
解き方を見つけ答えを出すことが最優先であるのなら、知っている既成の方法論でいい。
たぶん、これと同じなのだ。吉本氏であれその他大勢の枕詞の研究者であれ、答えを導き出すことしか興味がないのだろう。古代人はどんな思いで生きて暮らしていたのかということに対する直観力や想像力がはたらいていない。
彼らには、枕詞とはこういうものですよ、という答えがあらかじめあって、その枠の中でああでもないこうでもないと競っているにすぎない。
古代人はなぜ枕詞が好きだったのかという問題に対して、いったん自分を忘れて古代人になってみるということはせずに、自分たちの物差しであれこれ吟味し分析しているだけである。
ほんとに枕詞とあとにかかる言葉は同じ意味だという図式は、疑うことのできない真理か?



吉本氏が梅原猛と対談したときの発言である。
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 枕詞の中に地名を二つ重ねる枕詞がある。例えは「春日の春日」――「ハルヒノカスガ」と読みましょうか ―― とか「纏向の檜原」とかね。これはとても古い、原型にちかいタイプの枕詞なんです。
 『古事記』に、ヤマトタケルが東国へ遠征してきたところ、海が荒れ、オトタチバナヒメが海に飛び込んで海を鎮めるという話がありますね。そこのところで、オトタチバナヒメが「さねさし相模の小野に燃ゆる火の火中に立ちて問ひし君はも」という歌を詠んで飛び込むのですが、この「さねさし相模」の「さねさし」というのは、どういう意味か全然わかっていないんです。アイヌ語に、陸地がちょっと海の方へ突き出た所という意味で「タネサシ」という言葉があって、僕は、「さねさし」はアイヌ語の地名じゃないか、というふうに考えました。
 つまり相模もちょっと出っ張った所ですから、そこに昔、アイヌあるいはそれに近い人たちが住んでいたときに地形から「タネサシ」というふうに言われていた。それをもうひとつ重ねて「さねさし相模の小野に燃ゆる火の」とした。「さねさし」という枕詞はアイヌ語だとするのが一番もっともらしいのじゃないか、そこのところで、柳田国男の地名の考え方にちょっと接触していくのです。
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枕詞は最初からあとにかかる言葉とセットになっているものとして生まれてきた、と考えている時点でこの人の理論はすでにアウトである。つまり彼は、枕詞はかかり言葉を修飾するためにあとから生まれてきたといっているのだ。こんな考え方は、賀茂真淵以来誰もが共有してきた既成の解答(枕詞=かかり言葉)の上に成り立っているのであり、なんのオリジナリティもない。
で、その陳腐な思考がどう展開してゆくかというと、「さねさし」という枕詞は「相模」と同義の異語で、「さねさし相模」というセットになった表現である、という。で、そこの地名は「相模」という前は「さねさし」といっていたのだろう、と推理する。安っぽい推理である。
まあ吉本氏にとっては、もっともらしい答えを提出して大向こうに受ければそれでいいだけで、この物語がどのような状況にあってオトタチバナヒメがどんな気持ちでこの歌を詠んだのか、ということなどどうでもいいらしい。
詩人であり文学者であるこの人が、こんな思考態度でいいのか。それこそどこにでもいる凡庸な優等生が学校の昼休みに、「この問題の解き方はこうだぜ」と自慢し合っているのと同じであって、この問題の構造や本質はどこにあるのだろう、という思考なんかまるでない。
このときヤマトタケルは、相模の国を攻めあぐねていた。それが「相模の小野に燃ゆる火の」で、敗走した一行はいったん海に出て船に乗ったのだが、大しけになって船が沈みそうになった。そこで同乗していたオトタチバナヒメが海に飛び込んで嵐を鎮めた。
この話が感動的かどうかということなど僕には興味はない。
ようするにオトタチバナヒメは、「私の命と引き換えに武運をおさめてください」と詠ったのだろう。これは女上位の古代社会の話で、しかもオトタチバナヒメヤマトタケルの姉のような存在だったから、「あなたしっかりしなさい、私が海に飛び込んで見せるから、あなただって死ぬ気になって相模の国を平定して見せなさい」と叱咤したのかもしれない。
「燃ゆる火の火中に立ちて問ひし君はも」は、「燃える火の中で私の安否を気遣ってくれたあなたでないか」ということ。あなたは強い男です、大丈夫、といってやっているのだろう。こんな歌に相模の国を飾り立ててもしょうがないではないか。さすが相模は強い国だと詠っているわけではないのだ。
この「さねさし」にはオトタチバナヒメのそういう万感の思いが込められている、とどうして想像できないのか。
この歌は、「さねさし〜」と詠い上げていったん切っているのだ。そうしておもむろに「相模の小野に燃ゆる火の」と続けていった。
「さね」は前述したように「敏感」な心を表している。そうして「さし」は「紅をさす」の「さす」の体言。「さ」は「さーっ」「さらさら」「さっさと片付ける」の「さ」、スムーズなさま。「し」は「しーん」の「し」、「静寂」「孤独」「固有性」の語義。
「さし」とは、ある思いがスムーズに浮かび上がること。ひらめくこと。
「さねさし」とはつまり、素早く確かに「決断」すること。
「男なら決断して見せなさい」と詠っているのだ。
べつに「さねさし=相模」でもなんでもない。この切迫した事態の中でそんなことをわざわざ詠ってもしょうがないではないか。
この「さねさし」は、入水を「決意」したオトタチバナヒメの切迫した感慨を表出している。
「さねさし」とは、一気に刺し貫くこと。そういうニュアンス以外のどんな意味があるというのか。これは、オトタチバナヒメのそういう切迫感を表出しているのであって、相模という言葉を修飾しているのではない。
この物語の作者は、何のためにこの歌をここに置いたのか。この「さねさし」という枕詞が、この場の切迫した状況とオトタチバナヒメの悲壮な決意のすべてを表しているからだ。
この歌の構造における「さねさし」は、オトタチバナヒメの胸にあふれる「決意」隠しつつ、火の中で探しに来てくれたヤマトタケルの果敢な「決断」を修飾している。
まあ、この歌以後「さねさし」のあとには相模という言葉を置くお約束になっていったとしても、起源としても枕詞は、何はさておいても表出せずにいられない歌の主題だった。


古代の関東・東北にアイヌがいたというどんな証拠があるというのか。おそらく彼らは、最初から北海道にしかいなかった。北海道につい最近まで固有の文化を守って彼らが存在していたということは、本州にだって同じような状況が多少は残っていなければならない。
どうしてアイヌが先住民であると決めるのか。そして、アイヌの言葉とやまとことばが似ていれば、彼らは必ず、もともとはアイヌの言葉だったという。アイヌの言葉の方がやまとことばに似ていった例だってないわけではないだろう。
アイヌと日本列島の原住民とどちらが強く相手を意識していたかといえば、少数民族であるアイヌの方に決まっている。したがって、アイヌの社会にやまとことばが流れ込んでゆく機会の方がずっと多かったはずである。
アイヌは、氷河期明けの前後に北の大陸からやってきた人々だったのかもしれない。彼らは先住民である縄文人よりも勇猛で体力もあったが、言葉もメンタリティも違っていたから、先住民の社会に入ってゆくことはせず、先住民のいない地域を居住区にしていった。縄文時代アイヌ縄文人が戦ったらどちらが強かったかといえばアイヌの方だったろうが、まあどちらもそうした戦いの文化を持っていなかった。そうしてアイヌは、いつの間にか「間借り人」としてつつましく暮らす習性になっていった。中世以降には「アイヌを追い払った」というような事件もあったろうが、縄文・弥生時代にそんな戦闘が繰り返されたという史実はない。そのころはまだ武器のレベルなどたいして違いはないのだから、アイヌの方が弱かったとはかぎらない。ただ彼らは、縄文人のいないところで暮らすというつつましさを持っていただけだろう。
古代以前の歴史を、あまり追い払っただのという言葉で語ってもらいたくない。
そしてアイヌが付けた地名は、北海道にはたくさん残っている。古代ならなおさらのこと、そうかんたんに「さ(た)ねさし」から「相模」に変わったりするものか。
吉本氏のいっていることは、どうしようもなく愚劣なこじつけだとしか思えない。答えの出し方しか興味がない思考だから、そういうことを安直に言い出すのだ。
「決断=突き刺す」というニュアンスのやまとことばの「さねさし」がアイヌの「たねさし」になっていったという可能性だってなくはないのだ。
アイヌがどのように北海道に住み着いていったかという問題は、この際どうでもいい。
僕がいいたいのは、吉本氏らの安直に答えをこじつけようとばかりしている思考態度のことである。文学者ともあろう人が、こんなくだらないこじつけばかりしていていいのか。それこそオトタチバナヒメのように、自分を捨てて問題の渦中に飛び込んで見せろよ、といいたい。
この歌で「さねさし相模」という連続した言葉として詠わねばならない必然性など何もない。この歌は、相模を讃えているのでもなんでもない。「さねさし」という枕詞がオトタチバナヒメの胸に溢れる万感の思いを表出していることにおいて、はじめて必然性が浮かび上がってくる。
枕詞のあとにくる言葉は、ほとんどの場合、歌の主題とはなんの関係もない。そんな主題とは関係ない言葉を飾る必要など何もないではないか。そんな言葉を飾るために枕詞が生まれてきたのではない。
そしてこの対談では、相手の梅原猛も「私もそう思っていた」とかなんとか、同じようなことをぐだぐだと語っている。
こういう連中が、現在の枕詞の研究を停滞させているともいえる。
くだらない答えをひけらかそうとするばかりで、あなたたちはなぜ、問題の本質や構造の中に飛び込んでゆくことができないのか。
文科系の学問は、ほんとうの答えがあってないようなものだから、どうしてもこういう底が浅く愚劣な思考態度が跳梁跋扈することになってしまう。
古代人がどんな思いで枕詞を詠い上げていたか、おまえらごときにわかってたまるものか。
人類の歌は、枕詞としてはじまった。そのとき歌わずにいられない感慨があった。感慨が歌になるのであって、意味を伝えようとして歌になるのではない。
枕詞は、声に出して詠う「歌」だったのだ。そのことの本質と構造について、もう一度考え直してみようではないか。
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