内田樹という迷惑・「なげき」についての雑感

「嘆き」は、手離さないほうがいいと思う。
「嘆き」を携えているから、世界は輝いて見えるのであり、心がときめくのだ。
それじたいとして輝いている世界などない。
山は動かない。しかし、山が動いて見えることはある。そのとき、「あ、あの山は神だ」と古代人は思った。彼らは、山が動いて見えるような、驚きときめく心のダイナミズムをもっていた。それは、そういう心の動きが生まれてくるような深い「なげき」を携えて生きていたことを意味する。べつに、山が動くと信じていたわけではない。
彼らにとって山が動いて見えることは、神と出会う体験だった。
空の青さが目にしみることもまた、神と出会う体験だ。そしてそれはたぶん、現代社会を生きるわれわれだって、誰もが心のどこかしらで体験している。
大人になって生きてゆくことのどんな確かな信念を獲得しようと、誰もがその胸のどこかしらで、生きてあることに途方に暮れている。どこかしらに成熟できない「もうひとりの自分」を抱えている。
若々しくありたいからではない。死んでゆくときには、けっきょく「生きてゆく=成熟する」ことを断念しなければならないからだ。誰もが、成熟を断念=拒否する心をどこかしらに抱えて生きている。
人間の「成熟」という装置は、不完全にしか作動しない。
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政治的経済的な側面だけで人間や社会や歴史を語ろうなんて、卑しい視線だと思う。
そういう表面的な欲望の底に、基礎的な心の動きのかたちがある。
そこのところは、古代人も現代人も変わりはない。よろこびがあり、かなしみがあり、嘆きがあるだけだ。
誰だって、古代の心性を持っている。
「私」が「あなた」のことをすてきだと思う。そこに、古代の心性がはたらいている。どんなふうにすてきかと分析することは現代的だが、「ときめく」という心の動きに現代も古代もない。
いいかえれば、どんなふうにすてきかと分析してしまうさかしらな頭のはたらきの分だけ、われわれは、ときめきのダイナミズムを失っている。
「あなた」がどんなふうにすてきかと分析することは、ひとつの「労働」です。
そういうことも含めて、内田氏は、人間の本性は労働することにある、と言っている。そうやって分析することが、人間の本性的な心の動きであると思っているらしい。
労働することが人間の本性であると考えるなら、分析することこそ本性的な心の動きであるということになるのは、当然の論理的帰結です。
他人を分析し、自分を分析する。そういうことばかりしながら彼は、現在の人気作家の地位を築いた。
だから彼には、人間に対するときめきもおそれもない。人間も社会も歴史も、全部分析できるつもりでいる。
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分析なんかしなくてもいいのにさ。味わえばいいだけのことじゃない。古代人は、たぶんそう言うと思う。
この生の何たるかを知り尽くすことと、この生を味わい尽くすことと、あなたはどちらを選びますか。
知り尽くすことは、味わい尽くすことじゃない。料理することと食べることは、またべつのことだ。
自分の愚かさや醜さを分析し、それで「私はもう十分に労働を果たした」と納得してしまえるのなら、幸せです。これが、内田氏の思想の流儀です。彼は、その愚かさや醜さを味わい尽くして身もだえするということはしない。しないための思想なのだ。人間の本性は労働することにあるのだから、料理さえすればいいのです。食べて味わう必要なんか何もない。
しかしわれわれは、そんな器用なことはようしない。どうしたって、自分の愚かさや醜さを味わってしまう。味わって嘆いてしまう。
すると内田氏は、そういうやつは未熟なのだ、人間は「成熟」してはじめて人間といえるのだ、という。
自分の愚かさや醜さを嘆かないことが、「成熟」することなのだそうです。
なんだか、「鈍感力」の著者の言うこととそっくりだ。そういう本が売れる世の中であるらしい。
しかしねえ、人との関係を味わいときめきたいのなら、自分との関係も味わい尽くすしかないでしょう。
そして、自分との関係の基本は、嘆くことであり幻滅することだ。
腹が減ったとか息苦しいとか暑いとか寒いとか痛いと痒いとか、自分との関係の基本はそうやって自分に幻滅し嘆くことにあるのだし、そうやって嘆かなければ、飯を食うことも息をすることもできなくなってしまう。
生きてあるかぎり、自分に幻滅することからは逃れられない。
われわれは、内田氏のようなアクロバティックな身の処し方はできない。
つい、自分にうんざりしてしまう。
うんざりしないためには、自分のことを素晴らしいと思えばいいのか。いや、そんなこと思えば、リバウンドがかならずやってきて、よけいに激しく落ち込んでしまう。
高いところをめざすから、落ち込んでしまう。
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人の心の低いところを流れている「嘆き」、そこからカタルシスを汲み上げてゆくのが、すくなくとも古代人の生きる流儀だった。
文明が未発達であるということは、知能が低く鈍感であるということを意味するのではない。それだけたくさんの「嘆き」を抱え、嘆きとともに生きているということだ。
暑いといって嘆き、寒いといって嘆き、もう二度と会えないといって嘆く。それに対して文明人は、エアコンのきいた部屋で暮らし、話がしたくなれば電話をかけるし、会いたくなれば新幹線や飛行機でどこへでも行くことができる。だから、嘆く必要がない。
古代人は、「嘆き」とともに生きていた。だからこそ、嘆きからカタルシスを汲み上げてゆくすべも、自然に心得ていた。彼らの心は、つねに世界に向かって開かれており、自分を分析するという余裕などなかった。世界との関係における「嘆き」だけがあった。世界との関係の中に置かれている自分を嘆いた。
その嘆きがカタルシスへと消化されてゆくかたちで、世界を解釈した。
たとえば、遠くに旅立っていった人とはもう二度と会えないだろうと嘆く。だったら、会いたいという気持を断念するしかない。断念することのカタルシスは、この世界の外には何もないという世界認識からもたらされる。この世界の外には何もない、と思えば、心がすっきり洗われる。
もう会えないということは、あの人はもうこの世にいないということと同じである。われわれ現代人はそう思うことはできないが、古代人はすっきりとそう思ってしまうことのできる心の回路をもっていた。それは、思い切り泣くことだ。泣いて泣いて泣き疲れたら、すっきりと断念することができる。
思い切り嘆くから、断念することができるのだ。
「嘆く」というタッチ、われわれはこの心の動きを失っているから、断念するというダイナミックな認識ができない。
死に際して、みずからの生を断念する。この認識の飛躍は、どうしても必要になる。
「あなた」を分析するというさかしらな態度を捨てて、「あなた」の存在そのものにまるごとときめくという認識の飛躍、そういうダイナミズムをわれわれは失ってしまっている。
山が動いて見える心の動き、空の青さが目にしみる心の動き。山は動かないし、空はただ青いだけだ。それでもそういうふうに見えてしまう心の動きを、「認識の飛躍」という。
恋愛とは、認識の飛躍のことだ。
ものごとは、筋道通りの答えが出ればいいというものではない。認識の飛躍がなければ、恋愛も友情も成立しない。
われわれは「嘆き」を味わい尽くすという習慣を失ってしまった。「嘆き」をばねにして、認識が飛躍する。「嘆き」をばねにして、「あなた」をまるごと好きになる。「あなた」のどんなところがすてきかなどと分析していたら、恋愛なんか成り立たない。
現代人の心は労働する。そうして、「ときめき」という情感、すなわち認識の飛躍という「遊び」を喪失してゆく。
空の青さが目にしみて思わず涙ぐむ、そういう心の動きを古代人はたぶん持っていた。
それは、心がつねに世界に向かって開かれており、自分を分析するなどという「労働」をしようとしなかったからだ。自分はつねに「嘆き」の対象であり、その向こうで世界は輝いていた。
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「嘆き」を携えていなければ、世界は輝かない。それはまあ、腹が減っていなければ物を食っても美味くない、ということと同じだ。
人間の心は、ほんらい世界が輝いて見えるようなしくみになっている。だからわれわれは生きていることができる。生きていることに価値があるから生きているのではない。世界が輝いて見えるから生きているだけなのだ。
しかし現代人は、生きていることの価値の上に立って生きようとしている。
生きていることの価値なんか、すぐ見失う。
生きていることの価値なんか、もともとないのだもの。
生きていることの価値なんかない、という「嘆き」があるから、世界は輝き、生きていることができるのだ。
生きていることの価値なんかない、という認識を自殺する理由にさせてしまっているのは、いったい誰なのだ。生きている価値を見出せなければ生きていてはいけない、生きていることの価値を見出す「労働」をせよと強迫しているのは、いったい誰なのだ。そんなもの、見出したって、すぐまた見失うのだぞ。
見失うのが、人間なのだぞ。
見失ったら、死ななければならないのか。
そんなことあるものか。
見失う「嘆き」を味わい尽くすことによって、世界は輝いているという「認識の飛躍」が体験される。
若者は、その人生において、いったん生きてあることの価値を見失う。その「嘆き」によって世界が輝きもするし、絶望させられたりもする。どちらに転ぶにしても、認識が飛躍してしまうのが、「若者」という時期なのだろう。
大切なのは、「常識」ではない。世界一のブスを世界一の美人だと思ってしまうような「非常識」という「認識の飛躍」なのだ。
輝いているわけでもないこの世界が、輝いて見えることだ。
動いているわけでもない山が、動いて見えることだ。