内田樹という迷惑・「かみ」の名について

やまとことばは、まぎらわしい。
「端(はし)」と「橋(はし)」と「箸(はし)」・・・・・・言葉が伝えるための道具であるなら、こんなまぎらわしいことはあってはならない。だがこの三つの言葉の音韻は、いずれも「二つのものがつながってゆく契機としての危うさと緊張」を表現しているわけで、たんなる偶然ではない。「は」は「危うさ」、「し」は「緊張」の音韻。
嘴(くちばし)の「はし」にしても、いかにも食いにくそうな危うさと、そのかたちの鋭い緊張感を表現している。はしごの「はし」だって、やっぱり高いところと低いところをつなげる契機としての「危うさとと緊張」そのものの表現に違いない。
古代の道は、ほとんどが狭い山道だった。そんなところを「走(はし)る」のは、転びそうな危うさと緊張感をともなうし、走ることは、スタートとゴールの二つの地点をつなげる行為にほかならない。旬の「はしり」も、まあそういう感じで、二つの季節のつなぎ目に旬のはしりがある。「悪に走る」ことだって、善から悪に移ってゆくことの危うさと緊張があるに違いない。
やまとことばは、伝達の道具としてはきわめて不合理である。しかしだからこそ、西洋の言葉にはない深い表現性をその音韻にそなえている。つまりやまとことばは、声に出すことの感慨に本領がある。だったら、そこから生まれてくる文学は、まず「歌」であったに違いない。
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「歌」において、意味の「伝達」は、二次的な問題にすぎない。まず、言葉の「表現性」がだいいちなのだ。
「歌」によって、言葉の姿は豊かになってゆく。そのようにして、たんなる「はし」という音韻が、「端」「橋」「箸」「嘴」「はしご」「走り」というようなさまざまな姿を持つようになっていった。
やまとことばは、「歌」によって育ってきた言葉なのだ。
やまとことばは、たんなる「記号」ではない、記号であることから逸脱して、箸も橋も端も嘴も梯も走も、ぜんぶ「はし」という。
古代人が神の名をつけていったとき、それぞれの神の徳を表現していったのであって、ただ記号的に分けていったのではない。
だから、「古事記伝」を書いた本居宣長は、神の名の注釈に、ひとかたならぬ神経を砕いた。
しかしわれわれは、その注釈の仕方ではまだ足りない、と言いたい。それではまだ、やまとことばの本領を満たしていない。
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天地のはじめである「むすびのかみ」のことは、すでに書いた。
そうして天の神が勢ぞろいしたあと、「地」をつくることにとりかかった。
じっさいに日本列島の「国産み」をしたのは「イザナギイザナミ」の男女二柱であったが、その前に六世代の神々が準備を整えた。その最後に現れたのがニ柱の親である「オモダル」と「アヤカシコネ」の神だったのだとか。つまり、準備を完成させた神、ということになる。
宣長の注釈によれば、「<オモダル>は、<面(おも)の足(た)る>であり、面(=顔)にかぎらず、不足のところなくそなえ整えることをいう」のだとか。
つまり、顔も人格も教養も体力も精力もぜんぶそろった絶世のいい男、という意味なんだってさ。この説明じゃあ、意味を伝達する機能しか語っていない。「おも」と発声する感慨があるはずである。
「おも」という言葉が表現している感慨や事物の本質とは何か。
ここでいう「おも」とは、ほんとうに「顔」のことだろうか。「おも」なら、「主に」の「おも」でも、「思う」の「おも」でも、「重たい」の「おも」でもいいはずである。それが、やまとことばの性格なのだ。
「おも」と発声する感慨がある。それは、かならずしも「顔」である必要はない。
「お」は、「おお」と驚き納得するときの「お」。気持が目覚めて始動すること。だから、「お姫様」とか「お殿様」というように、気持をこめてゆくというかたちで言葉の上に「お」をつける。
「も」は、「盛る」の「も」。森は、木が盛り上がっているさま。
「も」は、いちばん腹に響く発声。腹の底から息が沸き上がってくるような心地がする。
「おも」とは、体の中心である腹に力をこめてゆくこと。中心だから、「主(おも)に」という。心をこめてゆくから「思(おも)う」という。腹に力をこめないと持てないから「重(おも)い」という。そして顔は、自分の中の喜怒哀楽の発信基地だから「面(おも)」という。
つまり、「おも」とは、準備すること。
「国産み」は、イザナギイザナミの恋愛=情事からなされたのだから、イザナギがハンサムだったというならわかる。しかしその親であるオモダルが、なぜそうであらねばならないのか、まったく必然性がないではないか。オモダルアヤカシコネはそういう人間性を準備した神というのが一般的にいわれているところだが、その意味は、それが最終的な準備であるということにあるのであって、オモダルがハンサムであったとかないとか、そんなことはどうでもいいのだ。
ハンサムであるのが物語として望ましいのは、あくまでイザナギなのだ。
だいいち、古代人がハンサムとか美人のことを「おもだる」と言っていた例は、何もないのである。
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オモダル」の「だる=たる」は、「足(た)る」であり、「樽(たる)」でもある。樽とは、何かがいっぱい詰まっているもの。
「た」は「立つ」「たて」の「た」。つまり、たての関係のこと。古代人にとって「足る=満足する」ことは、たての関係、すなわち天の神との関係が成立していると自覚されることだったらしい。
樽に酒を満たそうとすれば、下から上に満ちてゆく。そうやって「たて」に満ちてゆくことを「足る」という。
お金が足りるとか足りないというのは、貨幣を積み上げた高さのことだ。だから、米の生産量のことや武士の給料のことを「石高(こくだか)」という。「石量」とは言わない。
オモダル」とは、準備を整える、という意味。「おも」が準備、「たる」が、整える。
しかし宣長の注釈には、この「準備」という意味が入っていない。
オモダル」という言葉の意味のいちばんの肝(きも)は「準備」ということにある。準備の完成が必要ないのなら、この神を登場させる必然性など何もない。「おも」という音韻に「準備」という意味がこめられていることを、宣長は見落としている。
ハンサム、ということじゃない。この場合の「おも」が「顔」だと、いったい誰が決めたのか。宣長だけでなく、学者はみんなそう解釈している。
オモダル」とは、準備が整う、すなわち天上界と下界との関係を完成させる、という意味だろうとわれわれは解釈する。それによって初めて、イザナミイザナギによる「国産み」へと物語が展開してゆくことができる。
いったい「オモダル」が最高にいい男であらねばならない必然性がどこにあるのか。そんな名誉は、最後にがんばったイザナギに譲ってやってもよかろう。
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さらに、宣長による、もうひと柱の神である「アヤカシコネ」という名の注釈も、釈然としない。
「あや・かしこ・ね」。
「あや」は、「驚きて嘆く声」と宣長はいう。「オモダル」の美貌に驚いてうっとりしたんだってさ。
しかしこれは、そのまま「綾=文=あや」と受け取っていいのではないだろうか。「変化」の語意。いろいろと準備することの「あや」、そのめでたさ、それを体現しているのがこの神である。
「あ」は、「あ」と気づく感慨。違うものや変化に気づくこと。「あれ」「あそこ」の「あ」。
「や」は、口の中で声と息が分かれて、声だけが外に出て行くような発声。
「あや」は、変化・分裂・多様の語意。この場合は、単純に「めでたさ」と解釈しておけばいいだけだろう。
では「かしこ」を、宣長がどう説明しているかというと、「畏れること」と言っている。たしかにそういう意味もある。「かしこみたてまつる」といえば、神を畏れうやまうこと。「かしこまる」といえば、緊張してかたくなること。ただそれは、人間の神に対する感慨や態度のことであって、神自身のことではない。神が畏れるのなら、神以上の存在がなければならない。
それが、神の名になっているのなら、もっとべつの意味でなければならない。
「かしこ=畏れる」ということでは、神の徳をあらわす言葉になっていない。それはあくまで、人間のがわの感慨と態度をあらわす言葉なのだ。
「かしこ」の語源的な意味は、おそらく神の徳というようなところにあるのではない。「かしこ」といえば、すぐ「賢い」という言葉が浮かぶ。それがたぶん、つまづきのもとなのだ。宣長だって、きっとそこでつまづいている。
「賢い人間」とは、最後に勝つやつのことだ。「いろいろやってみたけど、これがいちばん賢いやり方だった」とか、「賢い」とは、「最後にたどり着く」という意味なのだ。
だから、手紙の最後に「かしこ」と書く。
神に対してかしこまり畏れることは「神に対する究極の感慨・態度」である、という意味だろう。
「かしこ」の「か」は、「かっとなる」の「か」。「かなた」の「か」。注目・変身・異次元の語意。
「し」は、「しいんとする」の「し」。「端(はし)」の「し」。静寂・孤独・終結の語意。
「こ」は、「ここ」「そこ」「これ」の「こ」。現在・場所・到達の語意。
奈良から伊勢神宮に行き、さらに海を目指して南下してゆくと「賢島(かしこじま)」という里に着く。この「かしこ」という名は、おそらく古語のはずである。目の前には、英虞湾の海が広がる。大和盆地の古代人の、ひとつの旅のパターンであった。「賢島」とは、最後にたどり着いた海の見える別世界のこと。
「かしこ」とは、「最後にたどり着く場所」とか「さいはて」というような意味ではないだろうか。
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そうして宣長は、「アヤカシコネ」の「ネ」のことを、「男も女も尊(とうと)む称(な)なり」と言っているのだが、これだって、定石通り「根(ね)=土」、すなわち「国産みのための最後の仕上げ」と解釈しておけばいいだけだろう。
「アヤカシコというは、(オモダルの)そのかしこきに触れて、直ちに嘆く言(げん)なれば、いよいよ切なり・・・・・・」などという宣長の注釈は、学者の「さかしらな」たくらみが丸見えである。
「かしこき」は、べつに「尊い」とか「賢い」とかというような、神の徳を表現する言葉ではない。あくまで人間の神に対する「最終的な」感慨であり態度なのだ。
手紙の最後に「かしこ」と書くのは、「私は賢い」という意味なのか。それとも「せつないほどにあなたを愛しています」という意味なのか。どちらも違う。昔の日本人は、そんなふうに自分を見せびらかしたりはしない。
「かしこ」と書くのは、「これで消えます」というような意味だろう。それだけのことさ。
神々が「国産み」を思い立ってから「イザナギイザナミ」が登場するまでに、七世代もかかっている。であれば、「アヤカシコネ」とは、「綾なす(いろいろあった)国産みの準備の最後の仕上げをした神」、つまり「準備段階の最後の根っこになった神」、と解釈してどうしていけないのか。
「あやかしこ」とは、「大団円」とか「締めくくり」とか「ラスト・フィナーレ」とか、まあそんなようなニュアンスの言葉だったのではないかと思える。
「あや」とは、「おめでたい」というような意味だったのかもしれない。あるいは、「よろこびと不安の入り混じる気持」をあらわす言葉だったのだろうか。その気持が昂じて「あやしい」になる。
ようやく準備を整い終えたことのめでたさ、それが「アヤカシコネ」という言葉にこめられた感慨なのではないだろうか。
正月のことを、「初春」(はつはる)」という。旧暦の正月は、二月初旬である。ようやく冬が終りかけて、かすかに春がやってくる気配が感じられる時期のこと。厳密にいうと、それは、春のことではない。「初(はつ)」とは「果(は)つ」であり、終わりのことである。終わりの始まり、それを「はつ」という。まだ終らない、まだ始まらない、そんな状態のことを「はつ」という。
日本列島の住民は、「はじまり」の前に「はつ」という状態を体験する。「アヤカシコネ」も、おそらくこの状態のことを言っているわけで、そこに古代人の心の動きの「妙なる」ところがある。そこのところを、本居宣長はちゃんと注釈しきれていない。つまり、古代人の心に「推参」しきれていないのだ。
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本居宣長は、「古代人の心の動きに推参する」ということを誰よりも純粋率直に試みた人である、と小林秀雄は言っているのだが、たぶんまだ足りない。まだ、学者としての教養が邪魔している。
「おも」という音韻は、気持が腹に集中することによって発声される。気持が集中して「準備」することを「おも」という。
「思う」と「主に」と「重い」と「表(おもて)」と「面(おもて)」・・・・・・これらを意味の伝達行為として文字にして分類してゆくことは後世の歴史の「労働」であるが、感慨を声に出す表現行為として同じ音韻にしてしまったのは、古代人の「遊び心」である。
歴史は、「遊び心」からはじまっている。そしていつの時代においても、われわれの心はそこに帰ってゆく。
「原始言語」という概念がある。数百万年前の人類は、それぞれが勝手に「うう」とか「わあ」とか「おお」とうなりあっていた。それは、純然たる「表現行為」であり「遊び」であったはずだ。そこから、同じ唸り声に集約されてゆき、やがて言葉になっていった。
言葉の本質は、「伝達する」ことにあるのではなく、「同じ発声」を「共有」することにある。つまり、「感慨」を「共有」すること。それは、「伝達する労働」ではなく、「共有する遊び」なのだ。
一緒にブランコに乗る。一緒にトランプをする。一緒にジェットコースターに乗る。そういう「遊び」が、われわれの歴史の基底に流れている。そういう「共有」する「遊び」のタッチは、古代人も現代人も変わりはない。
「橋」と「箸」と「端」は、同じ音韻でいいのである。言葉そのものもまた、同じ感慨を「共有」している。われわれは、それでたいした不自由も感じないで暮らしている。それは、「共有」する醍醐味を「遊び」として知っているからだ。
「遊び」とは、「共有」することである。
「共有」する醍醐味は、「遊び」にしかない。
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内田氏が言うような「労働とは他者=社会に献身するよろこびである」という定義なんか、くだらない。働いたものどうしの「報酬を共有するよろこび」があればいいのだ。それが、働くことの意義というか、味わいだろう。一緒に働けば、みんな仲間だ。そのよろこびがあればいい。社会に役立っているとかいないとか、そんなことはたいした問題じゃない。そんなことは、みんなで助け合ってつじつまを合わせていけばいいだけのことさ。働くなんていやなことだけど、仲間と一緒にいることのよろこびはたしかにある。それがわれわれのいちばん気になることであって、社会に役立っているかどうかということなどいちいち考えていられない。
「献身するよろこび」は、献身されるものと「共有」することができない。「献身するよろこび」は、けっして他者と「共有」することができない。それは、「よろこび」を独り占めするたんなるナルシズムであろう。
一緒に寿司を食っておごってやる。そりゃあ、おごってやれば、気持いいさ。しかしそんなことで悦に入っているのは、「遊び」を知らないやつの態度だ。そんなことはさっぱり忘れて、「美味かったなあ」という感慨を相手と「共有」する。それが「遊び心」だ。ほんとの遊び人は、おごってやる立場になったことを恐縮している。
内田さん、「献身するよろこび」なんて、そんなエゴイスティックでナルシスティックな心の動きのどこが美しいのか、僕にはさっぱりわからない。
目の不自由な人を助けて横断歩道を渡らせてやる。それは、助けてやったことのよろこびをかみしめる行為なのか。われわれは、そんなナルシズムなど知らない。ただ、目が不自由なのに横断歩道を渡ることができたその人のよろこびを自分のよろこびとすることができたときにうれしくなるだけだ。
「共有するよろこび」は、「遊び」において初めて実現される。そしてそれは、「成熟」を拒否する態度でもある。